第15話 第171日
フェンスは、あの日と同じ。
錆びた金属。朽ちた穴。「立入禁止」の警告板。
前回はレンがいた。レンの手が、私を引き戻してくれた。
今日は、誰もいない。
——誰もいなくていい。
そう思った瞬間、涙がこぼれた。泣いている場合じゃないのに。自分で選んでここに来たのに。
レンの顔が浮かんだ。ツムギの顔が浮かんだ。二人が笑い合う教室。私のいない教室。
——あの場所に、私の席はない。
最初からなかった。レンの優しさに甘えて、あると思い込んでいただけだ。
フェンスの穴に体を入れた。今度は誰も止めない。錆びた金属が服を引っ掻いた。構わず前に進んだ。
◇
森は、暗かった。
フェンスを越えた途端、光の質が変わった。薄緑ではなく、深い藍色。巨樹の密度が尋常ではない。幹と幹の隙間に身をすり込むようにして進む。足元は苔と根に覆われ、一歩ごとに足首が沈む。
振動が、体の奥に響いていた。
——どくん。
地面から。幹から。空気から。あらゆる方向から脈動が伝わってくる。前回フェンスの外から感じたものとは比べものにならない強さ。骨の芯が共鳴している。歯の奥がじんじんする。
怖い。
でも、足は止まらなかった。
声がもう、言葉になっていた。夢の中では曖昧だった声が、今ははっきりと——
——もうすぐだ。もうすぐ、おまえは知る。
「何を……」
呟いた。自分の声が森に吸い込まれて消えた。
地面に何かが転がっていた。
足を止めた。苔に半分埋もれた——鞄?
古い革の鞄。留め金が錆びて、口が開いている。中にはノートのようなものと、ペン。そして——
カメラ。古い型のフィルムカメラ。レンズに苔が生えている。
誰かがここにいた。何十年も前に。ここで研究をしていた人間がいた。
——あの著者だ。
『大陸植生史概論』を書いた人。名前を消され、記録を消され、存在ごとなかったことにされた研究者。この人は、消された後もここに来ていた。あるいは、ここに逃げてきたのかもしれない。
鞄の中のノートを開いた。黄ばんだ紙に、几帳面な字。
「第127日。森の中心部に近づくほど、振動が強くなる。計測器の針が振り切れた。もはや植物の生体活動の範囲ではない」
「第143日。幹の組成分析、最終結果。カルシウムとリンの比率は人骨と完全に一致した。他の微量元素も同様。この巨樹の中心部は——」
ページをめくる手が震えた。
「——人間そのものだ」
「巨樹は、人間を核として成長した生命体である。これは仮説ではない。事実だ」
「第158日。より深部へ進む。信じられないものを見た。繭——としか表現できない。人型の輪郭を持つ半透明の構造体が、巨樹の根の間に無数に存在している。中には——」
「中には、人間がいた」
「まだ生きているのか、すでに死んでいるのか、そのどちらでもない状態なのか分からない。だが、脈打っている。巨樹と同じリズムで」
「第165日。この森には意志がある。巨樹を管理し、維持している何者かがいる。人間ではない。かつて人間だったもの——肉体を捨て、意識だけの存在になった者たちだ。遺跡の装置が、彼らの器なのだろう」
「第168日。彼らはすべての人間を同じようには扱っていない。大半の人間は『素材』だ。しかし一部の血筋の者——私もそのひとりだが——は森に拒まれない。そして、さらにごく稀に、彼らが『鍵』と呼ぶ存在が現れるらしい。装置を起動できる唯一の人間。私はそれではなかった」
ノートを閉じた。
指が震えている。全身が震えている。でも——驚いていない。驚いていない自分が、一番怖かった。
知っていた。体の奥で、最初から知っていた。巨樹が脈打つたびに共鳴していた理由。夢の中の根の温もりの意味。私だけが感じていた違和感の正体。
全部、繋がっている。
ノートの最後のページに、短い文が書かれていた。
「第171日。もうすぐ、最奥部にたどり着く。私はそこで全てを理解するだろう。この森が何であるか。この世界が何であるか。そして——私が何であるか」
「もし私がここから戻れなかったとしても、記録は残す。いつか、私と同じ問いを抱えた者がここに来るだろう。その者のために」
「私の研究の全ては、最奥部の手前に置いてある。完全版の本と共に」
——完全版の本。
切り取られていない、塗り潰されていない、完全な『大陸植生史概論』。
この森の奥に、ある。




