第9話 消された名前
翌日の放課後、レンと私は図書室にいた。
机の上には『大陸植生史概論』と、関連資料が数冊。レンは真剣な顔で本のページをめくっている。普段の授業ではこんな顔を見たことがない。
「やっぱ、ここだけきれいに切られてるな」
レンが切り取り跡を指でなぞった。
「他のページは黄ばんでるのに、切り口だけ白い。ってことは——」
「切り取られたのは最近……?」
「少なくとも八十年前じゃないだろ。ここ数年、もしかしたらもっと最近だ」
レンの観察力に、素直に驚いた。私は内容ばかりに気を取られていて、切り口の色なんて見ていなかった。
「著者が分かれば、もっと詳しい情報が出てくるかもしれない」
「著者名、かすれて読めないんだよね……」
「奥付は?」
「奥付……」
本の最後のページを開いた。出版情報が印字されている。インクは薄れているが、著者名の欄だけは——
黒く塗り潰されていた。
インクではない。何か別の塗料で、完全に。
「……ここまでするか」
レンが低く呟いた。
「名前を知られたくないってことだろ。ページを切り取っただけじゃ足りなくて、著者そのものを消した」
「誰が?」
「分からない。でも——個人じゃないだろ、これは」
レンの目が鋭くなった。
「組織的だ」
その言葉が、図書室の静寂に重く沈んだ。
◇
図書室のデータベースで、八十年前の出版物を検索した。『大陸植生史概論』はヒットしない。出版社名で検索しても、該当なし。まるで最初から存在しなかったかのように、記録から消えている。
「ネットにも何もないな」
レンが端末の画面を睨んでいる。
「公共のデータベースから消すって、相当な権限がないとできないぞ」
「政府機関……?」
「分からない。でも少なくとも、巨樹について深く調べた人間がいて、その人間の研究成果が誰かに消された。それは確かだ」
私は本を手に取った。黄ばんだ表紙。角が丸くなったページ。八十年の歳月を耐えたこの本は、誰かの人生の結晶だ。名前を消され、研究を切り取られ、存在ごと抹消された誰かの。
「この人、どうなったんだろう」
「……」
「研究を消されて、名前を消されて。本人は——」
その先を言えなかった。言いたくなかった。
「ハンナ」
「……分かってる。でも、調べるのをやめるわけにはいかない」
「やめろとは言ってない。ただ、慎重にやろう」
レンがまっすぐ私を見た。いつもの困った顔じゃない。覚悟を決めた顔だった。
「この本以外に、手がかりはないのか?」
「あるかもしれない。でもここの図書室にはなさそう。関連書籍は全部確認したけど、巨樹の組成について踏み込んだものはひとつもなかった。まるで——」
「最初からそういう研究が存在しないことにされてる」
「……うん」
二人の間に沈黙が落ちた。窓の外で、巨樹の葉が風に揺れている。その音が、ささやき声のように聞こえた。
◇
「じゃあ、ここ以外を当たるしかないな」
レンが椅子の背にもたれて、腕を組んだ。
「たとえば?」
「この街の図書室が駄目なら、もっと古い場所だ。記録が電子化される前の——紙でしか残っていない資料がありそうな場所」
「古文書館?」
「遠いけどな。中央区の第一資料庫。あそこには電子化されていない紙の文書が大量に保管されてるって、歴史の授業で聞いたことがある」
「でも、一般公開されてないよね」
「……まあ、そうだな」
行き詰まり。でも、もうひとつの可能性が頭の中にあった。ずっと考えていて、でも口に出すのが怖かった可能性。
「……森」
「は?」
「街の外。巨樹の森の奥。誰も行かない場所」
レンの表情が変わった。
「ハンナ——」
「この本を書いた人は、巨樹の中心部からサンプルを採取したって書いてあった。それは図書室や研究所じゃできない。実際に巨樹のそばまで行って、直接調べたってことだよ。つまり、この著者は森に入った人だ」
「だからって——」
「もしこの人が森の中で研究をしていたなら、現地に何か残っているかもしれない。研究の拠点とか、記録とか」
レンは黙った。反論したいのだろう。でも、私の推論が筋が通っていることは分かっているはずだ。
「……すぐにとは言わない」
「当たり前だ。準備もなしに森に入るのは自殺行為だ」
「分かってる。だから、まずは森について調べる。入口はどこにあるのか、どこまでなら人が行ったことがあるのか」
レンがしばらく考えて、ゆっくりと頷いた。
「とにかく森に関する情報をできるだけ集めよう。それで見通しが立ったら、次を考える。立たなかったら——」
「立たなかったら?」
「……そのときはそのとき考える」
笑った。少しだけ。レンも少しだけ笑った。
怖い。でも、ひとりじゃないと思えるだけで、恐怖の形が少し変わる。




