石
朱雀門の朝は、血と土の匂いにまみれた夜の名残を深く引きずっていた。
薄明の光は弱く、風もない。
巨大な門の足元にある深い暗がりだけが、夜の底に置き去りにされたように静まり返っていた。
そんな静寂の中を、二人の町人――弥吉と宗太が、早朝の仕事へ向かうために足早に歩いていた。
「……今日は妙に静かだな。誰も歩いてねぇ」
「鬼の噂が広まってるからだよ。昨日だって何度も雷が鳴っていたし、ありゃあ近くに落ちたぞ」
息を潜めるような都の空気を気にしながら朱雀門の前を通りかかった時、弥吉がふと足を止めた。
「……おい、あれ……人が倒れてるぞ」
灯火すら届かない門の奥。
そこに、二つの影が折り重なるように倒れていた。
「女の子だ……二人……!」
「怪我してる……! この血の量、ただ事じゃない……!」
駆け寄った宗太は、一人の顔を覗き込んで鋭く息を呑んだ。
「……この子の黒装束……陛下のそばにいる近衛の……」
「あの娘か!? こんなところで倒れてるなんて……都中で何か起きてるのか? 知らせなきゃ!」
「……お前は一回戻って、奥さんでも何でも人手を連れてこい! 俺は門兵に知らせてくる!」
宗太は血相を変えて宮へと走った。
しかし、宮中の門前はすでに異様な緊張感に包まれていた。
持仏堂での玄耀院の悲報が宮中を駆け巡り、警戒が厳重に敷かれていたのだ。
「陛下の護衛が倒れている? そんなはずがない。虚言を申すな!」
「本当なんです! 朱雀門のところで血まみれで……!」
「黙れ! 陛下の護衛が側を離れることなど無い! これ以上惑わせば縄にするぞ、帰れ!」
取り付く島もなく追い返された宗太は、絶望して朱雀門へ戻るしかなかった。
「……だめだ。相手にされなかった。どうする?……このままじゃ死ぬぞ」
「見捨てられない。俺の家に運ぶ」
弥吉と宗太は、虫の息の二人を背負い、急いで弥吉の小さな家へと運び込んだ。
布団を敷き、湯を沸かし、弥吉の妻も加わって必死の手当てが始まった。
血まみれの装束を解き、傷を拭っていた妻が、ふと震える声を上げた。
「あなた……この子の髪……見て……」
彼女が指差した先。霞の髪は、一筋の乱れもなく美しかったが――その色は、元の栗毛から白銀に近い淡い色へと変貌していた。
「……人じゃないみたい……まるで、神様が寝ておられるみたい……」
町人たちには知る由もなかったが、それは強大な鬼の念を極限まで取り込んだ『器』への変質の兆しだった。
少女たちは昼になっても夜になっても目を覚まさず、ただ静かに昏睡し続けていた。
翌朝。
朧は、重い鉛のような瞼をゆっくりと開いた。
「……ここは……どこ……?」
見慣れない粗末な板天井。
身体を起こそうとした瞬間、肋骨に焼け火箸を突っ込まれたような鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめた。
「っ……折れてる……」
荒い呼吸を整えながら横を向いた朧は、そこで息を呑んで固まった。
「……霞姉……?」
隣で眠る姉の姿は、以前とは全く違っていた。
栗毛だった髪は白銀に変わり、背中まで美しく流れている。
そして何より、影の一族特有の鋭い念の気配がどこにもなく、代わりに恐ろしいほど温かく澄んだ、底知れぬ念が溢れ出していたのだ。
「……これは……何……?」
混乱する朧に、部屋の隅から弥吉が控えめに声をかけた。
「気がつかれましたか……。
あなた方は、丸一日眠り続けていました」
「一日……? そんなに……」
朧の呼吸が荒くなるが、霞の穏やかな寝顔を見つめているうちに、少しずつ心が落ち着きを取り戻していった。
湯気の立つ椀を持ってきた弥吉の妻が、優しく微笑む。
「無理に起き上がらないでくださいね……。
本当にひどい怪我だったんですから」
朧は胸が熱くなり、痛みを堪えて弥吉と妻へ向き直り、深く頭を下げた。
「……助けてくださって、ありがとうございます。あなた方がいなければ、姉も私も命はありませんでした」
「い、いや……俺たちはただ、放っておけなかっただけで……」
「それでも――あなた方の勇気と善意に、心から感謝します」
朧は少しだけ視線を伏せ、意を決して自らの髪を留めていた黒い櫛を外した。
「……こんなことをお願いするのは心苦しいのですが……これを藤原影辰へ。私の父です。直接渡して来てくれませんか?」
「影辰様へ……」
「そして、救護班の派遣と、清涼殿への伝言も頼みますと……お伝えください」
「姉、霞は深傷を負いました。父へ預けた後、すぐ宮へ戻ります……“今しばらくお待ち下さい”と……どうか、陛下へ伝えてください」
弥吉の妻は不安そうに夫を見つめたが、すぐに小さく力強く頷き、「気をつけて」と目で伝えた。
弥吉も深く頷き、櫛を懐に入れて力強く走り去った。
朧は再び霞の手を固く握りしめた。
「……霞姉……一体何があったの?……」
七夕の朝。
宮中が玄耀院の死によって大混乱に陥っている頃、弥吉の家に影辰家の救護班が到着した。
先頭の者は、朧が幼い頃からよく知る顔だった。
「藤原影辰家の救護班です。負傷者を預かります。霞殿は深手と聞いています」
「はい。どうか、よろしくお願いします」
救護班は手際よく霞を即席の担架に乗せ、朧には馬を用意した。
「朧、霞は我々が運ぶ。お前は馬に跨れ」
馬が動き出したその時、意識のないはずの霞の唇がわずかに動いたように見えた。
『……朧は……私が守る……』
幻聴だったかもしれない。
だが朧は目を潤ませ、手綱を強く握りしめた。
「霞姉、聞こえてる。ありがとう」
影辰家の門前には、母と黒耀が悲痛な面持ちで待っていた。
母は駆け寄るなり朧をきつく抱きしめた。
「朧、よく帰りました。話は聞いています。霞はここで休ませます」
黒耀が霞を家の中へ運び込むのを見届けると、母は震える手で一通の手紙を差し出した。
「父さんから、これをあなたにと預かっています。……あなたは……宮へ」
まだ傷も癒えぬ娘を再び地獄へ送り出さねばならない母の瞳には、涙が溢れていた。
朧は手紙を受け取り、素早く目を通した。
その瞬間、朧の顔からスッと血の気が引いた。
そこには、持仏堂での玄耀院の死と、都の権力が鷲王院に完全に掌握されたことが簡潔に記されていたのだ。
「お母様、後は頼みます。………行って来ます!」
朧は肋骨の激痛を意志の力でねじ伏せ、馬の腹を蹴った。
宮廷の門を抜け、清涼殿の奥へ飛び込んだ朧が見たのは――暗がりにうつむき、肩を小刻みに震わせる幼き帝・光継の姿だった。
顔は死人のように青ざめ、その小さな背中には、世界中の絶望がのしかかっているようだった。
「陛下……!」
朧は思わず駆け寄り、光継の震える体をきつく抱きしめた。
光継は驚いて目を見開いたが、やがてその温もりにすがりつくように朧の胸に顔を埋めた。
「朧……ありがとう……」
「陛下、玄耀院様のこと……お側にいる事ができず、申し訳ありません」
朧は光継の背中を抱きしめながら、血を吐くような覚悟で囁いた。
「もう離れません。私がここにいます」
光継はしばらく黙っていたが、やがて嗚咽を漏らしながら震える声で言った。
「朧……あなたがいてくれてよかった。怖かったんだ、全部が」
清涼殿の冷たい空気の中、二人はただ無言で互いの温もりを確かめ合っていた。
そこへ、侍女が息を切らして駆け込んでくる。
「陛下、玄耀院様の葬儀の準備を始めるとのこと、鷲王院様がお呼びです」
清涼殿の空気が一瞬にして凍りついた。
持仏堂は白木の香とむせ返るような線香の煙で満ちている。
黒衣に身を包んだ僧侶たちが静かに読経を繰り、侍女や近臣たちが重苦しい列を成している。
壇の近くには、顔色が青白いながらも気丈に振る舞う后・桜華が座し、侍女の茜がそっと手拭いを差し出していた。
光継の隣には、近衛として朧がピタリと寄り添っている。
鷲王院が前に進み出て、堂内に響くような声で弔辞を述べ始めた。
「玄耀院は、我らが国を支えし重石であった。今は天に返り、我らはその志を継がん」
その言葉は美しく整っていたが、朧の耳には、冷酷な計算と優越感がはっきりと混じって聞こえた。
鷲王院の視線が周囲を値踏みするように巡り、その指先が懐の印章を撫でる。
次に光継が立ち上がり、震える声で言葉を紡ぐ。
「玄耀院様……ありがとうございました。私はまだ未熟ですが、必ず国を守ります。どうか、見守っていて……くださ……い」
悲痛な決意の最後で声が途切れ、光継は静かに涙をこぼした。
その時、控えの間に一人の男が静かに入ってきた。
若き参謀・藤原藤房である。
十歳年上の風格と冷静な眼差しが、場の空気をわずかに引き締めた。
「陛下。これより私、藤房が陛下に仕え、政務の一端を担わせていただきます。どうか、私を頼ってください」
藤房の力強い言葉に、光継の瞳が潤み、朧の胸もほっと緩んだ。
藤房は朧にも視線を向け、低く告げる。
「朧殿、陛下の側にいる者として、あなたの存在は大きい。どうか陛下を支え続けてほしい」
「はい。必ず、陛下をお守りします」
さらに、金属の触れ合う音と共に、屈強な男が現れた。
源朝霧。
玄耀院が推挙したというその男は、全身から凄まじい念と殺気を放っていた。
「私には武しかありません。陛下が全てを守れる力を持てるよう、微力ながら手伝わせてください」
深く頭を下げる朝霧の姿に、光継は祖父と同じ“光”を感じ取り、涙を滲ませた。
藤房という知恵と、朝霧という武。
光継の小さな灯火の周りに、確かな柱が立ち始めていた。
だが、その希望に冷や水を浴びせる者がいた。
控えの間の隅から、陰陽師・安倍泰真が音もなく朧に近づき、その耳元でそっと囁いたのだ。
「霞殿の姿が見えないようですが、お変わりありませんか?」
泰真の声は甘く、毒を孕んでいた。
「人が鬼に落ちることも、陰陽の書にはある話です」
「――ッ!!」
朧の全身の血が沸騰した。
指先の爪が皮膚に食い込むほど拳を握りしめ、視界が真っ赤に染まる。
(霞姉が……鬼に落ちる……!?)
強烈な殺気が朧から立ち上り、一歩前に出ようとした瞬間。
背中を射抜くような朝霧の鋭い眼差しが、朧の動きを金縛りのように止めた。
同時に、藤房の手が朧の袖を軽く掴み、穏やかながらも確かな力で引き留めた。
『今は耐えよ。』
二人の無言の制止に、朧は声にならない唸りを喉の奥で噛み殺し、唇に鉄の味を感じながら目を伏せた。
泰真は表情を崩さず、薄く嗤って元の位置へ戻っていく。
祭壇では、鷲王院が冷酷な目で光継たちを見下ろしていた。
読経が低く響く中、ろうそくの火が妖しく揺れ、葬儀の場はすでに血で血を洗う戦場の最前線と化していた。




