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HOME - 巨樹が空を覆う世界で -  作者: lovely plants
第5章 おかえり

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第20話 三十七度の熱

 声。


 光の声ではない。もっと粗くて、もっと不器用で、もっと——人間の声。


 息を切らして、叫んでいる。喉が潰れそうなくらいの声量(せいりょう)で。


 遠い。でも確かに聞こえる。光の膜を突き破って、私の鼓膜(こまく)を震わせている。


「ハンナ!聞こえてるだろ!!」


 ——誰?


 この声を、知っている。光の奥に溶けかけた記憶が、かすかに震える。


「戻って来い!ハンナ!!」


 声が近づいている。光の中で、影が動いた。人の形をした影。走っている。転びそうになりながら。根に足を取られながら。


 レンだ。


 汗だくで、服が破れていて、頬に擦(す)り傷(きず)がある。息が荒い。走ってきたのだ。あの長い長い森の道を。


 でも——なぜ?


 私はいなくなったのに。教室を出て、フェンスを越えて、自分から消えたのに。レンにはツムギがいるのに。


 なのに——なぜ、ここにいるの?


「お前——何やって——」


 レンが遺跡の光に照らされて、目を細めた。私を見て——私の姿を見て——足が止まった。


「ハンナ……?」


 金色に発光する体。植物の衣。足元から伸びる根。肌を走る葉脈。


 化け物みたいに見えただろう。人間じゃないものに変わりかけている、異形(いぎょう)の姿。


 レンの顔に浮かんだのは——恐怖か、嫌悪(けんお)か。


 どちらでもなかった。


「……やっぱ来ちまったか、お前」


 レンは息を整えて、一歩踏み出した。光の中に。


「なに……してるの」


 私の口から声が出た。自分の声とは思えないほど、遠い響き。


「迎えに来た」


「来なくて……よかったのに」


「来たかったから来た。文句あるか」


 同じ言葉。図書室で聞いた、同じ言葉。


「レン……私、もう……」


「もう、なんだ」


「ここが……私の場所なの。ここが——HOMEなの。ずっと探してた場所。やっと見つけたの。だから——」


「だから帰れないって?」


「……邪魔しないで」


「断る」


 レンがまた一歩近づいた。光が彼を拒んでいた。風が吹き上がり、根が床から持ち上がり、彼の足を絡め取ろうとする。


「レン、来ないで!危ない!」


「危ないかどうかは俺が決める」


 根がレンの足首に巻きつく。レンが顔をしかめた。痛いはずだ。でも、足を止めなかった。


「ハンナ。お前が見つけたもの——この場所。この力。全部、お前にとって大事なもんなんだろ。分かってる」


「分かってない!レンには分からないよ!ずっと居場所がなかったの!ずっと透明だったの!やっと——やっと見つけたの!」


「知ってる」


 レンの声が、静かになった。


「知ってるよ。お前がずっと苦しんでたこと」


「……」


「教室の中で、いつもどこか遠くを見てたこと。みんなが笑ってるとき、お前だけ笑えてなかったこと。俺の隣にいるのに、いつも半歩後ろに立ってたこと」


 心臓を掴まれたような痛み。


「——全部、見てた」


「見てたなら——なんで何もしてくれなかったの!」


 叫びが光の中に反響した。


「……ああ。それは——俺が、臆病(おくびょう)だったからだ」


 レンの声が震えた。


「お前にちゃんと向き合うのが怖かった。お前の苦しみの深さを、正面から受け止める自信がなかった。だから——」


 レンの目が、赤くなっていた。泣いてはいない。でも、限界まで何かを堪えている目。


「——だから、ツムギに逃げた」


 時間が止まった。


「お前のそばにいたいのに、お前にどう言葉をかけていいか分からなくて。ツムギは明るくて、一緒にいると楽で、お前のことを考えなくて済む時間が——ずるいよな。最低だよな。分かってる」


「レン……」


「告白なんてしてない。ツムギのことは大事だ。でも——お前とは、違う」


 噂は——嘘だったの?


「日曜にツムギと会って、話した。お前のことを。お前が巨樹のことを調べてること、禁止区域に行こうとしてること。俺ひとりじゃ——お前を支えきれないかもしれないって。それを相談しただけだ。誰かが見てたんだろうな。尾(お)ひれがついて、告白したってことになった」


 頭の中が、ぐらぐらと揺れた。


「……私の、せいだ」


「違う。俺のせいだ。もっと早く——もっとちゃんと、お前に言うべきだった」


 レンが根を引きちぎった。力任せに。手のひらから血が出ていた。構わず一歩踏み出す。


「お前の居場所がここだって言うなら——この光の中だって言うなら——俺にはそれを否定する権利はない。でも——でもハンナ」


 レンがまっすぐ私を見た。涙も、怒りも、恐怖も全部飲み込んだ、透明な目。


「お前が人間じゃなくなるのは、嫌だ」


 光が揺れた。


 私の中の何かが、大きく軋(きし)んだ。


「……だめだよ」


 声が震えた。私の声。力に満ちた創造者の声じゃなくて、十六歳の少女の声。


「だめだよレン……そんなこと言ったら……戻りたくなっちゃうじゃん……」


「戻って来い」


「でも……ここが……」


「ハンナ」


 レンが手を伸ばした。血で汚れた手。傷だらけの、人間の手。


「お前の居場所は、俺の隣だ」


 手を伸ばした。


 金色の光が震えた。遺跡が悲鳴を上げるように振動した。


 私の手が、レンの手に触れた。


 血の温もり。汗の湿り気。人間の体温。


 三十七度の、ただの熱。


 ——それが、世界で一番温かかった。


◇


 光が弾けた。


 金色の粒子が四方に散って、消えていく。蛍のように。星のように。私の体から植物の模様が消えていく。金色の衣が解けて、元の姿に戻る。足から生えていた根が、するすると地面に引き戻されていく。


 力が去っていく。制御権が。遺跡との繋がりが。——水が引くように。


 遺跡の奥で、何かが軋む音がした。重く、長い振動。装置が——反応しているような。でもそれは一瞬のことで、すぐに静まった。


 私もレンも、その音の意味に気づかなかった。


 寂しかった。


 あの力を手放すのは、信じられないほど寂しかった。あの充足感を。あの帰属感(きぞくかん)を。生まれて初めて「ここが自分の場所だ」と思えた、あの感覚を。


 でも。


 レンの手を握っている。握り返してくれている。


 ——これでいい。

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