第22話 おかえり
フェンスが見えた。
夕日が錆びた金属を赤く染めている。警告板が風に揺れている。
そして——フェンスの手前に、小さな影が見えた。
最初は、座っているのだと思った。
膝を抱えて、フェンスにもたれて。疲れて座り込んでいるのだと。
でも——近づくにつれて、違和感が膨らんでいった。
姿勢がおかしい。膝を抱えているのではない。体が横に傾いている。フェンスに寄りかかっているのではなく——倒れかけている。
「……ツムギ?」
レンの声が、微かに変わった。
二人同時に走り出した。私の足はもつれて、転んだ。膝をついて、それでも這うようにして——
「ツムギ!!」
レンが先にたどり着いた。
ツムギは横たわっていた。目を閉じて。フェンスの根元に、花が倒れるように。
顔が白かった。紙のように白い。唇に色がない。
そして——
首筋に、薄い緑色の線が走っていた。
葉脈のような模様。腕にも。手の甲にも。こめかみにも。栗色の髪の生え際に、小さな——芽のようなものが覗いていた。
「なに——なにこれ——」
這いつくばったまま、ツムギの手を掴んだ。冷たかった。人肌の温度じゃない。もっと——巨樹の幹に触れたときと同じ。
「おいツムギ!ツムギ!!」
レンがツムギの肩を揺する。返事がない。
「脈——脈は——」
レンが震える手でツムギの手首に指を当てた。
「ある……でもすごく弱い……ハンナ、これ——体に——なんだよ——!」
分かった。
一瞬で、全部分かった。
遺跡の中で光が弾けた瞬間。あの軋む音。装置が反応した振動。
あれは——蓄積されたエネルギーが行き場を失った音だった。私という器に注がれるはずだった力が、私が拒絶したことで暴走した。その力は、最も近くにいた——超古代文明の血を持たない——人間に向かった。
私が人間に戻ることを選んだ、まさにその瞬間——ツムギの体が、種子に変わり始めた。
「私の——せいだ」
声が出た。自分の声が聞こえた。遠くて、薄くて、誰のものか分からない声。
「私が力を手放したから——遺跡が——代わりに——」
「何言って——ハンナ、そんな——」
「私が殺したの!」
叫びが夕暮れの空に吸い込まれた。
「私があそこに行ったから!私が力を拒んで、逃げ出したから!その代償が——ツムギに——」
「落ち着け!まだ生きてる!脈はある!」
レンが叫んだ。でもその手は震えていた。ツムギの腕に広がっていく緑の線を見つめながら。
「俺が——俺がここに置いてきたんだ」
レンの声が、割れた。
「安全だと思った。フェンスの外なら——森の力は届かないと——」
「レンのせいじゃない」
「お前のせいでもない!」
「私のせいだよ!」
叫びが重なった。二つの声。二つの罪悪感。
どちらのものでもない罪。どちらのものでもある罪。
◇
「……ん」
声がした。
かすかな。虫の羽音ほどの。
ツムギの瞼が、震えていた。
「ツムギ!」
「ツムギ!!」
薄く、目が開いた。茶色だったはずの瞳が——ほんの少し、緑がかっていた。焦点が合わない。ぼんやりとした視線が、空をさまよっている。
「……あ」
乾いた唇が動いた。
「……レン、くん……?」
「ここにいる!ここにいるぞ、ツムギ!」
「……ハンナ……ちゃん……?」
「いるよ。ここにいる。ここにいるから」
ツムギの手を握りしめた。冷たい。でもまだ柔らかい。まだ人間の手だ。まだ——
ツムギの目が、ゆっくりと私を捉えた。ぼんやりとした緑の瞳が、少しだけ——ほんの少しだけ——鮮明になった。
そして——微かに、口元が動いた。
「……おかえり」
壊れた。何かが、私の中で、完全に壊れた。
「おかえりじゃないよ……ツムギ、ツムギの体が——」
「……ん……知ってる……なんか……変な感じ……する」
ツムギの声は穏やかだった。痛みがないのか、痛みの向こう側にいるのか。
「助けを——誰か呼ばないと——」
「ハンナ、ちゃん」
「待ってて!今——」
「ハンナちゃん」
ツムギの手が、微かに動いた。握り返そうとしている。力はほとんどない。でも、指が私の手を探している。
「……聞いて」
「ツムギ——」
「私ね……ここで……待ってて……よかった」
「——良くないよ!ツムギが来なければ——」
「ちがう、の」
ツムギが首を微かに振った。緑色の線が首筋を這い上がっていく。
「……来なくても……後悔した。来て……こうなっても……後悔してない」
「ツムギ……」
「だって……私……ハンナちゃんに……おかえりって……言えたから」
涙が、止まらなかった。ツムギの顔の上に、私の涙が落ちた。ツムギの頬に、透明な水滴。
「ハンナちゃん……泣かないで……」
「泣くよ……泣くに決まってるじゃん……」
「……あはは……ハンナちゃんの……泣き顔……初めて見た」
笑っていた。ツムギは笑っていた。こんな時でも。顔に葉脈が広がっていても。体が壊れていても。
「……ねえ……ハンナ、ちゃん」
「なに。なんでも言って。なんでも聞くから」
「……私ね」
ツムギの目が、まっすぐ私を見た。緑色に変わりかけた瞳の中に、まだツムギがいた。まだ——ツムギの光が残っていた。
「……ハンナちゃんの……隣の席で」
息が止まりそうだった。
「……よかった」
◇
ツムギの手から、力が消えた。
目が、閉じた。
微笑んだまま。
◇
叫んだ。
名前を呼んだ。何度も。何度も。
返事はなかった。
レンが脈を探った。何度も。手首。首筋。もう——なかった。
ツムギの体から、小さな芽が生えていた。指先から。こめかみから。胸の上から。小さな、緑色の芽。新しい命のようでもあり、墓標のようでもあった。
夕日が沈んでいく。薄緑の光が、ツムギの体を染めていた。
レンが泣いていた。声を殺して、拳を地面に叩きつけて。ツムギの傍らで、肩を震わせて。
私はツムギの手を握り続けていた。もう握り返してくれない手を。冷たくなっていく手を。
空が暗くなっていく。夕焼けの赤が消えて、薄い紫に変わって、やがて——夜が来る。
それでも、手を離せなかった。
離したら、全部が終わってしまう気がした。
ツムギが「おかえり」と言ってくれた声が、まだ耳の奥に残っている。あたたかくて、かすかで、壊れそうなほど優しい声。
——おかえり。
私は帰ってきた。ツムギが待っていてくれた場所に。
でも、ツムギは——
握った手の中で、ツムギの指が少しずつ硬くなっていく。人間の手から、もっと別の何かに変わっていく。
それでも私は、握り続けていた。
第5章 おかえり 了




