100話 Dear
ポロリ、と。
上下の感覚すら曖昧な無の空間で、俺の頬を熱い涙が伝い落ちた。
グリモ=メモリアを通じてすべてを追体験した『観測者』としての俺の意識と、今まさに神の前に立つ『演者』としての俺が、完全に同期していく。
これしかなかった。ネグレイアを超えるためには、この世界に脈々と流れている『絶望への拒絶』という理念を観測すること。そして、ここまでの過去をあったこととしてこのレイ=ヴァルセリアに刻むことが必要だった。
観測者となった時点より前の世界は、勝利が確約された物語となる。だから、”ご都合的な勝利”へと収束させることができた。
しかし、それから先の今に至るまでは、結末が分からない”未来”だった。そこに同期するには、演者としての俺の精神を殺し、そこに入り込む以外方法が無かった。
だから、散っていった仲間の死は、必然だった。その事実が、自分の精神に伝う。
──────だが。立ち止まって嘆いている暇はない。
すべてを終わらせる、使命を果たす時だ。
俺は真っ白な空間に響き渡る声で、絶対的なる神ネグレイアへと告げた。
「俺は一度、この世界を『観測者』として外から眺めた」
ネグレイアは答えない。ただ、無機質な視線を俺に向けている。
「第Ⅺ次観測での、俺とユキの軌跡。第Ⅹ次観測でのリンネの闘志。そして今に至る、ローズが貫き通したロマン。......そのすべての因果を、見てきた」
俺の右手で、漆黒の魔剣ヴァルセリアが静かに、だが確かな熱を帯びて明滅する。
「そして今、俺は再び『演者』となる」
──────足りないことは、わかっている。
目の前に立つ理不尽の化身、ネグレイアを完全に超えるためには、まだ決定的な”何か”が足りない。だが、それは今の次元にいる俺には干渉不能な領域のものだった。
観測領域が足りない。そして、演者として戻ってきてしまった俺は、世界そのものへの干渉力を失ってしまった。
しかし、その干渉力を補う方法など、どうあがいても存在しなかった。
でも、それは諦める理由には足りない。今できる全てを、ここにぶつけるのみだ。
だから、俺は。
俺という特異点、自分自身の存在そのものを、この世界から『拒絶』する。
観測領域が足りないならば、観測する容量を減らすのみ。
この世界は、俺と言う観測者を中心に回っていた。ならば、俺自体を無くすことで、その容量を圧縮できる。
それならば、この足りない力で、少しは世界に変化をもたらせるだろう。
「............っ」
全身の魔力回路が、かつてない異常な悲鳴を上げた。
俺の身体が、足元から徐々に光の粒子となって崩壊し始める。
自分の命と存在を引き換えに、神の絶対的なアルゴリズムに風穴を開ける。すべてを背負った剣聖は、自らの消滅すらもいとわず、静かに漆黒の刃を構え直した。
視界がブレる。自分の意識が、砂のようにパラパラと分裂していくのが分かる。
存在を『拒絶』するという対価を支払った俺の身体は、すでに足元から半透明のノイズに塗れ、消滅のカウントダウンを始めていた。
だが、思考を止めるな。まだだ。
すべてを終わらせるための、あと”一手”。俺の、文字通りの最後の賭け。
俺は、無限の創造を続ける神ネグレイアを見据え、血を吐くような痛みを堪えながら、薄く笑ってみせた。
「俺と、ネグレイア。......二人仲良く、ここでお別れだ」
俺という極大のマイナスと、ネグレイアの無限のプラス。
その二つを強制的に衝突させ、ネグレイアから概念操作を奪う。これで俺とアイツはイーブンだ。
これで舞台は整った。後は組み上げたアルゴリズムを行使するのみ。
「......これが限界だった、か」
俺は残された最後の魔力と、俺自身の命の概念を、魔剣ヴァルセリアへと限界まで圧縮していく。
その意志、概念、その全てがヴァルセリアを再形成する。
ヴァルセリアは少しずつ自身のあるべき姿を変えていき、『再臨』の力を不法に蓄える。
不完全な『再臨』の力は、俺の制御を外れことごとくを理から外す。
だが、それこそが狙いだった。
かつて、虚構となった運命を変えるための挑戦をした記憶。その意識と、この世界そのものの意識を集める。
そしてイレギュラーは、虚となる。
「──────『Re:タイムシフト』ッ!!」
それは時を巻き戻すものでも、進めるものでもない。断続した世界をリセットし、観測者と創造者を切り離した軽量化世界。
その世界に、もう【展開】は訪れないだろう。
観測者は、平和な世界に不必要だ。
それが、”物語”の果てなのだから。
それが、『本物の世界』を作る条件なのだから。
光が、すべてを呑み込んだ。
これでいい。外側の世界は、もう理不尽なループに囚われることなく、ユキやローズたちの足で、真っ直ぐに明日へと進んでいく。
一度消えた皆も、俺が外から再び観測したことで、その存在を取り戻すはずだ。
それがすべてを追体験した俺の、世界を救うための最後の答えだった。
────第∅次観測、開始。




