桜華
桜華は、その名の通り春の柔らかな光をそのまま形にしたような娘だった。
黒に近い茶の髪はふわりと光を含み、牛車の簾から差し込む朝日に透けて、水面のように美しくきらめいている。
瞳には深い温かさが宿り、肌は血の通った柔らかな色をしていた。
立ち姿は凛としているのに、どこか儚く、彼女がそこにいるだけで周囲の張り詰めた空気がふっと和らぐような、不思議な気配を纏っている。
そんな桜華は今、揺れる牛車の中で静かに簾の向こうを見つめていた。
「桜華様、寒くありませんか?」
隣に座る茜が、そっと声をかけた。
茜は三年前の子供らしさを少し残していた。
肩までの黒髪は艶を増し、瞳の奥には影の一族特有の鋭さが宿っていたが、桜華に向ける表情だけはどこまでも柔らかかった。
小柄ながらも、その身のこなしには確かなしなやかさがある。
「ええ、大丈夫よ。茜こそ……緊張しているのではなくて?」
桜華が微笑むと、茜は慌てて首を振った。
「緊張なんてしてません。私、桜華様の側付きですから。守りますよ、ちゃんと」
「守る……?」
桜華が少し驚いたように見つめると、茜はえっへんと胸を張った。
「桜華様はお屋敷で育たれましたから、あまり物騒な話は伝わってこなかったと思いますけど……最近、都の外の村まで鬼が出るんです。師匠や父の部隊が対応してますが、全ては防ぎきれていなくて。……だから、桜華様は私が守ります」
「茜……あなた、そんなに強かったかしら?」
桜華がくすっと笑うと、茜はぷうっと頬を膨らませた。
「それは……戦うのは得意じゃないですけど。でも術も使えますし、姉たちほどじゃないですけど、なかなか優秀なんですよ?私」
「ふふ……自分で言うの?」
「言いますよ。だって桜華様の側付きですから」
桜華は優しく微笑み、再び簾の向こうを見つめた。
牛車は宮の南東、法性寺殿の近くを進んでいる。
邸宅から宮へと向かう道には、護衛の影がいくつも揺れていた。
その陣形の中に、ひときわ存在感を放つ若者の姿があった。
藤原藤房。
第一の権門の若き参謀であり、桜華の叔父にあたる男だ。
二十歳とは思えないほど底知れぬ落ち着きを払い、後ろで束ねた長い黒髪と鋭い眼差しで、常に周囲の死角を観察している。
「……藤房叔父様も、来てくださっているのね」
「はい。藤房様は護衛を兼ねて同行されるそうです。天才とまで謳われてますし、安心ですね!」
茜は声を潜めて続けた。
「藤房様は陰陽道にも詳しいんですって。安倍春真様を見出したのも藤房様ですし……都の状況を誰よりも理解している方ですから」
「……都は、そんなに危ないの?」
茜は少しだけ表情を曇らせた。
「はい。ですが今は都の外も危ないですから……どうせなら、宮で守ってもらいましょう!」
だが、桜華は静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「……違うわ、茜。私が、陛下を支えるの」
その言葉に茜は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく誇らしげな微笑みを浮かべた。
「桜華様ならできます。藤原家の娘で、藤原正様の子で……そして、桜華様自身が強い方ですから」
「強い……かしら。私」
「強いですよ。私が保証します」
桜華は思わず笑みをこぼした。
「茜は、本当に……不思議な子ね」
牛車の車輪が石畳をゆっくりと軋ませる。
遠くに、宮の屋根が見えてきた。
(……陛下は、どんな方なのかしら)
門の巨大な影が、すぐそこまで迫っていた。
清涼殿の白木の柱が、朝露に濡れて淡く光っている。
その柱に手を当て、十歳になった光継は外をじっと見つめていた。
色白の肌は朝の光を受けて輝き、少し癖のある栗毛の短髪がその後ろ姿を柔らかく見せている。
背筋はまっすぐに伸び、帝としての気品が自然と滲み出ていたが、簾の向こうを見つめる横顔には、まだ年相応の幼い不安が張り付いていた。
「……桜華様が、もうすぐ都に入られるのか」
光継の呟きに、背後に控えていた霞が静かに応える。
「はい。藤房様が護衛を兼ねて同行されています。鬼の出没が増えておりますから」
朧も傍らから言葉を継いだ。
「茜も側付きとして桜華様と一緒です。
桜華様は……とても優しいお方だそうです」
光継は小さく息をのんだ。
「……桜華様か。会うのが、少し怖いな」
政略の渦中で決められた婚姻。見知らぬ娘と己の運命が結びつけられることへの恐怖。
霞はふわりと微笑んだ。
「陛下……桜華様も、きっと支えてくださいます」
朧も静かに力強く頷いた。
「陛下の側には、私たちもいます」
二人の護衛の言葉に、光継はゆっくりと頷き、前を向いた。
「……桜華様を迎えよう」
牛車が止まり、石畳の上で車輪が最後に小さく軋む音が響いた。
牛車を降りると、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でる。
茜がそっと桜華の袖を整えた。
「桜華様、……清涼殿へ向かいます」
回廊は白木で組まれ、踏みしめる石畳は冷たく、宮の広さと静けさを際立たせている。
「桜華様、こちらでございます……」
茜の小声の案内に頷き、桜華は前を向いた。
白い壁と黒い屋根が重なる清涼殿の前には、宦官や女官たちが整然と並び控えている。
そして、その向こう側――簾の内側に、一つの影があった。
光継だ。
左右には朧と霞が控えている。
桜華の胸の奥が、熱く高鳴った。
(……陛下)
茜が小さな声でそっと桜華の背を押した。
「桜華様、どうぞ」
茜はほんの少し顎を引き、影の者としてその場に控える。
桜華が一歩、前へ進み出たその瞬間――清涼殿の簾が静かに揺れ上がり、光継の姿が完全に現れた。
淡く輝く肌、まっすぐな背筋。幼いながらも帝としての気品に満ちた姿に、桜華は思わず息をのんだ。
(……この方が、陛下……)
一方の光継も、桜華を見た瞬間、言葉を失っていた。
水面のように美しい髪、静かな温かさを宿した瞳。
まるで、春という季節そのものが人の形をとって歩いてきたかのようだった。
何故か、ひどく近しい懐かしさのような感覚が胸を打つ。
背後では、朧と霞が光継を支えるように静かに息を潜めている。
桜華がまた一歩、静かに、しかし凛とした足取りで前へ進み出た。
「……陛下に、ご挨拶申し上げます」
柔らかく、それでいて芯のある透き通った声。
光継は慌てて姿勢を正した。
「……桜華様。ようこそ、宮へ」
緊張で声に少し震えが混じる光継を見て、桜華は気づいたようにそっと微笑んだ。
その優しく包み込むような微笑みは、光継の胸に渦巻いていた不安を、春の雪解けのように静かに溶かしていった。
朧と霞は静かに目を伏せながら直感していた。
(……この方なら、陛下を支えられる)
光継は、桜華の立ち姿、歩み、袖の扱いから目が離せなかった。
どれも一切の乱れがなく、まるで幼い頃から“この日のために”育てられてきた者の完璧な所作だった。
(……血筋を、受け入れているのだな)
自分と同じように、生まれた瞬間から政の駒として人生の形を決められてきた者。
だが、桜華はそれを拒絶せず、瞳には不安よりも深い覚悟を宿している。
(この婚姻は……当然のことなのだ)
光継の胸の奥が少しだけ軽くなる。
その時、桜華がさらに一歩光継に近づいた瞬間――彼女の深い祈りのような“願い”が、光継の星の力に触れた。
光継の瞳に、映像が流れ込んでくる。
民の笑顔。
穏やかな都。
争いのない国。
幼い身でありながら、この国の平安を心から願う桜華の強くて純粋な心が、光継の胸の奥へ静かに落ちてきた。
光継は息をのんだ。
(……この方は、これほどまでに民を愛している)
互いの人生が政の一部であることは変えられない。
だからこそ、せめてこの縁だけは、政の泥に沈ませたくないと光継は強く願った。
桜華の瞳の奥にある静かな覚悟が、光継の心をそっと、しかし力強く支えてくれるように思えた。
だが、その平穏な希望は長くは続かなかった。
桜華の入内翌日から、都では不穏な噂が毒虫のように這い回り始めたのだ。
「桜華様が入られてから、鬼が増えたらしいぞ」
「入内が凶兆だったのでは……?」
清涼殿の空気は、目に見えぬ呪いのように重く沈んでいた。
宮中の端々でひそひそと囁かれる悪意ある言葉に、桜華は不安げに袖をきつく握りしめた。
光継はその震える手を、自分の両手でそっと包み込む。
「……桜華様のせいじゃない。そんなこと、あるはずがない」
「陛下。ですが、噂は放っておけません」
朧が険しい表情で進み出る。
「……陛下は私がお守り致します。朧は鬼を……」
霞が提案しようとしたその時――茜が声を張り上げた。
「待ってください!」
「茜……?」
茜はぎゅっと拳を握りしめ、必死の形相で訴えた。
「私は多分……鬼は退治できません。でも……少しの間なら、私が桜華様と陛下をお守りできます!」
「茜……あなた……」
「鬼は一体じゃないって聞きました。朧ねぇが強いからって……一人でって……私……だから……!」
朧は妹の茜をじっと見つめた。
その瞳は恐怖で震えているのに、決意の炎だけは少しも揺らいでいなかった。
「……茜。ありがとう」
桜華が優しく微笑むと、茜は弾かれたように顔を上げた。
「ありがとうございます! 桜華様! 任せてください! 私、影の一族ですから!」
朧は光継へ向き直った。
「光継様」
光継は小さく頷いた。
「……お願い出来るか、朧、霞」
「はい」
朧と霞は深く頭を下げると、風のように朱雀門へ向かって駆けていった。
最強の二人が光継の側を離れ、まだ未熟な茜だけが護衛として残る――それは、この三年で初めての異常事態だった。
そして夕刻。
清涼殿の空気が、ふと、氷のように冷たく沈み込んだ。
「……はぁ………っ……息が……苦しい……」
突如、桜華が胸を押さえてその場に崩れ落ちた。
「桜華!? 誰か、誰か来てくれ!」
光継の絶叫に、茜が真っ先に駆け寄る。
「桜華様っ……!」
桜華の細い肩を支える茜の手が激しく震えた。
普段は明るい茜の顔が、一瞬で死人のように青ざめる。
「どうしよう……どうしよう……!」
頼れる朧も霞もいない。
茜は涙をこらえ、必死に桜華の背を支えながら光継を見上げた。
「陛下……桜華様……苦しそう……!」
「茜、桜華を頼む……!」
「はい……! はいっ……!」
光継は清涼殿を飛び出し、回廊を無我夢中で走った。
曲がり角の先――柱の陰で、祖父・玄耀院と陰陽師・安倍泰真が立ち話をしているのを見つけ、光継は二人を無理やり引きずるように部屋へ連れてきた。
「桜華様を横に。脈を見ます」
状況を見た泰真は素早く動き、桜華の状態を調べた。
「……これは……。病ではありません。念です。
この入内をよく思わぬ者の強烈な念が、桜華様と都を蝕み始めています」
「念……? 誰のものだ」
玄耀院が鋭く問うと、泰真は下を向き、わざとらしく言葉を詰まらせた。
「…………まさか」
玄耀院は苦渋に満ちた表情で目を閉じた。
光継も、玄耀院も、強烈な心当たりがあった。
光継が星を抱いて生まれたこと。
それを疎んだ鷲王を、玄耀院が強引に皇位から退かせたこと。
そのすべての遺恨が、鷲王院の心に深い闇を落としていたのだ。
光継は泰真をじっと見つめた。
あの日、泰真の落とした木札に触れ、彼の心の底にある“権力へのどす黒い欲望”と“鬼と鷲王院の影”を見た記憶が脳裏をよぎる。
(……泰真様、鬼、父上……私は、何を信じればいい)
「……陛下……そばに……」
桜華が苦しげに息をしながら、光継の袖を弱く掴んだ。
「離れない。必ず守る」
光継は桜華の枕元に座り、その冷たい手を両手で固く握りしめた。
玄耀院は静かに立ち上がった。
「……わかってほしかったのだがな。光継を守るため、わしは……」
「玄耀院様。この呪いを止めるには、あなた様が“不動明王の代わり”となり、三日間の断食・不眠不休の逆調伏を行うしかありません」
泰真の言葉に、光継は弾かれたように顔を上げた。
「祖父様! そんな……!」
「よい。今から入れば……七夕には戻れるだろう」
「……七夕の日に?」
「お前の産まれた夜だ。その日に、桜華も都も守られた姿で迎えたい」
「祖父様……」
玄耀院は傍らに控えていた入洞を呼びつけた。
「入洞。持仏堂を整えよ。護摩木と香を多めに用意せよ。煙で、この呪詛の念を焼き尽くす」
「ははっ。すぐに」
持仏堂には次々と護摩木がうず高く積まれ、香炉からはむせ返るような濃い香が焚かれ始めた。
「七日、十日ならば老体には厳しいが……三日ならば救いがあろう。これで彼奴にも……考え直してほしいものだ」
玄耀院は光継と桜華の頭を撫ぜた後、決意に満ちた足取りで持仏堂へと入っていく。
「誰も近づけるな。わしは……この都を守る」
重い御扉が閉ざされ、外から閂が下ろされた。
翌日。
桜華の容態は幾分落ち着いたものの、顔色は雪のように白く、息は浅いままだった。
光継は一晩中枕元に付き添い、一睡もしていなかった。
そこへ、静かな足音が清涼殿へ近づいてくる。
「藤房様がお見舞いに……!」
侍女の声と共に簾が上がり、桜華の叔父・藤房が姿を現した。
「桜華……!」
「叔父様……」
藤房は桜華の青ざめた顔色を見た瞬間、鋭く息を呑んだ。
「これは……念の強さが尋常ではない。光継様、泰真殿は何と?」
光継は言葉を返せなかった。
その沈黙が、逆にすべての状況を藤房へと伝えていた。
「今、祖父様が持仏堂で祈ってくれています……」
藤房は深く息を吸い込み、静かに、だが力強く告げた。
「陛下。この念を祓える者は、朧殿ともう一人おります。安倍春真――泰真殿の弟です。陰陽道の才は兄にも劣りません。すぐに呼び寄せます」
「春真殿と、朧……?そうか!」
「はい。ただし……朧殿は以前、光継様の念毒を解いた際、三日の間目を覚まさなかったと聞いております。春真殿も鬼払いの祈祷で都を離れており、到着は明日になるでしょう」
桜華は弱々しく首を振った。
「叔父様……ありがとうございます……ですが、陛下、朧様は呼び戻さないで……」
藤房は桜華の震える手を優しく包み込んだ。
「桜華……そうだな。まずは春真殿を連れてきましょう。陛下、どうか……桜華をお守りください」
「桜華……」
藤房は深く頭を下げると、急ぎ春真を呼び寄せるため宮を出ていった。
そして、七月七日の朝。
持仏堂の周囲は、朝の鳥の鳴き声すら聞こえない、不気味なほどに静まり返っていた。
夏の重たい朝霧が立ち込める中、黄金色の朝日がゆっくりと回廊へ差し込んでくる。
桜華の容態はまだ不安定で、光継は徹夜でその手を握り続けていた。
安倍春真も、朧もまだ戻っていない。
「……陛下……行ってください……祖父様のところへ……」
桜華の掠れた声に、光継は首を振ろうとしたが、彼女の懇願するような瞳に押された。
「……わかった。すぐ戻る。
茜、少しの間……頼んだぞ」
「……はい」
光継は桜華の手をそっと離し、持仏堂へと走った。
持仏堂へと続く回廊では、桜華の父である藤原正が焦燥に駆られた顔でウロウロと歩き回っていた。
一睡もできぬまま朝を迎え、身代わりとなった玄耀院の安否が気になって仕方がなかったのだ。
「――お早いな、藤原殿」
背後からかけられた低く冷たい声に、正は肩をびくっと震わせて振り返った。
霧の向こうから歩み出てきたのは、熊野御幸から戻ったばかりの上皇・鷲王院だった。
その傍らには、影のように入洞と安倍泰真が付き従っている。
「……開けい」
鷲王院の命で、宿直の武士たちが重い閂を外す。
ギギギ……と、重厚な扉が開かれた瞬間。
淀みきった香の臭気と共に、かすかな腐臭が外へと溢れ出した。
「――っ!」
正が言葉にならない悲鳴を上げる。
駆けつけた光継は、堂内を見た瞬間、全身の血が凍りついた。
壇上の不動明王像の前。
そこに、玄耀院は背筋をまっすぐに伸ばし、祈りの姿勢のまま――命を散らしていた。
まるで不動明王に寄り添うように、ピクリとも動かない。
「……祖父……様……?」
光継の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
視界が激しく揺れ、呼吸ができなくなる。
「う……あ……っ……」
光継が這うようにして玄耀院へ駆け寄ろうとした時、すかさず入洞が光継の肩を掴んで制止した。
その瞬間。
光継の星の力が、入洞の心を読み取ってしまった。
脳裏に濁流のように流れ込んできた映像。
それは、入洞が泰真から黒く禍々しい術符を受け取る光景。
そして――その奥で、すべてが計画通りに運んだとばかりに、鷲王院の瞳がわずかに、酷薄に笑う姿だった。
「……これは……」
光継の目から大粒の涙が溢れ出す。
「……嘘だ……嘘だ……嘘だ……」
すべては仕組まれていたのだ。
呪いも、逆調伏も、祖父の死も。
呆然としたまま、光継はただ、亡き祖父の前で声にならない声を漏らし、泣き崩れることしかできなかった。
「陛下……!」
正が必死に光継を支える。
入洞と泰真が、さも悲しげに静かに目を伏せる中。
鷲王院は光継から顔を背け、回廊の影へと歩み出た。
朝日を浴びてきらめく庭の池を、彼は冷たい目で見下ろした。
水面は静かで、まるでこれから訪れる都の惨劇を嘲笑うかのように揺れている。
「……終わったな」
その呟きは、父の死を悼むものでは決してない。
自らの“計画の完遂”を告げる、悪魔の勝利宣言だった。
誰も、この時まだ気づいていなかった。
玄耀院という巨大な重石を失った都が、この日を境に――血と泥に塗れた権力闘争という真の地獄へ、真っ逆さまに落ちていくことを。




