灰鬼
光と影が再び静かに結びついたあの日から数日後。
朧は、光継の解毒を成功させた功績により、都に用意された藤原家の真新しい屋敷で温かく迎えられていた。
檜の香りが漂う清浄な広間。灯火が穏やかに揺れる中、上皇・玄耀院は深い安堵と威厳を込めて口を開いた。
「今回の毒……念毒であることは判じられたが、誰が、何のために用いたかはまだ掴めておらぬ。だが、朧……光継を救ってくれたこと、心より感謝する」
「臣下として当然のことですが、お言葉、ありがたく頂戴いたします」
静かに、そして迷いなく頭を下げる十歳の少女の佇まいに、玄耀院は目を見張った。
年齢に似合わぬ落ち着きと、影の里で育った者の揺るぎない芯の強さが、彼女の小さな背中には滲んでいた。
「影辰殿の一族は、今後わしの直属として宮を守る。光継の護衛は、お前に任せたい」
「……御意」
その短い返答に、光継は嬉しそうに微笑み、朧を真っ直ぐに見つめた。
「朧が……そばにいてくれるのだな……?」
「はい。光継様のお傍を離れません」
だが、その温かな空気の裏で、都にはすでに不気味な影が這い寄り始めていた。
「朧。宮廷に仕える者を呼んだ。お前にも紹介しておこう」
鷲王院の合図で、広間の奥から一人の若い男が歩み出た。
狩衣を纏い、黒髪を後ろで束ねたその男の瞳は、透き通るような琥珀色をしていた。
年の頃は二十五ほど。静かな気配の中に、鋭い念の揺らぎを隠し持つ男――陰陽師、安倍泰真である。
「都では現在、怪異が出ています」
泰真の報告は、背筋が凍るような内容だった。夜な夜な朱雀門へ放った式神が帰還せず、翌朝には獣の爪で引き裂かれた残滓と、微かな血の跡だけが残されているという。
「町人の間でも、『夜に外出した者は行方知れずになる』と噂が立っています」
光継を守るためにも、都に潜む『影』の正体を確かめなければならない。
「……行かせてください。私は気配を消すことに長けております」
自ら見回りを志願した朧に、玄耀院は少しの躊躇いの後、静かに頷いた。
それから三日目の夜。亥の刻の終わり。
都が深い眠りにつく頃、黒装束を纏った朧は、朱雀門の深い影に同化するように立っていた。
分厚い雲が月を隠し、夜風が吹き抜けるたび、土と鉄、そして生臭い血の匂いが鼻腔を突く。
――ぢゅ……り……ぼき……り……。ぐしゃ……。
――くちゃ……ぐちゃ……ごく……ん……。
夜の石畳に沈む、骨が折れる鈍い響き。
肉を喰らう湿った咀嚼音。
「……何を、しているの……?」
雲間から顔を出した満月の光が、朱雀門の巨大な影を引き伸ばす。その影の奥で、朧が目にしたものは――人を喰らう妖だった。
人の形をしているのに、七尺(約2.1メートル)を超える巨体。黒く曲がった二本の角が月光に影を落とし、灰色の皮膚のひび割れからは、喰らった人間の温かい返り血が赤黒い筋となって滴り落ちている。
朧の胸の奥で、虚が怒りと恐怖に激しく波打った。
(……恐れも怒りも、まずは流せ……)
師匠・黒耀の教えを胸に、朧は深く息を吸い込んだ。束ねた黒髪が、自らが生み出した風にふわりと舞う。
「……行きます……」
静寂を切り裂き、朧が地を蹴った。
足元から放たれた土の礫が散弾のように鬼の顔面を襲う。
「グルァ!?」
鬼が怯んだ一瞬の隙。朧は短刀に『炎』を、足裏に『風』の術を纏わせ、瞬きする間に距離を潰した。
(狙うは心臓!)
灼熱の熱を帯びた刃を、鬼の胸元へ突き立てる。
ズブッ、という手応え。しかし――肉の奥にある強靭な肋骨に刃がガチリと噛み込み、それ以上奥へ進まない。
(硬い……っ!? これでは浅い!)
少女の背筋に、氷のような戦慄が走った。
鬼は激痛に狂い、突き刺さった短刀ごと朧を払いのけようと、丸太のような腕を振り抜いてくる。朧は即座に柄から手を離し、後方へ跳んだ。
「アァァァア……チクショウ……イテェ」
鬼が、自らの胸から短刀を抜き捨てて朧を振り返った。
「喋った!?」
濁った瞳が朧を捉えた瞬間、これまで幾度となく蹂躙してきた獲物に牙を剥かれた『怒り』が、赤く濁った念となって鬼の周囲の空気をゆらりと歪ませた。
ドクン……ドクン…ドクンドクン。
心臓が耳の奥で爆音を立てる。鍛錬を積んだ動きも、師から教わった理も、脳髄を直接揺さぶるような圧倒的な殺気の前に白く消し飛んでいく。
右手が情けないほどガタガタと震え、足が泥のように重くなる。
鬼が地を蹴り、凶腕が朧の頭上へと振り下ろされた。
(死ぬ!! 動け、動け動け動けぇ!!)
その時、朧の強張った身体を無視して、制御から外れた『虚』が鬼の念に反応し、黒い波となって強引に鬼の巨体をねじ伏せた。
「ガァッ!?」
予期せぬ反撃に、鬼の目に明らかな『戸惑い』が走る。
この隙を逃せば、死ぬ。
恐怖に抗い、朧は地面に落ちていた短刀を拾い上げると同時に、震える足に無理やり『風』を纏わせて懐へ飛び込んだ。
刃に再び『炎』を宿らせ、鬼の腕を切り飛ばす。
「ウガァァァァッ!!」
激痛と苛立ちに狂った鬼が、残った右腕を横一線に振り抜く。ズバァーン!! と、屈んだ朧の頭上を凶腕が引き裂き、風圧だけで髪が数本吹き飛んだ。
獣のような、血と泥の混じった濁った息が頬を掠める。
初めての死線。恐怖も、焦りも、すべてを生存への執念に変え――朧は返す刀で、鬼の剥き出しになった顎の下から、脳天を貫くように刃を突き上げた。
鬼の巨体が、ピタリと動きを止める。
素早く刀を抜き、間合いを取る朧の前で、鬼は濁った瞳を見開き、かすれた声を漏らした。
「ソンナ……オマエハ……シュウ」
鬼が、信じられないものを見るような目で何かを言いかけた、次の瞬間だった。
――スパン!
夜気を切り裂く鋭い音と共に、鬼の首が、まるで目に見えない巨大な刃に刎ねられたかのように、呆気なく地面へと転げ落ちたのだ。
朧が放った一撃ではない。
暗闇の奥、誰もいないはずの朱雀門の影の中で、何かが、あるいは誰かが『確実な殺意』を持って鬼の首を落としたのだった。




