99話 『観測者』
空間が歪む、内臓を掻き回されるような少しの気持ち悪さの後。
俺たちが辿り着いたのは、世界の果てのような、無と有の狭間だった。
上下左右の感覚すら曖昧な、真っ白でありながら、同時に真っ黒にも見える矛盾した空間。その中心に、人の形を取りながらも、人とは根本的に次元の違う絶対的な存在感を放つ『神』──────ネグレイアが、静かに佇んでいた。
──────ついに、やってきたか。龍盟の主よ
──────わたしは待っていた。この時を。
──────全てを投じ、わたしを超えて見せよ。
耳からではない。直接、魂の奥底を震わせるような、静かで重い声だった。
だが、その短い宣告を最後に。
もう、ネグレイアは喋らない。
構えを取ることもなく、ただそこに在るだけ。一切の感情も、敵意すらも読み取れないその静寂が、何よりも恐ろしかった。
これ以上、話すこともないのだろう。ただ、俺たちがすべてを出し切り、自らの理を超えるか、あるいは無残に散るか。その結末だけを待っているのだ。
「............ッ」
あまりのプレッシャーに、一瞬だけ呼吸が止まりそうになる。
だが、その絶望的な静寂を、始まりの英雄の覇気が力強く切り裂いた。
『行くぞ。......お前たち!!!』
ロッドの咆哮。
それを合図に、俺たち”五選剣”の五人は、神が鎮座する無の空間へと一斉に地を蹴った。
五百年の時を超え、幾千のループを断ち切るための、本当の最終決戦が幕を開けたのだ。
先陣を切ったのは、ローズの銃剣とロッドの魔法、そして弦弥の神速の剣撃だった。
「吹き飛びなさいッ!!」
ローズの銃剣から放たれた、パイルバンカーの機構をも凌駕する渾身の斬撃。
『万物を塵に帰せ』
ロッドが世界を破壊するための、絶対的なる滅びの魔力。
「はぁァァーッ!!」
そして弦弥の、空間すら切り裂く鏡映流の神速の一太刀。
伝説の英雄たちが放つ、一撃必殺の絶技の数々。それらは確かにネグレイアの身体を捉え、確実にその存在を削り取った──────はずだった。
ガキィィィィィィィンッ!!!!
「......なっ!?」
ローズが驚愕に目を見開く。
彼女の斬撃は、神の身体に届く『直前』に、空間から突如として生み出された未知の障壁に阻まれ、弾き返されていた。
ロッドの破壊魔法は、発動した瞬間に生み出された『創造』の概念によって相殺され、弦弥の神速の剣は、彼が踏み込んだ瞬間に後付けで発生した『距離』という概念によって、永遠に届かない場所へと隔離された。
防がれた、のではない。
俺たちの攻撃に合わせて、後付けで『防ぐための何か』がシステムによって創り出されているのだ。
俺は、神が片手間に生み出した迎撃の光を魔剣で捌きながら、眼前のネグレイアの異常性に冷や汗を流していた。
相手は、明らかにおかしい。
ネグレイアは、そこに確固たる実体を持って『存在している』ように見えて、同時に幻影のように『存在していない』ようにも見える。
生と死、有と無。相反する状態を一つの身体に同居させながら、俺たちの攻撃を無力化するための新たな事象──────『プラスの概念』を、無限に生み出し続けているのか......?
......存在と非存在の重ね合わせ。そこから生み出される無限の創造......!
これでは、どれだけ高火力の攻撃を叩き込んでも意味がない。俺たちがマイナスを与えようとするたびに、神が後付けでプラスを生み出し、結果を強制的にゼロへと書き換えてしまう。
「......これが、連鎖を管理する神の力、か」
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
まったくもって、理不尽極まりない。俺たちは今、物理的な強さではなく、この世界を構築する『ルールそのもの』に圧倒されようとしていた。
じりじり、じりじりと。俺たちは確実に押されていた。
どれだけ攻め立てても、どんな絶技を叩き込んでも、ネグレイアが無限に生み出す事象の書き換えによって、すべての結果が無へと収束していく。
だが、システムの化身である神とは違い、生身の人間である俺たちの体力と魔力は、ただ一方的に、限界を超えて減り続ける一方だった。
......どうすればいい。どうすれば、この理不尽な理を破れる......?
俺の脳裏に、焦燥と、ほんの僅かな絶望がよぎった。
──────その、思考が停滞した一瞬の隙。
神は、それを見逃すほど甘い存在ではなかった。俺の心の動きが、ネグレイアに完全に見透かされたのだ。
音もなく。
空間そのものが断層のようにズレたかと思うと、俺の身体を脳天から真っ二つに両断する、絶対的な『消滅の光』が飛んできた。
......躱せないッ!
全身の細胞が死を悟り、凍りついたその瞬間。
「危ないッ!!!」
俺の視界の端から、小さな背中が弾かれたように飛び出してきた。
それを、ローズが、
ロー■が、俺を庇っ──────。
ブツンッ、と。
脳内の神経回路が、強制的に引きちぎられたような異様な感覚。
「............え?」
光が弾け、赤い飛沫が真っ白な空間を汚した。
誰かが、俺の盾となり、その絶対的な一撃を一身に受けて消滅した。その事実は、目の前の空間に漂う光の粒子が確かに証明している。
だが。
俺の頭の中から、その人物に関する『記憶』が、ぽっかりと綺麗に消え去っているのだ。
......誰だ? 俺を庇ったのは、誰なんだ......?
確かにそこに居たはずの仲間。元気な声。白銀の武器。
思い出すべき情報が脳内にあるはずなのに、それに触れようとした瞬間、ノイズが走って認識がすり抜けてしまう。
命を奪われただけじゃない。神の一撃は、その存在の定義そのものを、この世界から『バグ』として削除してしまったのだ。
「がっ、あああぁぁぁぁぁぁぁっ......!!」
頭が割れるように痛くなる。
現実の光景と、欠落した記憶の矛盾が、俺の脳を内側から破壊しようと軋みを上げる。
誰だか分からない。顔も、名前も思い出せない。
でも、絶対に失ってはいけない『誰か』が、確かに俺を庇って死んでしまった。
自分に向けられた愛と犠牲だけが胸に焼け付いているのに、返す宛先が世界から消去されてしまったという、あまりにも残酷な事実。
「あ......ああ......ッ」
俺は、漆黒の魔剣を取り落としそうになるほど両手を震わせながら。
神の理がもたらした、命の死よりも重い『存在の死』に、ただ激しく戦慄していた。
弾かれる。俺という存在が。
この絶対的な神の領域から、システムに紛れ込んだ『イレギュラー』を強制的に削除しようとするように、全方位からの凄まじい重圧と消滅の光が俺を襲う。
「ああアアあああああああああああああああああぁァァぁぁあああああああッッッ!!!!!!!!」
頭を抱え、喉が裂けるほどの絶叫を上げる。
自分の魂が削られているのか、それとも記憶の欠落によるバグが脳を破壊しているのか。もう、まともな思考すら保てない。
そんな俺の叫びを嘲笑うように、神の理は無慈悲に執行され続ける。
また、一人死んだ。
俺を守るように前に出た影が、光に呑まれて消滅した。
カラン、と。真っ白な床に、主を失った一振りの『刀』だけが虚しく落ちている。だが、その刀を誰が振るっていたのか、どんな顔をした男だったのか、もう分からない。
また、もう一人死んだ。
絶望に抗うように燃え上がった温かい『炎』が、空間の書き換えによってふっと散らされ、消えていく。共に笑い合ったはずのその熱が、誰のものだったのか、どうしても思い出せない。
また、だれかが──────。
柔らかな光に包まれた、一番大切だったはずのぬくもりが。俺に向かって何かを微笑みかけながら、ノイズに塗れて消えていく。
......やめてくれ
頼む、やめてくれ。
俺より先に、行かないでくれ。俺を一人にして、消えないでくれ。
認識の器が、限界を超えてひび割れていく。
そんざいがきえていくというストレス。
──────存在が消えていくというストレス。
かんそくできなくなるじじつ。
──────観測できなくなる事実。
たいせつなものをうしなったというかなしみだけがのこり、そのあてさきがせかいからけしとばされていくきょうふ。
──────大切な物を失ったという悲しみだけが残り、その宛先が世界から消し飛ばされていく恐怖。
あたまのなかが、ドロドロにとけていく。
──────頭の中が、ドロドロに溶けていく。
せかいのルールに、おれののうが、たましいが、むりやりかきかえられようとして。
──────世界のルールに、俺の脳が、魂が、無理やり書き換えられようとして。
しかし。
──────しかし。
ひにくにも。それが。ただ一つの『かぎ』だった。
──────皮肉にも。それが。唯一つの『鍵』だった。
観測者は、そこに居ない。
──────かんそくしゃは、そこにいない。
本当の観測者は。
──────ほんとうのかんそくしゃは。
──────ここだ。
魔本に、その全てを書き記し、追体験した。
この物語を。
俺達の。
意志を貫く不撓の物語を。
アルゴリズムを壊すための、その軌跡を。
だから、
あの時。
始まった。
追体験の物語が。
──────『百折不撓のアルゴリズム』が。




