泰真
読経の余韻が低く響く持仏堂。
光継は亡き祖父の位牌の前で長く手を合わせると、朧に促されるままにゆっくりと立ち上がった。
鷲王院や泰真が作り出した血を洗うような重苦しい空気から逃れるように、光継は一度清涼殿へ戻って休むことにした。
隣を歩く桜華が小さく頷く。
桜華は先刻まで呪詛の余波で顔色が優れなかったが、安倍春真から預かった護符を胸にしまって以来、少しずつ生気が戻りつつあるのが朧の目にもわかった。
清涼殿の御簾をくぐった瞬間、光継の視界は、祖父と過ごした確かな過去の記憶で満たされた。
柱の陰に掛けられた古い屏風、玄耀院が好んで使っていた硯箱、窓辺に置かれた盆栽――。
どこを見ても、祖父の静かな所作や温かい声が残っている。
光継は硯箱の縁にそっと触れた。
冷たい漆の感触の奥に、確かな記憶の温度がある。
その瞬間――胸の奥で、幼い日の記憶がふっと浮かび上がった。
光継がまだほんの幼かった頃。
玄耀院は、灯火の下で静かに筆を走らせながら、光継を見つめて言った。
『光継。……言葉は形を持つ。
人の心は移ろうが、文字は残る。
残るものは、お前の力になる』
墨の香り、紙の擦れる音、祖父の深く静かな呼吸。
紙に記されていたのは
「静」
「守」
「結」
「祈」
といった短い言葉だったが、その筆跡は妙に力強く、命を宿しているかのように見えた。
『言葉は、ただ口にするだけでは流れてしまう。
だが、書けば残る。残れば、誰かを傷つけるかもしれぬし、癒すかもしれない。どんな言葉を使うかは、お前自身が決めることができるのだ』
ある日、玄耀院は清涼殿の奥から古い箱を取り出し、光継に一つの黒い筆を授けた。
それは、三百年にわたり皇家が守り抜いてきた
『川獺筆』だった。
毛先は水面のように光を帯び、風もないのに微かに揺れている。
『お前は“願いが見える子”だ。何があっても、民の心を守る言葉を選べるように……この筆を授けよう』
光継は小机の引き出しを静かに開けた。
そこには当時のまま、川獺筆が横たわっている。
軸の内側に刻まれた『言霊具現』の文字を見つめ、光継がそっと筆を持ち上げた、その時だった。
「光継様……」
桜華の震える声に顔を上げると、彼女の視線は光継の手元へ釘付けになっていた。
――川獺筆が、淡く光っていた。
水紋のような柔らかな光が毛先から溢れ出し、清涼殿の空気を静かに漂い始める。
朧が驚愕に息を呑む。
次の瞬間、光継の意志とは無関係に、筆が彼の手を導くように空を舞った。
空中へ走らせた軌跡から、墨ではなく眩い光の文字が紡ぎ出されていく。
『 癒 』
空中に浮かび上がったその文字は、まるで意志を持つように桜華へと向かい、彼女の身体へすっと溶け込んだ。
「あっ……」
桜華が小さく息を呑む。
その直後、雪のように蒼白だった彼女の顔色が一気に生気を取り戻し、桜色の血色が戻ったのだ。
「……光継様……身体が……とても、軽い……」
呪詛の残滓が、言霊の力によって完全に浄化された瞬間だった。
だが、奇跡の代償は大きかった。
「っ……!」
強烈な睡魔と疲労が襲い、光継は筆を取り落としてその場に崩れ落ちた。
「光継様!」
「朧、急いでお休ませしましょう!」
桜華と朧が慌てて光継を抱え上げ、寝所へと運ぶ。
深い眠りの底に沈みゆく中、光継は夢の中で再び祖父の声を聞いた。
『光継。言霊は心の形だ。心が揺らげば筆も揺らぐ。心が定まれば、筆は光を持つ――』
翌朝。
清涼殿に差し込む朝の光の中で、光継はゆっくりと目を開けた。
昨夜の出来事は夢のようだったが、川獺筆は静かに横たわり、光の名残をわずかに帯びている。
枕元では桜華が寄り添い、外では朧が周囲の気配を研ぎ澄ませている。
光継は筆の軸を握りしめた。
祖父が守り、信じ、託したもの。そのすべてが自分の中で息づいていることを確信し、光継は静かに立ち上がった。
清涼殿の廊へ出ると、朝の冷気の中、藤原藤房が一礼して近づいてきた。
いつもの穏やかな顔つきだが、その眼光は鋭く険しい。
「……重要な話があります」
藤房の低い声に、朧が自然と前へ出て周囲を警戒し、桜華は光継の袖をぎゅっと握った。
藤房は周囲を見渡し、声を潜めた。
「影辰殿より、気になる噂が届きました。近頃……都の周辺で、墓が荒らされ遺体が消えるという事件が頻発しているとのこと。ここ一月ほどの話です」
「墓が……?」
「ええ。断片的で目的は不明ですが、僧兵の関与を疑う声もあります。
我らとしては、決して無視できぬ兆候です」
光継は目を閉じ、腰に差した川獺筆の重みを感じながら静かに命じた。
「まずは事実を確かめよ。朧、使者を出して状況を探ってくれ。藤房は引き続き、諸侯の動きを報告せよ」
「承知いたしました」
藤房が一歩退いた時、朧は廊の奥の暗がりで、誰かが小さく息を詰める気配を捉えた。
(……あの癖は……)
光継の命を受け、朧は外郭の詰所へと向かった。
ちょうど初日の警護を終え、黒耀の部隊と交代して屋敷へ戻ろうとしていた父・影辰に追いつく。
「陛下はどうだ。お疲れではないか?」
「お疲れですが、桜華様がしっかり支えておられます」
朧は声を潜め、藤房からもたらされた墓暴きの件を問いただした。
影辰は険しい顔で頷く。
「あぁ。墓が荒らされ遺体が消える噂の直後に、鬼の目撃と被害が急増しているのも事実だ。
……昨日の泰真と鷲王院の動き、そして霞の件。もはや関係ないと思う方が不自然だろう」
「……うん。父さんの代わりに警護には黒耀が入るんでしょ? 光継様から墓暴きの真相調査の命が出ているんだけど……平黒羽殿を向かわせるのはどうかな?」
平黒羽は、影の一族の術に憧れ、密かに詰所で修練を重ねている平家の若武者だった。
「……そうだな。適任かもしれん。戻ったら話してみよう」
「あと……霞姉のことも、お願いね。
何かあればすぐに知らせて」
「あぁ……必ず伝える」
その時、詰所の入口付近で、黒耀が気まずそうに視線を逸らしているのを朧は見た。
交代の段取りに追われているとはいえ、朧と目が合っても顔を合わせようとしないその態度に、朧は小さな違和感を覚えたが、今は父を見送ることを優先した。
詰所を後にした朧が清涼殿へ戻ると、先ほど廊の奥で息を潜めていた気配の主が、まだそこにとどまっていた。
「……茜。さっき、廊の奥にいただろう」
御簾をくぐりながら声をかけると、桜華の側付きとなった妹の茜が、図星を突かれて顔を真っ赤にした。
「う、うん……。
藤房様がすごく怖いお顔で話してるから、私なんかが出ていったら邪魔になると思って隠れてたの。そしたらどんどん話が難しくなって、出るタイミングがわからなくなっちゃって……」
涙目で両手の指をせわしなく擦り合わせる妹に、朧は呆れて額を押さえた。
影の一族でありながら、緊張で息を詰まらせて姉に一発で見破られるとは世話がない。
「全く……。お前は桜華様の付き人だ。影ではないのだから、もっと堂々と歩いてくればいい」
「あかね?」
背後から穏やかな声が響き、茜がビクッと肩を跳ねさせた。
振り返ると、光継が桜華を伴って微笑んでいた。
桜華は袖口で口元を隠し、くすくすと楽しそうに笑っている。
「ふふ、茜ったら。ずっとあそこでソワソワしていたのね」
「お、皇后様……! 申し訳ありません、私、お邪魔をしてしまって……!」
顔を真っ赤にしてペコペコと頭を下げる茜の姿に、清涼殿を覆っていた重苦しい緊張感が、一瞬だけ春の陽だまりのようにふわりと解けていった。
だが、その平穏は長くは続かない。
再び西三条殿(持仏堂)へ戻った光継たちを待っていたのは、張り詰めた権力闘争の空気だった。
読経が響く中、廊の入口から二人の武将が静かに入ってくる。
藤房が光継の側へ寄り、声を潜めた。
「短く結った髪の者は平青成。
平将の乱を鎮めた武将で、鷲王院様に近い策士です。
もう一人は源忠朝。
東国武士団の総領で、朝霧殿と肩を並べる実力者。……動向は注視しておきます」
平青成は礼を返すと、鷲王院の前を通り過ぎる瞬間、わずかに身を屈めた。
誰も気づかぬほどの一瞬の所作。
だが朧の目は、青成が袖の内に細い渦の印が描かれた黒い符を滑り込ませたのを、見逃さなかった。
源忠朝が鷲王院を見据え、鷲王院は指先で胸の印章に触れてそれに応える。
(……合図……?)
朧の胸の『虚』が、冷たくざわめいた。
その直後、廊の外から黒耀の兵が血相を変えて駆け込んできた。
「外郭で、式神の残滓が見つかりました! 護摩の跡と思われる痕跡も……!」
堂内の読経が止まり、空気が凍りつく。
藤房の顔が硬直し、平青成は鷲王院へ一瞥を投げる。
鷲王院は微笑を崩さず、掌の中の紙片を撫でていた。
(誰かが意図的に念を焚き、何かを呼び寄せようとしている……!)
鼓膜を劈くような異音が、西三条殿の空気を引き裂いた。
「――ッ!」
凄まじい風圧が堂内の扉を吹き飛ばす。
突風と共に雪崩れ込んできたのは、土と鉄、そして濃密な血の匂いを纏った黒い煙のような異形の妖だった。
「……っ、影が――!」
最前列の公達が、黒い影に足を掴まれた。
影は膝へ絡みつき、瞬く間に身体を硬直させていく。
黒耀の兵が斬りかかるが、刃は煙を空切り、影は兵の背後へ回り込んで首筋へまとわりついた。
「ぐっ……!」
兵が崩れ落ち、堂内は阿鼻叫喚の地獄と化した。
怪異は“位の高い魂”を好む。
煙は一直線に、光継と桜華へと襲いかかってきた。
「陛下、桜華様、下がって!」
恐怖で顔を青ざめさせながらも、茜が両手を広げて桜華の前に立ち塞がった。
「私がお守りします!」
「茜、無理はするな!」
光継は二人を背に庇い、腰の川獺筆を強く握りしめる。筆が微かな光を放ち、主の危機に呼応して震えた。
「行かせない……!」
朧が地を蹴った。
その直前、影が鷲王院の近くを通った瞬間――鷲王院の袖に忍ばされた“渦の符”が淡く光り、怪異が彼を避けるように進路を変えたのを、朧ははっきりと見た。
(主を知っている……やはり仕組まれた茶番か!)
朧は腕から『虚』を解き放ち、空気を裂くように一閃した。
刃ではなく、虚そのものによる念の打撃。
悲鳴のような音を立て、影の怪異が抉り取られて後退する。
その時だった。
「皆様、ご安心下さい!! もう結界を張り終えます!」
堂内に響き渡る声と共に、安倍泰真が完璧すぎる間合いで踊り込んできた。
泰真が四方に呪符を飛ばすと、怪異は嘘のように灰となって消え去った。
見事すぎる手際に、堂内は安堵のどよめきに包まれる。
「おお……泰真殿、見事な手際だ……!」
泰真は芝居がかった手つきで深く一礼した。
「鷲王院様が、万が一の事態に備えてあらかじめ私に結界の準備を命じておられたのです。鷲王院様のご深慮がなければ、危ういところでした」
「さすがは鷲王院様だ……我らの命の恩人よ!」
称賛を浴びる鷲王院と泰真を、朧は氷のように冷たい視線で睨みつけた。
怪異を呼び寄せ、自ら火を消してみせる。
この茶番によって、鷲王院の権威は絶対的なものとなり、影の警護の不備が声高に責め立てられることは明白だった。
権力という名の底知れぬ悪意が、光継たちを完全に孤立させようと、その黒い顎を大きく開いていた。




