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HOME - 巨樹が空を覆う世界で -  作者: lovely plants
第4章 The Orphic Cradle

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第15話 第171日

 フェンスは、あの日と同じ。


 錆(さ)びた金属。朽(く)ちた穴。「立入禁止」の警告板。


 前回はレンがいた。レンの手が、私を引き戻してくれた。


 今日は、誰もいない。


 ——誰もいなくていい。


 そう思った瞬間、涙がこぼれた。泣いている場合じゃないのに。自分で選んでここに来たのに。


 レンの顔が浮かんだ。ツムギの顔が浮かんだ。二人が笑い合う教室。私のいない教室。


 ——あの場所に、私の席はない。


 最初からなかった。レンの優しさに甘えて、あると思い込んでいただけだ。


 フェンスの穴に体を入れた。今度は誰も止めない。錆びた金属が服を引っ掻いた。構わず前に進んだ。


◇


 森は、暗かった。


 フェンスを越えた途端、光の質が変わった。薄緑ではなく、深い藍色(あいいろ)。巨樹の密度が尋常(じんじょう)ではない。幹と幹の隙間に身をすり込むようにして進む。足元は苔(こけ)と根に覆われ、一歩ごとに足首が沈む。


 振動が、体の奥に響いていた。


 ——どくん。


 地面から。幹から。空気から。あらゆる方向から脈動(みゃくどう)が伝わってくる。前回フェンスの外から感じたものとは比べものにならない強さ。骨の芯が共鳴している。歯の奥がじんじんする。


 怖い。


 でも、足は止まらなかった。


 声がもう、言葉になっていた。夢の中では曖昧(あいまい)だった声が、今ははっきりと——


 ——もうすぐだ。もうすぐ、おまえは知る。


「何を……」


 呟いた。自分の声が森に吸い込まれて消えた。


 地面に何かが転がっていた。


 足を止めた。苔に半分埋(う)もれた——鞄(かばん)?


 古い革の鞄。留め金が錆びて、口が開いている。中にはノートのようなものと、ペン。そして——


 カメラ。古い型のフィルムカメラ。レンズに苔が生えている。


 誰かがここにいた。何十年も前に。ここで研究をしていた人間がいた。


 ——あの著者だ。


 『大陸植生史概論《たいりくしょくせいしがいろん》』を書いた人。名前を消され、記録を消され、存在ごとなかったことにされた研究者。この人は、消された後もここに来ていた。あるいは、ここに逃げてきたのかもしれない。


 鞄の中のノートを開いた。黄ばんだ紙に、几帳面(きちょうめん)な字。


 「第127日。森の中心部に近づくほど、振動が強くなる。計測器の針が振り切れた。もはや植物の生体活動の範囲ではない」


 「第143日。幹の組成分析(そせいぶんせき)、最終結果。カルシウムとリンの比率は人骨と完全に一致した。他の微量元素(びりょうげんそ)も同様。この巨樹の中心部は——」


 ページをめくる手が震えた。


 「——人間そのものだ」


 「巨樹は、人間を核(かく)として成長した生命体(せいめいたい)である。これは仮説ではない。事実だ」


 「第158日。より深部(しんぶ)へ進む。信じられないものを見た。繭(まゆ)——としか表現できない。人型の輪郭(りんかく)を持つ半透明の構造体(こうぞうたい)が、巨樹の根の間に無数に存在している。中には——」


 「中には、人間がいた」


 「まだ生きているのか、すでに死んでいるのか、そのどちらでもない状態なのか分からない。だが、脈打っている。巨樹と同じリズムで」


「第165日。この森には意志がある。巨樹を管理し、維持している何者かがいる。人間ではない。かつて人間だったもの——肉体を捨て、意識だけの存在になった者たちだ。遺跡(いせき)の装置が、彼らの器なのだろう」


「第168日。彼らはすべての人間を同じようには扱っていない。大半の人間は『素材』だ。しかし一部の血筋(ちすじ)の者——私もそのひとりだが——は森に拒まれない。そして、さらにごく稀に、彼らが『鍵(かぎ)』と呼ぶ存在が現れるらしい。装置を起動できる唯一の人間。私はそれではなかった」


 ノートを閉じた。


 指が震えている。全身が震えている。でも——驚いていない。驚いていない自分が、一番怖かった。


 知っていた。体の奥で、最初から知っていた。巨樹が脈打つたびに共鳴(きょうめい)していた理由。夢の中の根の温もりの意味。私だけが感じていた違和感の正体。


 全部、繋がっている。


 ノートの最後のページに、短い文が書かれていた。


 「第171日。もうすぐ、最奥部(さいおうぶ)にたどり着く。私はそこで全てを理解するだろう。この森が何であるか。この世界が何であるか。そして——私が何であるか」


 「もし私がここから戻れなかったとしても、記録は残す。いつか、私と同じ問いを抱えた者がここに来るだろう。その者のために」


 「私の研究の全ては、最奥部の手前に置いてある。完全版の本と共に」


 ——完全版の本。


 切り取られていない、塗り潰されていない、完全な『大陸植生史概論』。


 この森の奥に、ある。

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