愛憎
堂内を覆っていた異様な気配は、泰真が放った呪符によって嘘のように消え去った。
静寂を取り戻した西三条殿に、安堵のどよめきと震える吐息が広がる。
「おお……泰真殿、見事な手際だ……!」
「……皆様、お怪我はございませんか。此度の不祥事、実は鷲王院様が『この厳かな葬儀に万が一の不測の事態があってはならぬ』と、あらかじめ私に防壁の符と結界の準備を命じておられたのです」
泰真がうやうやしく頭を下げると、死の恐怖から解放された貴族たちは一斉に鷲王院へ感嘆と感謝の声を上げた。
「おお……なんと! 鷲王院様がそこまでお考えであったとは……!」
「さすがは鷲王院様だ、我らの命の恩人よ……!」
称賛を浴びる鷲王院は表情を崩さず、ただ静かに頷いてみせた。
すべては彼が描いた絵図面通りだった。
玄耀院の死の際にも見せた、あの僅かに笑う瞳の奥の冷酷さがそこにはあった。
しかし、称賛の声はすぐに、恐怖の反動としての怒りと責任追及へすり替わった。
鷲王院に近い貴族の一人が冷や汗を拭いながら声を荒げる。
「それにしても、警護の者たちは何をしていたのだ! あれほどの怪異の侵入を許すとは!」
「影辰の部隊はどうした! 今日は黒耀が指揮を執っているはずだろう!」
平青成が静かに前に進み出て、わざとらしく眉をひそめながら言った。
「皆様、先ほどの怪異の動きを見られましたか?
まるで煙のようにすり抜け、影から影へと移動しておりました。ただの異形とは思えませぬ」
堂内がざわめく。
「まさか……影の一族の術だと言うのか?」
「そういえば、あの異形は上皇様や陛下を狙っていたではないか。もしや、影の者が呪詛を……」
「馬鹿なことを!」
藤房が大きく鋭い声で遮った。
「朧殿は身を挺して陛下と桜華様をお守りした! 影の一族の忠義を疑うなど言語道断!」
光継もまた、桜華と茜を背に庇いながら、必死に声を張り上げた。
「影の者たちは、私を守るために動いてくれている! 断じて彼らの仕業ではない!」
しかし、死の恐怖に直面し、わかりやすい標的を求めていた貴族たちにその声は届かなかった。
源忠朝が、低く重い声で介入する。
「現状、警護の不備は否めませぬ。陛下の御身と宮中の安全を第一に考えるならば、疑わしき者たちを御傍に置くのは危険。これより宮内の警護は、我ら源氏が請け負いましょう」
鷲王院が、重々しく口を開いた。
「忠朝の言う通りだ。影辰の部隊は宮の警護から外し、外回りの警護へと回れ。宮中は源氏に任せる」
光継の周囲から警護の目が剥ぎ取られていく流れを見ながら、朧は胸の奥で悟っていた。
――これは偶然ではない。
怪異が光継を狙い、鷲王院を避け、泰真の呪符が“最も効果的な瞬間”に落ちてきた。
あわよくば光継の命を奪い、失敗してもその身を孤立させる。
そうすれば、政の流れは自然と鷲王院の手の中へ転がり込む。
ただの怪異の暴走ではなく、鷲王院派が仕掛けた完璧な盤面だったのだ。
源忠朝の合図とともに、甲冑の擦れ合う武張った音が西三条殿の重々しい空気を切り裂いた。
源氏の武者たちが整然と列をなし、これまで宮を護り固めていた影の一族を押し外すようにして要所へと陣取っていく。
「……引き揚げるぞ」
黒耀の低い命令で、影の一族は誰一人反論することなく、滑らかな水のように回廊の陰へと姿を消していった。
しかし、その中でただ一人、立ち去らぬ者がいた。
黒衣を纏い、光継の後ろにそっと控える朧である。
「……忠朝殿、待たれよ」
光継を庇うように立ち出でた藤房が、毅然とした声で源氏の武者たちを制した。
「影の一族の部隊を退けるのは良しとしよう。
だが、朧殿は単なる配下の者ではない。帝の身辺を直接お護りする正式な『近衛』として命じられたお方だ。正当な理由もなく帝のお側から引き離すなど、宮中の慣例に反する」
忠朝は苦虫をかみつぶしたような顔を見せたが、公卿である藤房の筋の通った反論と、光継の射抜くような強い視線に押し切られ、舌打ちを噛み殺して引き下がるしかなかった。
こうして、近衛としての朧だけが光継の傍らに残ることを許された。
だが、雲間から顔を出した月に再び雲がかかる。
源氏の警戒の目を盗み、影の一族の密偵が朧の背後の影へと滑り込み、耳元で衝撃の報せを囁いた。
「……朧様。……影辰様のお屋敷より報にございます。屋敷で静養されていた霞様が……姿を消されました」
「……っ!?」
朧の息が止まる。
「突然にお姿を消されたのです。お部屋には……幾筋もの白銀の髪と、これまでに見たこともない不吉で、澄み切った念の残滓だけが残されておりました。影辰様が配下を放ち、捜索されておりますが……足取りは一切掴めておりません」
(霞姉……っ……!)
朱雀門で白鬼が残した言葉が、冷たい毒のように朧の脳裏を駆け巡る。
『我ら鬼の念に犯された者がどうなるか……見てみようじゃないか』
鬼の毒に侵された霞がどこへ去ったのか――。
朧は激しい戦慄に胸を締め付けられながらも、光継の側を離れぬため、必死に動揺を押し殺して握り拳を固めた。
その後、都には表立った大きな怪異の襲来こそ影を潜めたものの、不気味な暗雲が立ち込め続けていた。
その最たるものが、都の各地で頻発する「不吉な墓暴き」の被害であった。
貴族や名家の墓が夜陰に紛れて暴かれ、遺体が奪われる惨劇が後を絶たない。
陰術や呪術の触代として、あるいは異形の肉体として弄ばれているという恐ろしい噂が、都の闇を静かに侵食していた。
清涼殿では、亡き玄耀院の葬送を巡り、悲痛な決断が迫られていた。
「祖父様は……生前、『果てた時は、古式ゆかしく土へと還してくれ』と望んでおられた……」
光継は亡き祖父の遺志を思い返し、唇を噛みしめて涙をこぼした。
しかし、この都の現状で玄耀院を土葬すれば、どのような悲惨な運命が待っているか分からない。
鷲王院や泰真らの手によって、あるいは都を蠢く闇の手により、亡き祖父の尊い遺体が暴かれ、不吉な呪詛の道具として辱めを受ける可能性は極めて高かった。
「……光継様」
桜華が不安に震える手で、光継の袖をそっと握りしめる。
光継は深く目を閉じ、絞り出すような声で決断を下した。
「……祖父様の遺志に背く不忠をお許しください。
御遺体を火葬とし、その御灰を誰も触れられぬ清らかな地へ納めます。……死してなお、祖父様が辱めを受けることだけは……絶対にさせない」
玄耀院の御体は、厳重な結界と光継自らの見守る中で静かに炎へと包まれた。
天へ昇る白い煙を見つめながら、光継は胸の奥で誓った。
祖父が命をかけて守ろうとした都と桜華を、何があっても守り抜くと。
しかし、都の権力構造は、光継の幼い抵抗を容易く呑み込んでいった。
都の巨大な重石であった玄耀院という存在が消え去り、宮中の実権は完全に鷲王院の手へと渡ったのである。
「これよりの政は、幼き陛下に代わり、この鷲王院がすべてを取り仕切る」
重臣たちを威圧する鷲王院のひと声で、朝廷の空気は一変した。
光継派の貴族たちは次々と重要な役職から追いやられ、主要なポストは鷲王院派の入洞、安倍泰真、平青成、源忠朝らで埋め尽くされていく。
光継派が上奏する書類はことごとく握りつぶされ、謁見の場すら制限されていった。
かつて「星を抱いて生まれた尊き皇」と称えられた幼き帝・光継は――実権を完全に剥奪され、ただ玉座に座らされるだけの「飾りだけの帝」として、政治の表舞台から完全に追いやられた。
清涼殿の重い静寂の中、光継はぽつりと佇む。
「……これが……僕の望んだ帝の姿なのだろうか……」
寄り添う桜華の儚げな温もりと、影のように控える近衛・朧の静かな気配だけが、孤立無援となった光継の心をかろうじて繋ぎ止めていた。
鷲王院が握る冷酷な絶対権力。
姿を消した霞の行方と、暗躍する「鬼」の影。
都が真の地獄へと落ちていく暗闇の時代が、いま本格的に始まろうとしていた。
「――次は。これにも御璽を」
平青成は、何の感情も持たぬかの様に、文机のうえに分厚い書類の束を並べた。
書き連ねられているのは、飢えに苦しむ都や地方の民を救うための政策などでは断じてない。
貴族たちの私腹を肥やすための過酷な重税、鷲王院派の領地に対する不自然な免税、そして寺社の建立にかこつけた民の強引な徴用。
どれもこれも、民の血涙の上に胡坐をかくような、腐敗した欲望の塊のような政策ばかりだった。
「……青成殿。これはあまりにも酷い!」
政務の間に控えていた藤房が、堪えきれずに立ち上がり、声を荒げた。
「東国の民は昨年の凶作で餓死者を多数出している! そこにさらなる増税を課すなど、悪鬼の所業! 朝霧殿も何か仰ってくだされ!」
傍らに立つ朝霧もまた、悔しさに唇を噛み締めながら青成を睨みつける。
「藤房殿の仰る通りです。このような暴政を許せば、民の心が完全に宮から離れてしまいます……!」
しかし、青成は鼻で笑うだけだった。
「青臭いことを。これは鷲王院様が都の平穏を思ってご決断されたこと。……それに、口を挟む権限がそなた達にあるのか?」
青成は冷たい視線を、文机の前に座る幼き帝――光継へと向けた。
「陛下。鷲王院様のお決めに異議がおありで?
それとも、桜華様や、元宮廷警護をしてた例の一族の身に『何か』があってもよろしいとお考えで?」
「っ……!」
光継の肩が小さく跳ねた。
奥の間からは、桜華と、それに寄り添う茜が祈るように手を握りしめている気配が漂ってくる。
自分がここで拒めば、その矛先がすぐさま桜華や茜、そして自分を護ろうとしてくれた者たちへ向けられるのだ。
光継の背後で、近衛として唯一残ることを許された朧が、気配を殺したまま静かに拳を握り込んでいるのが分かった。
朧もまた、沸き立つ怒りを必死に押し殺している。
光継は深く、深く息を吐き出し、感情を完全に死なせた瞳で御璽を手に取った。
「……分かった。……押せばいいのだろう」
重く、虚しい音が政務の間に響く。
印が捺されるたび、民の悲鳴が聞こえるようだった。
清涼殿から出ることも叶わず、政に言葉を発することも許されない。
ただ与えられた紙片に朱の印を打ち続けるだけ、それが今の自分だった。
「ご理解頂き感謝致します。では、明日もまた持って参ります故」
青成は満足げに書類を回収すると、重苦しい空気を遺して政務の間を去っていった。
青成が嘲笑を残して去ると同時に、背後に控えていた朧は光継へ小さく目配せを送り、その場から音もなく姿を消した。
気配を完全に断ち、ふっと風のように天井裏へと滑り上がる。
朧は屋根の影から影へと跳躍し、朱雀大路を歩む青成の背後を一定の距離を保って追った。
たどり着いたのは、鷲王院の壮麗な居館。
厳重な警護を張り巡らせた屋敷であっても、影の一族である朧にとっては無に等しい。
彼女は庭の巨木の影から屋根裏へと潜入し、鷲王院の居室の真上にあたる暗がりへと身を潜めた。
眼下から、青成の弾んだ声が届く。
「――はい。陛下は完全に死んだ目をして、人形のように御璽を捺しておりました。藤房らも手足をもがれ、何もできませぬ」
「ふむ。ご苦労であった、下がってよい」
青成が恭しく礼をして退室し、広い室内に重い静寂が戻る。
一人きりになった鷲王院は、机上の盃を静かに手にとると、ふっと昏い息を漏らした。
「……ハハッ、ハハハッ……! どこまでもあの女に、そして『我が父』に酷似しておる……!」
不意に響いた歪んだ高笑いに、天井裏の朧は息を殺し、瞳を研ぎ澄ませた。
「我が愛しき妻・輝子……。奥の院に閉じ込めたが、今なお沈黙を貫くあの者の顔が、あの小僧を見るたびに浮かんでくるわ……!」
鷲王院の声が、ドス黒い憎悪と未練を帯びて低く蠢く。
「あの日、なぜ父上の部屋から、……衣服を乱し、頬を赤らめて出てきたのだ……? いくら問い詰めても何も語らず……。ただ泣くばかりであった輝子よ……! わしの息子だと? 戯言を! 光継は……わしの妻と我が父が通じ合ってなした不義の子! わしの腹違いの弟ではないか!!」
パリンッ! と、力任せに握りつぶされた盃が床で激しく砕け散った。
「そうでなければ……父があれほどわしを遠ざけ、あの不義の子にすべてを譲ろうとするはずがない。
父は去り、輝子は奥で生き永らえているが……。
玄耀院よ! 見ているか! お前たちが遺した愛し子を、わしは死ぬまであの小さな鳥籠の中に閉じ込め、………生殺しにしてやる……!」
狂気と嫉妬に狂う鷲王院の叫びを、暗闇の中で聴いていた朧の胸に、激しい戦慄が走った。
(……そんな……。母君である輝子様が奥の院に閉じ込められ、光継様がこれほどまでに苦しめられている理由が……上皇の、ただの身勝手な疑心暗鬼と妄執だなんて……!)
光継が政治の影へ追いやられ、母と引き裂かれて言葉すら奪われている真の根源。
それは単なる権力闘争にとどまらず、今なお生きる輝子への歪んだ愛憎と、鷲王院の醜い復讐心そのものだったのだ。
朧は暗闇の中で深く拳を握りしめ、冷徹な殺意を押し殺しながら、その恐ろしい秘密を胸に刻み込んだ。




