第2話 まだ死んでいない
落骸海は、第七外縁区には入ってこなかった。
ノアは最初、それを信じられない思いで見ていた。
小窓の向こうは、もう黒い水のようなもので埋まっている。青白い粒が流れ、外壁のすぐ近くで渦を巻いていた。
区画は海の中に沈んでいる。
なら、壁の割れ目からも、排水溝からも、古い通風管からも、何かが入り込んでくるはずだった。
だが、来ない。
来ないことが、かえって怖かった。
「壁際から離れて! 中央へ!」
ノアは制御盤から振り返り、声を張った。
「外壁側の通路には入らないでください。まだ安全か分かりませんから」
子供たちはすぐには動けなかった。落下の衝撃で座り込んだまま、泣いている子もいる。棚から落ちた木箱が床に散り、割れた板が通路を塞いでいた。
「聞こえた子から動いて! 小さい子の手を取って移動するのよ」
ソフィアが続けて言った。
「走らない。押さない。中央の柱のところへ」
カイがイリの手を引いた。ミナは床に落ちた板を踏まないよう、ルカの背中を押している。セナは両耳を押さえたまま、外壁の方を見ていた。
バルドは倒れかけた棚を肩で押し返し、外壁側の通路入口へ木箱を転がした。
「ここは塞ぐぞ」
「完全には塞がないでください。中を見に行けなくなります」
「半分だけだ。子供が入り込まねえようにする」
ノアはうなずき、床の傾きを見た。
床はわずかに外壁側へ下がっている。もし海が入るなら、まず低い通路の溝に溜まる。そこから排水溝を伝って、地下広場へ戻ってくるはずだ。
「トマ、排水溝を見られる?」
「行ける!」
「一人では行かない。入口から覗くだけ。水が上がってきていたら、触らず戻る」
トマは返事をして、カイに腰の紐を結ばれた。いつもなら文句を言うところだが、今は何も言わない。顔が白かった。
ノアは制御盤の下から古い布切れを拾い、外壁側の床へ置いた。
「バルドさん、この布を溝の手前に置いてください。濡れたらすぐ分かります」
「分かった」
バルドが布を置く。
黒い水は来ない。
布は乾いたままだった。
トマが通路入口から声を上げた。
「排水溝、上がってない! でも、音がするよ!」
「どんな音?」
「外で砂を流してるみたいな音!」
ノアはセナを見た。
セナは小さくうなずいた。
「同じ。ざらざらしてる。でも、ぽたぽたじゃない」
水が垂れる音ではない。
膜の外を、何かが擦っている音だ。
ノアは制御盤の小窓へ戻った。
外壁の外側に、薄い青白い膜がある。膜は壁に張りついているのではなく、わずかに離れて区画を包んでいるように見えた。その表面を、細かな粒が流れている。
落骸海は、膜の外にある。
中には入ってきていない。
そこまでは分かった。
問題は、いつまで保つかだった。
「海は入っていません」
ノアは中央に集まった皆へ言った。
その言葉で泣き止む子もいた。逆に、堰が切れたように泣き出す子もいた。
「でも、外にはあります。どこから入るか分かりません。壁際には近づかないでください」
「どういう理屈だ、これは?」
バルドが率直に問いかける。
「分かりません。ただ、おそらく都市を守るための仕組みが働いていると思います。シールドのようなものなのではないかと」
「あれか?」
バルドが制御盤の外壁を囲む絵を顎で示した。
七つの灯のうち、外壁の絵は青く点いている。だが、他の灯より弱い。時々、線が細くなるように暗くなる。
「たぶん、あれです」
「たぶん、か」
「古代文字だと思いますが、文字が読めませんから。けど、外壁の絵と、小窓の外の光は繋がっていそうです」
エリスが壁際で顔を上げた。
灰色の管理局外套は錆の粉で汚れている。額に浅い傷があり、左腕を押さえていた。
切り離し前、子供たちの退避確認に残り、閉鎖扉が落ちて戻れなくなった管理局の技師だ。
「現行の防壁なら、状態名が出るはずです」
「分かりますか?」
ノアが聞くと、エリスは制御盤を見て、悔しそうに眉を寄せた。
「いえ、読めませんね。これは相当古い文字ではないかと……。この辺りの装置は、古代の機械のようです。規格が違う。少なくとも、私が学校で習ったものではありません」
「光り方からすると、状態は良くなさそうですよね?」
「そうね。何か対処がいるのかもしれないわね」
「何か分かるか、調べていただけますか?」
戸惑いつつも、エリスは答える。
「何ができるかは分からないけど、一応調べてみるわ」
「ありがとうございます。カイも手伝ってあげて」
カイは黙ってうなずいた。
「次は何を確認するべきか……」
「空調は早めに確認するべきじゃねぇか?」
バルドが言う。
海が入ってこなくても、息ができなくなれば終わる。
今、誰も窒息していない。だがそれは、落ちる前の空気が残っているだけかもしれない。シールドが外を塞いでいるなら、区画の中で空気が循環し、再生し続けなければならない。
ノアは制御盤を見た。風車の絵の灯は青い。だが、灯が青いから安全だとは言えない。
「ミナ、細い糸か布の切れ端はある?」
「ある」
ミナは自分の袖口からほつれた糸を抜き、ノアへ渡した。
ノアはそれを通風口の下へ近づけた。
糸の先が、わずかに揺れた。
一度だけではない。弱いが、同じ向きへ流れている。
「風は来ています」
「それなら息はできるの?」
ルカが聞いた。
「今は」
「ずっと大丈夫かは、まだ分からない」
ルカの頭を撫でながら答える。
ルカは唇を結んだ。それでも水桶を抱え直し、こぼさないように両腕で押さえたまま、ソフィアのそばへ座った。
「通風口の下に火を近づけるのは?」
トマが言った。配管潜りの時に使う空気の確認方法が、ここでも使えないかと考えたようだ。
「火は使っちゃだめよ」
リナが即座に止めた。
「薬箱の酒精が割れています。油もこぼれている」
「なら、糸で見ていくしかないね」
「トマ、中央側の通風口から循環を追ってもらえる? どこから風が来て、どこで止まっているか見てほしい。外壁側には出ないように注意して」
「誰か一緒に行ける?」
「僕が行く!」
ルカが手を上げ、トマと一緒に動き始めた。
「怪我人を見ます」
リナが言った。
「ソフィア姉さん、怪我人がいないか確認してもらえるかしら? 私はエリスさんの腕の様子を見てくるから」
「ええ。みんなこっちに来て。痛いところがないか教えてね」
ほかの子供たちはソフィアに任せて、ノアは次の確認を始める。
沈降は終わっていない。
ただ、今は落ちるというより、ゆったりと沈んでいる。小窓の外で、青白い粒が下から上へ流れて見える。こちらが下へ動いているからだ。
問題は、沈み続けた先だった。
「このまま沈み続けるのかな?」
ユリがノアより先に言った。
中央に座ったまま、壊れた椅子の脚を握っている。
「分からない。外が暗くて見えないからね」
ノアは制御盤に出ている窓を見ながら答える。
「ただ、今の沈み方なら、底に着いた瞬間に全部が砕けるような速さではないと思う」
「確かに、すぐ砕ける、って感じではねぇな」
バルドが短く答える。
「一応、外の様子は見張っておこう。記録も取った方がいいな」
「私、見ています。記録も取りますね」
ミナが買って出た。
「うん、お願い。ユリも一緒に頼める? 交代で」
「うん、分かった」
あとは、何を。
ノアが思考を巡らせていると、マーヤから声がかかる。
「ノア坊、暗くなってきておらんか?」
落骸海の中は暗い。海上からの光が徐々に届かなくなっている。
「まずいな。急いで明かりを確保しないと。予備灯は?」
ノアが聞く。
バルドが外壁側とは反対の倉庫扉を見た。扉の上半分は、落ちた梁で潰れている。
「あそこにあるはずだが、気をつけないと梁が落ちる」
「ここは、バルドさんと俺がやらないとだめかな」
「分かった。準備しとくから、お前さんが取り掛かれそうなら声をかけてくれ」
ノアは深く息を吸った。
「マーヤ婆、他に急ぎでやらなきゃいけないことはないかな?」
「今見えておる範囲では、手は打てておると思うぞ」
マーヤはそこで、ノアの顔を見た。
「ノア坊、ちょっと肩の力を抜け。お前さんがいなかったら、我らはもう無事では済んでおらん。ノア坊は十分やれておるからの」
「ありがとうございます。でも、ここは何とか乗り切らないと」
「そうじゃな。しかし、張り詰めすぎると、どこかで切れるからの。注意するんじゃぞ」
「はい」
まだ、何も解決していない。
それでも、次に見るものは分かり始めていた。
ノアは小窓へ目を戻した。
黒い海の中で、青白い膜が薄く揺れている。
区画はまだ沈んでいる。
シールドは保っている。
けれど、長く保つ保証はどこにもなかった。
ノアは思考を戻し、明かりを確保するためバルドのもとへ向かった。




