第5話 切り取られた第七章
学校に着くと、教室にはまだ数人しかいなかった。
自分の席に座り、鞄から一冊の本を出す。図書室の奥、埃をかぶった棚から見つけた古い本。『大陸植生史概論』。著者名はかすれて読めない。出版年は——八十年前。
こんな本を読んでいると知られたら、変人扱いされるだろう。いや、もうされているか。
ページをめくる。巨樹の分布図。成長速度の推計。根系のネットワーク構造。どれも学術的で退屈な内容だ。でも、第七章に差しかかったとき、手が止まった。
「第七章 巨樹中心部の組成異常について」
「複数の調査団が巨樹の幹中心部から採取したサンプルには、通常の植物細胞とは異なる組成が確認された。特に注目すべきは、カルシウムとリンの含有比率であり、これは——」
——ページがなかった。
第七章の途中、ちょうど核心に差しかかる部分から、数ページが切り取られていた。カッターのような鋭い刃物で、きれいに。
偶然じゃない。誰かが意図的に取り除いた。
心臓が跳ねた。カルシウムとリンの含有比率。その組み合わせに、何か聞き覚えがある気がした。生物の授業で——
「ハンナちゃん、おはよー!」
本を閉じた。反射的に。まるで見てはいけないものを見ていたかのように。
「あ……おはよう、ツムギ」
「早いね!もしかして一番乗り?」
「まあ……ちょっと目が覚めちゃって」
ツムギが私の隣の席に鞄を置く。——そう、ツムギの席は私の隣なのだ。席替えの結果そうなった。ツムギは「やった、隣だね!」と喜んでいた。私は、うまく喜べなかった。
「なに読んでたの?」
「……べつに。ただの本」
「ふーん?」
ツムギはそれ以上聞かなかった。興味がないのか、踏み込まない優しさなのか。たぶん後者だ。ツムギはそういう子だ。明るいけれど、ちゃんと線引きができる。
だから厄介なのだ。嫌いになれない。
「ねえハンナちゃん、今日の放課後さ——」
「おはよう」
教室のドアが開いて、レンが入ってきた。
ツムギの顔がぱっと明るくなる。向日葵みたいに。分かりやすくて、まっすぐで、見ていると胸のどこかが軋む。
「レンくん、おはよー!今日も課題忘れてない?」
「忘れてねえよ。たまには信用しろ」
「だって先週——」
「あれは忘れたんじゃなくて、鞄に入れ忘れただけだ」
「それを忘れたっていうんだよ!」
二人が笑う。教室の朝の空気が柔らかくなる。
私はそっと本を鞄にしまった。
◇
三時間目、生物の授業。
巨樹とは関係のない、普通の植物の細胞構造についての授業だった。でも私の頭の中では、あの本の切り取られたページのことがぐるぐる回っている。
カルシウムとリンの含有比率。
教科書をめくった。人体の構成元素のページ。
「人体を構成する主要元素:酸素65%、炭素18%、水素10%、窒素3%——」
その下に、骨の構成成分についての記述。
「骨の主成分はリン酸カルシウムであり、カルシウムとリンの比率は——」
手が震えた。
あの本が言いかけていたのは、これだ。巨樹の中心部に含まれるカルシウムとリンの比率が、人間の骨と一致する。
——まさか。
いや、決めつけるのはまだ早い。カルシウムとリンの組み合わせなんて、自然界にいくらでもある。鉱物にだって含まれている。偶然の一致かもしれない。
でも、もしそうなら——なぜあのページだけが切り取られていた?
偶然なら、隠す必要がない。
隠したということは、知られたくない真実がそこにあるということだ。
「——ハンナさん?」
「はい」
「顔色が悪いけれど、大丈夫?」
先生が心配そうにこちらを見ていた。クラスの視線が集まる。
「……大丈夫です。少し、寝不足で」
「保健室に行く?」
「いえ、平気です」
平気なわけがなかった。でも、保健室に行ったところで、この頭の中のざわめきは治らない。
カルシウムとリン。脈打つ幹。人肌の温もり。
巨樹の中に、人がいる?
馬鹿げている。非科学的だ。でも——
窓の外の巨樹を見た。灰色の幹。その中に流れる、見えない脈動。
——どくん。
教室のガラス越しに、感じた。あるいは、感じた気がした。もう、その区別すらつかなくなっている。




