第20話 三十七度の熱
声。
光の声ではない。もっと粗くて、もっと不器用で、もっと——人間の声。
息を切らして、叫んでいる。喉が潰れそうなくらいの声量で。
遠い。でも確かに聞こえる。光の膜を突き破って、私の鼓膜を震わせている。
「ハンナ!聞こえてるだろ!!」
——誰?
この声を、知っている。光の奥に溶けかけた記憶が、かすかに震える。
「戻って来い!ハンナ!!」
声が近づいている。光の中で、影が動いた。人の形をした影。走っている。転びそうになりながら。根に足を取られながら。
レンだ。
汗だくで、服が破れていて、頬に擦り傷がある。息が荒い。走ってきたのだ。あの長い長い森の道を。
でも——なぜ?
私はいなくなったのに。教室を出て、フェンスを越えて、自分から消えたのに。レンにはツムギがいるのに。
なのに——なぜ、ここにいるの?
「お前——何やって——」
レンが遺跡の光に照らされて、目を細めた。私を見て——私の姿を見て——足が止まった。
「ハンナ……?」
金色に発光する体。植物の衣。足元から伸びる根。肌を走る葉脈。
化け物みたいに見えただろう。人間じゃないものに変わりかけている、異形の姿。
レンの顔に浮かんだのは——恐怖か、嫌悪か。
どちらでもなかった。
「……やっぱ来ちまったか、お前」
レンは息を整えて、一歩踏み出した。光の中に。
「なに……してるの」
私の口から声が出た。自分の声とは思えないほど、遠い響き。
「迎えに来た」
「来なくて……よかったのに」
「来たかったから来た。文句あるか」
同じ言葉。図書室で聞いた、同じ言葉。
「レン……私、もう……」
「もう、なんだ」
「ここが……私の場所なの。ここが——HOMEなの。ずっと探してた場所。やっと見つけたの。だから——」
「だから帰れないって?」
「……邪魔しないで」
「断る」
レンがまた一歩近づいた。光が彼を拒んでいた。風が吹き上がり、根が床から持ち上がり、彼の足を絡め取ろうとする。
「レン、来ないで!危ない!」
「危ないかどうかは俺が決める」
根がレンの足首に巻きつく。レンが顔をしかめた。痛いはずだ。でも、足を止めなかった。
「ハンナ。お前が見つけたもの——この場所。この力。全部、お前にとって大事なもんなんだろ。分かってる」
「分かってない!レンには分からないよ!ずっと居場所がなかったの!ずっと透明だったの!やっと——やっと見つけたの!」
「知ってる」
レンの声が、静かになった。
「知ってるよ。お前がずっと苦しんでたこと」
「……」
「教室の中で、いつもどこか遠くを見てたこと。みんなが笑ってるとき、お前だけ笑えてなかったこと。俺の隣にいるのに、いつも半歩後ろに立ってたこと」
心臓を掴まれたような痛み。
「——全部、見てた」
「見てたなら——なんで何もしてくれなかったの!」
叫びが光の中に反響した。
「……ああ。それは——俺が、臆病だったからだ」
レンの声が震えた。
「お前にちゃんと向き合うのが怖かった。お前の苦しみの深さを、正面から受け止める自信がなかった。だから——」
レンの目が、赤くなっていた。泣いてはいない。でも、限界まで何かを堪えている目。
「——だから、ツムギに逃げた」
時間が止まった。
「お前のそばにいたいのに、お前にどう言葉をかけていいか分からなくて。ツムギは明るくて、一緒にいると楽で、お前のことを考えなくて済む時間が——ずるいよな。最低だよな。分かってる」
「レン……」
「告白なんてしてない。ツムギのことは大事だ。でも——お前とは、違う」
噂は——嘘だったの?
「日曜にツムギと会って、話した。お前のことを。お前が巨樹のことを調べてること、禁止区域に行こうとしてること。俺ひとりじゃ——お前を支えきれないかもしれないって。それを相談しただけだ。誰かが見てたんだろうな。尾ひれがついて、告白したってことになった」
頭の中が、ぐらぐらと揺れた。
「……私の、せいだ」
「違う。俺のせいだ。もっと早く——もっとちゃんと、お前に言うべきだった」
レンが根を引きちぎった。力任せに。手のひらから血が出ていた。構わず一歩踏み出す。
「お前の居場所がここだって言うなら——この光の中だって言うなら——俺にはそれを否定する権利はない。でも——でもハンナ」
レンがまっすぐ私を見た。涙も、怒りも、恐怖も全部飲み込んだ、透明な目。
「お前が人間じゃなくなるのは、嫌だ」
光が揺れた。
私の中の何かが、大きく軋んだ。
「……だめだよ」
声が震えた。私の声。力に満ちた創造者の声じゃなくて、十六歳の少女の声。
「だめだよレン……そんなこと言ったら……戻りたくなっちゃうじゃん……」
「戻って来い」
「でも……ここが……」
「ハンナ」
レンが手を伸ばした。血で汚れた手。傷だらけの、人間の手。
「お前の居場所は、俺の隣だ」
手を伸ばした。
金色の光が震えた。遺跡が悲鳴を上げるように振動した。
私の手が、レンの手に触れた。
血の温もり。汗の湿り気。人間の体温。
三十七度の、ただの熱。
——それが、世界で一番温かかった。
◇
光が弾けた。
金色の粒子が四方に散って、消えていく。蛍のように。星のように。私の体から植物の模様が消えていく。金色の衣が解けて、元の姿に戻る。足から生えていた根が、するすると地面に引き戻されていく。
力が去っていく。制御権が。遺跡との繋がりが。——水が引くように。
遺跡の奥で、何かが軋む音がした。重く、長い振動。装置が——反応しているような。でもそれは一瞬のことで、すぐに静まった。
私もレンも、その音の意味に気づかなかった。
寂しかった。
あの力を手放すのは、信じられないほど寂しかった。あの充足感を。あの帰属感を。生まれて初めて「ここが自分の場所だ」と思えた、あの感覚を。
でも。
レンの手を握っている。握り返してくれている。
——これでいい。




