風
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本作は、歴史の裏で暗躍する「星」と「影」の大河ファンタジーです。
第1話はすべての始まり。後に帝となる皇子・光継と、影の少女・朧がまだ幼かった頃の、ほんの小さな出会いを描いています。
動き出した数奇な運命の幕開けを、どうぞお楽しみください。
風はないはずだった。
夏の夜気と静寂が支配する都の道端で、一枚の葉が、ふっと生き物のように舞い上がった。
誰かがふうっと息を吐き出したかのように、葉は夜空を滑り、軒先を掠めていく。
その軌跡は、まるで見えぬ巨大な龍が闇夜を駆け抜けたかのように。
風は次第に熱と力を帯び、重厚な屋根瓦を撫で、石畳の埃を渦高く巻き上げる。
「……なんだ、今の風は」
不自然な突風に、人々は思わず戸を開け、不安げに顔を覗かせた。
だが、その風が向かった先は、里の外れでも、都の奥深くでもない。
一直線に、ひとつの小さな産屋の戸口へと流れ込んだ。
バサァッ!
産屋に張り巡らされた白い布が大きく揺れ、灯火の炎が一度だけ、狂ったように大きく踊る。
そして、産屋の中心で苦しむ若い妃の胎内へ吸い込まれるようにして、風は嘘のように静まり返った。
「もっと、もっと力を――息を、息を吐いて!」
産婆の鋭い声が、血の匂いが立ち込める産屋に響き渡る。
命を繋ぐ紐を握る手からは汗が弾け飛び、荒々しい呼吸が床板を震わせている。
乳母が必死に額の汗を拭う中、若い妃はギリッと歯を噛みしめ、絶叫と共に命を産み落とそうとしていた。
産屋を覆う『白』は、ただの色ではない。それは祈りであり、厳格な儀礼であり――そして、死と生の境界線そのものだった。
同じ刻。
都から遠く離れた山深い『影の谷』。
ひとりの少女が、雪のように白い手をそっと自分の胸に当てていた。
視線は、遠い京の空へと向けられている。
(……あたたかい……でも、重い……)
彼女の胸の奥にある『虚』が、微かに、しかし確かな鼓動を持って震えていた。
それはまるで、誰かの強烈な祈りに応えた残り香のような感覚だった。
影の里の掟は、血を吐くほどに厳しい。
少女のように『器』として生まれた者は、世界の均衡を保つための鍵であり、強すぎる『光』の代償をその身で払う過酷な運命を背負わされているのだ。
七夕の夜。
京の都と影の谷で、決して交わるはずのなかった『光』と『影』の運命が、産声を上げて目を覚ました。
葉を舞わせたあの見えぬ風は、これから始まる壮絶な物語の、ほんの前触れ。
これから先――刀と金、そして人々のどす黒い欲と純粋な祈りが交錯する狂乱の舞台で、二つの力はゆっくりと、しかし確実に互いを求め始めることになる。
ーーー
時は流れ、光継が生まれてから三年後の春。
羅城門の向こうから吹き抜ける風が梅の香りを運び、朱塗りの柱に反射する朝日が、都そのものを照らす灯のように輝いていた。
池の水面がきらきらと光り、若葉が揺れるうららかな後宮の庭。
しかし、その静寂は侍女たちの悲鳴じみた声で引き裂かれていた。
「光継様ーっ! どこへ行かれたのですかーっ!」
「早く探しなさい! 帝に知られたら……!」
ほんの一瞬、目を離した隙に、三歳の皇子が姿を消してしまったのだ。
「泣いておられたらどうしましょう……!」
侍女たちが右へ左へ走り回る中、当の光継は庭の奥深くで、一人ぼっちで涙をこぼしていた。
「……どこ……? ……こわい……」
涙で視界が滲む。
小さな足でよちよちと歩きながら、光継がぽつんと立ち尽くしたその背後。
壁に立てかけられていた重い木材が風に煽られ、ギシ……と不穏な音を立てた。
光継は気づかない。木材はゆっくりと、しかし確実に、幼い皇子の真上へと傾いていく。
――その時。
後宮の屋根の影には、ひとりの少女が潜んでいた。
(……? ……光が……近い……)
彼女の胸の奥の『うつろ』が、三年前の七夕に触れた光の余韻に共鳴するように震えている。
影は人の世界に干渉してはならない。少女もまた、表に出るつもりはなかった。
そう思った瞬間。
うつろが、鋭く警鐘を鳴らした。
(……危ない……!)
息を呑む。倒れゆく木材が光継の頭上に迫った瞬間、少女の身体が勝手に前へと弾き出されていた。
少女は影を置き去りにするような神速で庭へ飛び降り、木材が激突する寸前で光継の腕を抱き寄せ、地面を転がった。
ドンッ!!
間一髪。乾いた轟音が庭に響き渡り、木材が地面に叩きつけられる。
舞い散る埃の中、光継は驚いて丸い目を見開いた。
「……怪我は……ない……?」
息を整えながら、少女がそっと光継を離す。
「たすけてくれたの……?」
光継は涙を拭いながら、目の前の少女をじっと見つめた。
それは、幼い彼の目にも焼き付くほど、異質で美しい存在だった。
陽の光を拒絶するような深い闇色の長い黒髪は、風に揺られ、静かに流れる黒い絹のよう。雪よりも薄く、触れれば消えてしまいそうな白い肌。
その対比の中で、黒い瞳だけが強く、怖いほど静かに光継を映し出している。
だが、その瞳の奥には、泣いている自分を案じるような確かな『温度』があった。
少女の黒髪の先が、光継の小さな肩にふわりと触れる。
「……あったかい……」
思わずこぼれた光継の言葉に、無表情だった少女の唇が、わずかに微笑みの形を作った。
「こっちです! こっちから聞こえました!」
草を踏む音、衣擦れの音が急接近してくる。甘い時間は、侍女たちの足音によって破られた。
(……人が来る……)
少女がすっと身を引こうとした瞬間、光継が慌ててその袖を掴んだ。
「……いかないで……」
「……だめだよ……」
静かな声と共に、少女は自らの気配を極限まで薄くしていく。
駆け込んできた侍女たちが光継を取り囲む。
「光継様ーっ!! ご無事ですか!?」
侍女の袖が少女の肩をかすめたが、誰一人としてそこに『人』がいることに気づかない。空気が彼女を拒絶するかのように、その輪郭が淡く揺らいでいく。
ただ一人――光継の視界にだけ、朝の光を拒むように揺れる黒髪の端が残り、そして、幻のように消え去った。
「……あ、名前……」
侍女たちの安堵の悲鳴に紛れ、光継は小さく呟いた。
翌日。
上皇、玄耀院の指示により、皇子・光継を即位させることが早められた、後宮の空気はかつてなく張り詰めていた。誰もが「皇子に傷ひとつつけてはならぬ」と息を詰める中。
光継だけは、胸の奥に消えないざわめきを抱えていた。
(……あの子……)
黒い影の少女。倒れかけた木材。自分を抱き寄せた、あの腕の温かさ。
時を同じくして、遠く山深い影の谷。
「……器が、呼ばれたか」
長老の呟きと共に、風が揺れ、影が静かに形を変えた。
即位の儀を告げる鼓の音が宮中に響き渡る中。
星の光を持つ皇子と、影を背負う器の少女の運命の歯車が、今、静かに、そして激しく回り始めた――。




