怒る
その日から、ビィの生活は一変した。
信じられないほどフカフカのベッドで寝、美味しい食事におやつまで食べる。慣れない掃除をし、姫の着替えや入浴を手伝い、人形遊びをした。
あまりに今までと違いすぎて、目眩がしそうだ。
フカフカのベッドなんて、どうしても落ち着いて眠れなかったので、上掛けだけかぶって床で寝たら、マイヤに怒られた。けれど、こんなフカフカでは寝れないと訴えたら、わざわざ板の上に薄い布団を敷いたベッドに変えてくれた。
水浴びはしたことがあるが、入浴というものはしたことがなかった。
そう言ったらマイヤは目の色を変え、温かい湯の入った大きな桶にビィを放り込み、頭のてっぺんから足の先まで泡でたっぷりと洗われた。これも生まれて初めての体験だ。
入浴後、驚くほどいい匂いになった自分がなんだかこそばゆい。それなりにマメに水浴びをして身綺麗にしていたつもりだったが、肌も髪も輝かんばかりになってびっくりである。
アリストスセラスはそんなビィを、面白そうに観察している。
どうやら一緒にボール遊びをたっぷりしたおかげか、ビィのことはかなり気に入ったらしい。始終、あとを付いてくる。
他人と距離を置いていたビィにとって、こんな風に誰かから好意を向けられることも、初めての経験だ。
これもまた、妙にこそばゆい。
まあ、一番こそばくて仕方ないのは、侍女の仕事がうまく出来たときにマイヤが褒めてくれたことだろうか。人から褒められた経験がないので、全身がムズムズして大変だった。
さて―――アリストスセラスは、基本的に聞き分けの良い子供のようである。
しかし、マイヤいわく絶賛イヤイヤ期中とのことで、ちょっとしたことでヘソを曲げてしまうそうだ。そしてヘソを曲げると、大変なんだとか。
朝も、服の色が気に食わないと駄々をこね始め、バタバタと振り回す足に蹴られてビィは悶絶しかけた。
支給された服で衝撃は緩和されるが、内臓が飛び出るかと思ったくらいである。
「こうやってイヤイヤ言いながら暴れるせいで、骨折する者が後を立たないのです。一応、姫さまも普段は力を加減してくださるのですけど、興奮すると加減できませんものねぇ」
マイヤが溜め息をつきながらそんなことを言うので、ビィは少し青くなった。
「骨折……?」
「大丈夫ですよ、すぐに魔法で治します。でも、この頃の若い子たちは、一度の骨折ですぐ辞めると言い出して。まったく、堪え性のないこと!」
なるほど、侍女が立て続けに辞めていったのは、そういう理由のようだ。
(この頃の若い子だから、という理由じゃないだろ、それ)
思わず心の中で突っ込み、ビィは自分は骨を折られないように気をつけようと決意するのだった。
ちなみに……マイヤはもう五回は骨折しているそうである。彼女の精神の強靭さは並ではない。
そして、ビィが侍女となって五日目の夕食時のことだった。
アリストスセラスが、皿の中をせっせと仕分けていた。
マイヤがそれに気づき、声を上げる。
「姫さま。駄目ですよ、ちゃんとニンジンも食べてくださいませ」
「イヤ」
「好き嫌いはいけません」
「おいちくないもん」
「駄目です」
「イヤ! これ、おいちくないもん! おいちくないもん!」
叫びながら、アリストスセラスはニンジンをひと欠片、放り投げる。
ニンジンは放物線を描いて、ポトリと床に落ちた。
「姫さま……」
マイヤが苦い顔で言い、どうやって食べさせるかと考え始めたとき……突然、ガン! とテーブルが鳴った。
ビィが拳を振り下ろしたのだ。
アリストスセラスがビクッと身を縮め、驚いたようにビィを見る。
マイヤも、眉を寄せて嗜めようとして……言葉を飲み込んだ。
ビィは、恐ろしい顔で怒っていた。
「おい、姫さんよぉ。おめぇ、自分が何やったか、わかってるか?」
「……なにもやってない」
「あぁ?! ふざけんなぁっ!」
叫んだビィは、がしっとアリストスセラスの胸ぐらを掴んだ。そして高々と姫を持ち上げる。
「食べ物を粗末にするたぁ、どういうつもりだ! 世の中にはなぁ、カビたパンすら食えねぇ子どももいるんだぞ?! あたしなんて、道ばたの雑草食って腹を満たしてた。こんなうめぇもんを投げるなんて……許せねぇ!」
「でもだって……だって、ニンジン、にがいもん……」
「ふざけんな、だったら何も食うな!」
「ふ……ふぇ……ふぇぇぇん……!」
アリストスセラスは怒られたことと、ビィの剣幕に驚いたことで泣き出した。
だが、ビィの怒りは収まらない。
「泣けばいいってか? 甘えてんじゃねぇぞ、こら!」
「ビィ!」
さすがにマイヤも我に返って制止の声を上げた。あまりの激怒ぶりに飲まれていたのだ。
慌ててビィの腕を押さえ、アリストスセラスを降ろそうとする。
「姫さまはまだ三歳です、そんな乱暴に怒るほどのことではないでしょう!」
「何を言うんだ、あんたも飢えたことがないから、そんなことが言える。三食食えて、甘いものまで食えるありがたさを、本当にわかってんのか?!」
「それは……」
「あたしはなぁ、姫さんが投げたニンジン、あいつを八百屋から盗んで顔が腫れ上がるくらいまで殴られたぞ。それでも腹に一本だけ隠して、あとで物陰でこっそり食べた。生のままでな。それでも、今日も生き延びられたとどれだけうれしかったことか。あんたらは、そういうこと、一度も経験したことがないんだろう?!」
「……っ」
マイヤの顔が悲痛に歪む。
姫を助けなければと思うものの、ビィの過酷な子供時代に言葉も出ない。
「ひくっ……」
ふいに、小さなしゃくり声がした。
ぽと、ぽと……大粒の涙をこぼしながら、ビィに吊り上げられたアリストスセラスが「ごめんなしゃい……」と呟く。
「ごはん、なげてごめんなしゃい。ビィ、ごはんたべれなかった。ごはん、だいじ……もう、すききらいしない。ぜんぶ、たべりゅ……」
そして、「うわぁぁぁん!」と盛大に泣き出して、ビィはようやく冷静になったようだった。
目を瞬かせ、ゆっくりとアリストスセラスを下に降ろす。
「悪ぃ。つい、カッとなっちまった。姫さん、まだ小さいのにな」
「ううん、セラスがわるいの……ごめんなちゃい……」
べそべそと涙と鼻水でぐしゃぐしゃのアリストスセラスが小さく頭を振る。
ビィは、服の袖でアリストスセラスの顔を拭いながら、頭を優しく撫でた。
「悪くねぇよ、あんたはこの中しか知らない。……でも、外では食べたくても食べられないやつがいっぱいいる。だから、これからは好き嫌い言わずにちゃんと食べなきゃダメだ」
「うん、わかった」
「よし」
ニカッと二人は笑い合う。
マイヤは呆気に取られた様子でそれを見ていたが、すぐに渋い顔になった。
「ビィ。ポケットにハンカチが入っています。姫さまの顔を拭くなら、これからはそれを使いなさい」
「へ? ハンカチ?」
ポケットをがさがさと探り、ハンカチを取り出した。
取り出したハンカチを広げ、ビィは目を丸くする。
「えっ、こんなキレイな布を使うのか?!」
「使います。汚れたら、洗えばいいのです。服を洗うよりも簡単でしょう」
「あ、そっか」
へえ……と感心したように頷くビィ。
それを見て、マイヤは堪えきれず苦笑を漏らした。
「まあまあ! あなたには、本当にたくさん教えることがありそうだこと! そして……わたくしたちもあなたから学ばねばならないのでしょう。よろしくお願いしますね、ビィ」
思わぬ言葉をかけられて、ビィはきょとんとした。
「え? あたしから?」
「ええ。この狭い世界から出たことのないわたくしや、姫さまに……街の人々の生活を教えてくださいませ」
「おちえてくだちゃいませ」
さっきまでビィに吊り上げられて怒られ、べちゃべちゃに泣いていたのを忘れたように、アリストスセラスも真面目な顔でマイヤの言葉を真似る。
ビィは……ここに来てからもう何度目か分からないが、胸の奥がこそばゆくなって、慌ててそっぽを向いた―――。
その日から、アリストスセラスはビィの言うことはすぐに聞くようになった。怒らせたら怖いからというより、彼女をボスだと認識をしたのかも知れない。
尊敬するようなキラキラとした目でビィを見、彼女のすることを片っ端から真似する。特に行儀の悪い行動は見逃さない。
おかげでマイヤは、アリストスセラスを追って走り回る日々から、四六時中、ビィとアリストスセラスを叱っては正しい行動を教える毎日になった。
「気苦労が倍になった」とマイヤは嘆くが……案外、その顔は楽しそうである―――。
次の更新は来週。連休明けになるかも知れません……。




