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HOME - 巨樹が空を覆う世界で -  作者: lovely plants
第5章 おかえり

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第22話 おかえり

 フェンスが見えた。


 夕日が錆びた金属を赤く染めている。警告板が風に揺れている。


 そして——フェンスの手前に、小さな影が見えた。


 最初は、座っているのだと思った。


 膝を抱えて、フェンスにもたれて。疲れて座り込んでいるのだと。


 でも——近づくにつれて、違和感が膨らんでいった。


 姿勢がおかしい。膝を抱えているのではない。体が横に傾いている。フェンスに寄りかかっているのではなく——倒れかけている。


「……ツムギ?」


 レンの声が、微かに変わった。


 二人同時に走り出した。私の足はもつれて、転んだ。膝をついて、それでも這(は)うようにして——


「ツムギ!!」


 レンが先にたどり着いた。


 ツムギは横たわっていた。目を閉じて。フェンスの根元に、花が倒れるように。


 顔が白かった。紙のように白い。唇に色がない。


 そして——


 首筋に、薄い緑色の線が走っていた。


 葉脈のような模様。腕にも。手の甲にも。こめかみにも。栗色の髪の生え際に、小さな——芽のようなものが覗いていた。


「なに——なにこれ——」


 這いつくばったまま、ツムギの手を掴んだ。冷たかった。人肌の温度じゃない。もっと——巨樹の幹に触れたときと同じ。


「おいツムギ!ツムギ!!」


 レンがツムギの肩を揺する。返事がない。


「脈——脈は——」


 レンが震える手でツムギの手首に指を当てた。


「ある……でもすごく弱い……ハンナ、これ——体に——なんだよ——!」


 分かった。


 一瞬で、全部分かった。


 遺跡の中で光が弾けた瞬間。あの軋む音。装置が反応した振動。


 あれは——蓄積されたエネルギーが行き場を失った音だった。私という器に注がれるはずだった力が、私が拒絶(きょぜつ)したことで暴走した。その力は、最も近くにいた——超古代文明の血を持たない——人間に向かった。


 私が人間に戻ることを選んだ、まさにその瞬間——ツムギの体が、種子に変わり始めた。


「私の——せいだ」


 声が出た。自分の声が聞こえた。遠くて、薄くて、誰のものか分からない声。


「私が力を手放したから——遺跡が——代わりに——」


「何言って——ハンナ、そんな——」


「私が殺したの!」


 叫びが夕暮れの空に吸い込まれた。


「私があそこに行ったから!私が力を拒んで、逃げ出したから!その代償(だいしょう)が——ツムギに——」


「落ち着け!まだ生きてる!脈はある!」


 レンが叫んだ。でもその手は震えていた。ツムギの腕に広がっていく緑の線を見つめながら。


「俺が——俺がここに置いてきたんだ」


 レンの声が、割れた。


「安全だと思った。フェンスの外なら——森の力は届かないと——」


「レンのせいじゃない」


「お前のせいでもない!」


「私のせいだよ!」


 叫びが重なった。二つの声。二つの罪悪感。


 どちらのものでもない罪。どちらのものでもある罪。


◇


「……ん」


 声がした。


 かすかな。虫の羽音ほどの。


 ツムギの瞼(まぶた)が、震えていた。


「ツムギ!」


「ツムギ!!」


 薄く、目が開いた。茶色だったはずの瞳が——ほんの少し、緑がかっていた。焦点が合わない。ぼんやりとした視線が、空をさまよっている。


「……あ」


 乾いた唇が動いた。


「……レン、くん……?」


「ここにいる!ここにいるぞ、ツムギ!」


「……ハンナ……ちゃん……?」


「いるよ。ここにいる。ここにいるから」


 ツムギの手を握りしめた。冷たい。でもまだ柔らかい。まだ人間の手だ。まだ——


 ツムギの目が、ゆっくりと私を捉えた。ぼんやりとした緑の瞳が、少しだけ——ほんの少しだけ——鮮明になった。


 そして——微かに、口元が動いた。


「……おかえり」


 壊れた。何かが、私の中で、完全に壊れた。


「おかえりじゃないよ……ツムギ、ツムギの体が——」


「……ん……知ってる……なんか……変な感じ……する」


 ツムギの声は穏やかだった。痛みがないのか、痛みの向こう側にいるのか。


「助けを——誰か呼ばないと——」


「ハンナ、ちゃん」


「待ってて!今——」


「ハンナちゃん」


 ツムギの手が、微かに動いた。握り返そうとしている。力はほとんどない。でも、指が私の手を探している。


「……聞いて」


「ツムギ——」


「私ね……ここで……待ってて……よかった」


「——良くないよ!ツムギが来なければ——」


「ちがう、の」


 ツムギが首を微かに振った。緑色の線が首筋を這い上がっていく。


「……来なくても……後悔した。来て……こうなっても……後悔してない」


「ツムギ……」


「だって……私……ハンナちゃんに……おかえりって……言えたから」


 涙が、止まらなかった。ツムギの顔の上に、私の涙が落ちた。ツムギの頬に、透明な水滴。


「ハンナちゃん……泣かないで……」


「泣くよ……泣くに決まってるじゃん……」


「……あはは……ハンナちゃんの……泣き顔……初めて見た」


 笑っていた。ツムギは笑っていた。こんな時でも。顔に葉脈が広がっていても。体が壊れていても。


「……ねえ……ハンナ、ちゃん」


「なに。なんでも言って。なんでも聞くから」


「……私ね」


 ツムギの目が、まっすぐ私を見た。緑色に変わりかけた瞳の中に、まだツムギがいた。まだ——ツムギの光が残っていた。


「……ハンナちゃんの……隣の席で」


 息が止まりそうだった。


「……よかった」


◇


 ツムギの手から、力が消えた。


 目が、閉じた。


 微笑んだまま。


◇


 叫んだ。


 名前を呼んだ。何度も。何度も。


 返事はなかった。


 レンが脈を探った。何度も。手首。首筋。もう——なかった。


 ツムギの体から、小さな芽が生えていた。指先から。こめかみから。胸の上から。小さな、緑色の芽。新しい命のようでもあり、墓標(ぼひょう)のようでもあった。


 夕日が沈んでいく。薄緑の光が、ツムギの体を染めていた。


 レンが泣いていた。声を殺して、拳を地面に叩きつけて。ツムギの傍らで、肩を震わせて。


 私はツムギの手を握り続けていた。もう握り返してくれない手を。冷たくなっていく手を。


 空が暗くなっていく。夕焼けの赤が消えて、薄い紫に変わって、やがて——夜が来る。


 それでも、手を離せなかった。


 離したら、全部が終わってしまう気がした。


 ツムギが「おかえり」と言ってくれた声が、まだ耳の奥に残っている。あたたかくて、かすかで、壊れそうなほど優しい声。


 ——おかえり。


 私は帰ってきた。ツムギが待っていてくれた場所に。


 でも、ツムギは——


 握った手の中で、ツムギの指が少しずつ硬くなっていく。人間の手から、もっと別の何かに変わっていく。


 それでも私は、握り続けていた。



第5章 おかえり 了

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