第16話 エリオの遺言
ノートを鞄に戻し、立ち上がった。
足は、もう迷わなかった。声に導かれるまでもなく、体が道を知っていた。根の隙間を縫い、幹の合間をすり抜け、暗い森の奥へ、奥へ。
光が変わった。藍色だった空気が、少しずつ——蒼白い燐光を帯び始めた。苔が光っている。根の表面に、血管のように走る発光する筋。
美しかった。
美しくて、恐ろしかった。
どれくらい歩いただろう。一時間か、三時間か。時間の感覚が溶けていた。
やがて——
視界が開けた。
目の前に、巨大な空洞があった。
巨樹の根が天井のように覆いかぶさり、その下に広がる空間。地面は苔に覆われ、所々に——
繭があった。
人型の。半透明の。中に人間の輪郭が透けて見える。
ひとつやふたつではない。数十——いや、もっと。
そして、その空洞の中央に、苔むした台座のようなものがあった。台座の上に、何かが置いてある。
歩み寄った。足が根に絡まりそうになりながら。
本だった。
見覚えのある表紙。黄ばんだ紙。角の丸くなったページ。
『大陸植生史概論』。
手に取った。重い。図書室にあったものより厚い。——ページが切り取られていないから。
表紙を開いた。著者名がそこにあった。塗り潰されていない、くっきりとした活字。
「著者:エリオ・ヴェッセン」
あの研究者の名前。世界から消された人間の名前。
この人は、ここに自分の全てを置いていったのだ。
第七章を開いた。切り取られた部分が、ここにはある。
◇
「第七章 巨樹中心部の組成異常について(完全版)」
「複数の調査団が巨樹の幹中心部から採取したサンプルには、通常の植物細胞とは異なる組成が確認された。特に注目すべきは、カルシウムとリンの含有比率であり、これは人間の骨格を構成するリン酸カルシウムの比率と統計的に有意な一致を示す」
ここまでは、図書室の本にも書いてあった部分だ。ここから先が、切り取られた真実。
「さらに驚くべきことに、巨樹の中心部には人間の神経組織に類似した構造が確認された。これは単なる成分の一致ではない。巨樹は人間の身体構造そのものを内部に保持している」
「筆者はこれらの事実から、以下の仮説——いや、もはや事実と呼ぶべきだろう——を提示する」
「巨樹は、人間を種子として発芽し、成長した生命体である」
「人間の肉体が核となり、そこから植物細胞が増殖し、やがて人体を完全に包み込む形で巨大な樹木へと変態する。この過程には推定で数百年を要する。巨樹の内部には、変態の途上にある人体——筆者はこれを『繭』と呼ぶ——が無数に存在する」
「この世界を覆う巨樹群は、かつて存在した人間たちの成れの果てである」
本を持つ手が凍りついた。
活字が目の前で踊っている。読んでいるのに、頭が理解を拒否している。
——巨樹は、人間だった。
この世界を覆う無数の巨樹。空を隠し、街を覆い、私たちの生活の背景になっている、あの巨大な植物たち。その一本一本の中に、かつて人間だったものがいる。
本の後半には、さらに衝撃的な内容が記されていた。
「第九章 起源について」
「巨樹群の起源は、現在の文明よりも遥かに古い時代——筆者が『超古代文明期』と仮称する時代に遡る。当時の文明は、現在とは根本的に異なる生命技術を有していたと推定される。巨樹は、この超古代文明が意図的に創造した生命体である可能性が極めて高い」
「すなわち——この世界そのものが、超古代文明によって『設計された』環境である」
本を閉じた。
いや——閉じようとした。でも、手が動かなかった。
最後のページに、手書きの文字が添えられていた。出版後に書き加えられたもの。エリオ・ヴェッセン本人の字だと、直感的に分かった。ノートと同じ筆跡。
「この本を手に取った者へ」
「あなたがここまで来たということは、あなたもまた超古代文明の血を引く者なのだろう。だが、もしあなたがこの森に呼ばれたのなら——」
「あなたが感じている疎外感。この世界に馴染めない感覚。それは異常ではない。正しい反応だ。あなたは、この世界の住人ではないのだから」
「奥へ進め。あなたの答えは、そこにある」
「——エリオ・ヴェッセン 最後の記録」
本が手から滑り落ちた。
苔の上に落ちた音が、静寂に吸い込まれた。
超古代文明の血を引く者。
——私は、この世界の住人ではない。
あの疎外感。教室の中の透明な壁。母さんとの微妙なずれ。レンやツムギの輪に入れない感覚。全部——全部、血のせいだった?
私がこの世界に馴染めなかったのは、性格のせいでも、努力が足りないせいでもなく——最初から、ここが私の世界ではなかったから?
頭が真っ白になった。
そして——白の中に、声が響いた。
——おいで。もっと奥へ。おまえの本当の場所へ。
体が動いた。意志ではなく、もっと深い何かに突き動かされて。本を拾い上げ、鞄に入れ、空洞の奥へ歩き出した。
繭が並ぶ道を通り抜ける。人型のシルエットが左右から見つめている。さっきまで恐ろしかったそれが、今は——同胞のように見えた。
奥へ。
もっと奥へ。




