結び
都の喧騒から遠く離れた、山深い『影の谷』。
陽の光すら木々に遮られるその場所へ、父・影辰と共に戻った黒髪の少女――朧は、胸の奥で微かに震え続ける『虚』を持て余していた。
(……あたたかい……)
都で触れた、あの“光継”という名の幼い皇子の光。
その余韻が、今も胸の奥で静かに揺れている。
戸口では、母が安堵の笑みを浮かべて出迎えた。
「おかえりなさい、朧。
都はどうだった? 疲れたでしょう」
「……人が多かった。
空も明るくて……虚が、ずっとざわざわしてた」
虚は、人の放つ負の念を呑み込む水のようなものだと言われている。人が集まる都では、それだけ虚の負担も大きい。
母が心配そうに頬に触れるが、朧は小さく首を横に振った。光継と出会ったことは言わなかった。余計な心配をかけたくなかったし、何より、あの温かい光の記憶を、まだ自分だけのものにしておきたかったからだ。
「朧、帰ってきたんだ。都……どうだった?」
奥の部屋からひょっこりと顔を出したのは、姉の霞だった。
隣では、まだ幼い妹の茜がすやすやと寝息を立てている。
「……霞姉起きてたんだ?」
「うん。私は……絶対に朧を守るんだから、起きて待ってないとね!
私のいないところで、無理したらダメだよ!」
「……私が器なのに……」
「妹なんだから当然でしょ。器でも、朧は朧だよ」
朧は少し笑った。
「……霞姉は、優しい」
「妹なんだから、お姉ちゃんを頼りにしてね!
今日はもう寝ようね」
胸を張る霞の優しさに、朧の張り詰めていた心がふわりと解け、年相応の笑みがこぼれた。
翌朝。
谷の奥深くにある修練場で、黒耀師匠の厳しい声が響いた。
「朧、虚を開け」
「……昨日、都で……虚が勝手に揺れた」
朧の告白に、黒耀は鋭く目を細めた。
「都には念が多い。負の念も、願いも、欲も。虚はそれを呑む。器の虚には自我があるから、勝手に動くこともある」
「光継様か。星の光を持つ皇子だな」
と呟き、静かに教えを説いた。
器は戦乱の前触れであり、星の皇子は民の願いを叶える力を持つ。
光と影は、互いを呼ぶ運命にあるのだと。
「……こわい」
「恐れは影を濁らせる。だが、恐れていい。
器は孤独だが……朧、お前は一人ではない」
黒耀の言葉に背中を押され、朧は小さな手のひらを正面へ突き出すと、胸の奥の虚が、透明な冷たい水のように腕を伝って流れる。
次の瞬間――朧の掌の前で、空気が波のように大きくうねった。
「そのまま流せ。虚を離すな」
朧が息を整え、“空を掴む”ように指を動かすと、うねりは鋭い旋風となって舞い上がり、朧の周りをくるりと回って空へ吸い込まれていった。
「……できた……」
驚きと喜びで手を見つめる朧に、黒耀は深く頷いた。
ー朧の器としての修練は毎日続き、四年が経った。
光継の即位から時が流れ、朧は十歳になっていた。
夏の風が青草を揺らす中、黒耀と朧は薬草を売るために都の通りを歩いていた。
「おや、藤原家のお嬢様じゃないか。黒髪が綺麗やなぁ」
「影辰様の娘さんやろ? 都でも評判やで」
すれ違う町民たちが、次々と親しげに声をかけてくる。光継の治世のもと、都は穏やかで明るい空気に包まれていた。
「光継様はほんまにええ皇やわ」
町民の笑顔を見るたび、朧は自分のことのように胸が誇らしく、温かくなるのを感じた。
だが、その平穏は唐突に引き裂かれた。
「大変や! 光継様が倒れはった!」
「毒やて! 毒見役の女中が亡くなられたらしい!」
悲鳴のような知らせが通りを駆け抜けた瞬間、朧の胸の虚が、激痛が走った。
「師匠、行かなきゃ……!」
制止する黒耀の声を振り切り、朧は自らの気配を極限まで薄くして宮中へと走り出した。
光継の宮は、すでに完全武装の兵士たちで埋め尽くされていた。
「誰も通すな! 入るも出るも許さぬ!」
怒号が飛び交う中、朧は息を整え、胸に虚を集めた。
「……光を、曲げる……」
兵士の視界がふっと歪み、朧の姿が靄のように霞む。兵士たちの間を影のようにすり抜け、彼女は一直線に奥の寝所へと駆け込んだ。
「光継様……!」
思わず声を出してしまったことで影の術が解け、朧の姿が唐突に現れる。
「誰だ!!」
鷲王院の怒声と共に、兵士たちが一斉に朧の細い腕を拘束した。
「怪しげな術を使う者が宮に侵入するなど、許されぬ!」
だが、その騒ぎを制したのは、静かに光継を見守っていた玄耀院だった。
「……その黒髪にその白肌……影の里の血か。名は?」
「藤原影辰の娘……朧です……光継様が……死んじゃうかもしれないって聞いて……」
必死に訴える朧の瞳の奥底に、玄耀院はただならぬ覚悟を見た。
「影の一族には治癒の力もあると伝わる。もし其方が里の者であれば──光継の毒を、直してみせよ」
治癒など、伝承の中でしか聞いたことがない。誰も使ったことがない。
だが、朧に迷いはなかった。
「……やらせて下さい!」
震える手で光継の枕元に座る。
光継の顔は死人のように青白く、呼吸は浅く途切れがちだった。母親の輝子が、崩れそうな心で必死にその手を握りしめている。
朧は、光継の胸元へそっと指先を伸ばした。
「……虚……お願い……光継様を……」
朧の指先に集まった影が、黒い霧のように揺れながら光継の胸へと吸い込まれていく。
その瞬間――朧の視界が、ふっと真っ白に暗転した。
気がつけば、そこは白と薄い青緑色の光が満ちる静寂の世界だった。
水面のように揺れる光の道の中央で、光継がぽつんと立っていた。その足元には、赤黒い毒の霧が蛇のように絡みついている。
「光継様……!」
光継の意識は薄い。
「……ぁ……あの時の……お姉……さん……?」
朧は迷わず、光継の足元に蠢く赤黒い霧に素手で触れた。
霧は朧の指先に吸い寄せられ、彼女の『虚』が猛烈な勢いでそれを呑み込み始める。
「……っ……!」
全身を駆け巡る激痛。現実世界の朧の白い腕にも、毒が逆流するように赤黒い血管のような影がじわりと浮かび上がり、這い上がっていく。
「朧殿の腕……! 毒が……!」
皇医の悲鳴が遠く聞こえる。
痛みに視界が滲む。それでも朧は、光継の小さな手を強く、強く握りしめた。
「だめ……行かないで……!」
「……あたたかい……」
朧の虚が毒を喰らい尽くすにつれ、光継を包んでいた温かい光が少しずつ元の輝きを取り戻していく。
「光継様……帰りましょう……みんな待ってます……」
「……うん……」
二人の手がしっかりと結びついた瞬間、光の世界が大きく揺れ、朧の意識は現実へと引き戻された。
「……脈が……戻っている……!」
皇医の震える声が寝所に響いた。
光継の胸が大きく上下し、青白かった頬に確かな血色が戻る。それを見届けた瞬間、限界を迎えた朧は、ふらりとその場に倒れ込んだ。
ーー三日後。
朧がゆっくりと重い瞼を開けると、部屋中を囲むように黒耀、輝子、そして――すっかり元気を取り戻した光継が座っていた。
「……朧……聞こえてる? ……ありがとう」
光継が、あの光の世界と同じ温かさで、朧の手をそっと握りしめる。
「あの時のお姉さん......だよね?
また、助けに来てくれて……嬉しかった」
その純粋な言葉に、朧の瞳から堪えていた涙がひとすじこぼれ落ちた。
「覚えてらっしゃったのですね……? 私も……光継様が元気になられて……嬉しいです」
輝子もまた、朧と光継の重なった手の上に、自らの手をそっと重ねた。
「其方は光継にとって、いや、宮にとって必要な存在です。影辰殿にも、必ずや礼を尽くしましょう」
「朧……また会えるよね」
「もちろんです。絶対に」
庭の木材から彼を救ったあの日から四年。
影と光は、命の境界を越えて、再び深く、そして決して切れることのない強い絆で結びついた。




