最終話 薄緑の朝
数日が経った。
サイレンはもう聞こえない。街は静かだった。あの夜、倒れていた人々のことも、肌に現れた緑色の線も、誰も話題にしなくなっていた。最初から何もなかったみたいに。
教室に行くと、ツムギの机がなかった。
なかった、というのは正確ではない。最初からそこに机がなかったかのように、教室の配置が変わっていた。
「——ねえ、ツムギの机は?」
隣の席にいた女子に聞いた。
「ツムギ?誰?」
別のクラスメイトにも聞いた。先生にも聞いた。
誰も知らなかった。
栗色の髪をリボンでまとめた、花みたいに笑う女の子のことを。唐揚げを多めに作ってくる子のことを。誰とでもすぐに打ち解けて、教室の空気をいつも柔らかくしていた子のことを。
誰も、覚えていなかった。
レンにも聞いた。
「レン——ツムギのこと、覚えてる?」
祈るような気持ちだった。レンだけは。レンなら。
「……ツムギ?」
レンの目に、何も浮かばなかった。
「知らないな。誰だ、それ」
膝から力が抜けた。
巨樹を「当たり前のもの」として受け入れるように。空があること、海があること、重力があることと同じように。ツムギが最初からいなかったことが——世界の「当たり前」になっていた。
私だけが覚えている。
あの笑顔を。あの声を。あの夜のメールを。「おかえり」と言ってくれた、最後の言葉を。
教室に、薄緑の光が差し込んでいる。誰かが窓を開ける。誰かが笑う。先生が出席を取る。ツムギの名前は、呼ばれない。
それでも——朝は来る。何も変わらない朝が。
私の机の隣に、薄緑の光だけが静かに揺れていた。
HOME - 巨樹が空を覆う世界で - 完
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