雅白
「これは玉藻前の呪いなり!!」
安倍泰真の狂気に満ちた絶叫が、叶皇の寝所に木霊した。
彼が掲げた『出雲しず石』から放たれる青白い燐光は、まるで地獄の底から湧き上がる瘴気のように冷たく、そして禍々しい輝きを放っていた。
その光は真っ直ぐに霞を射抜き、壁には『九つの尾』がゆらゆらと蠢く影が、あまりにも鮮明に映し出されていた。
「ひっ……!」
「あ、あああ……っ!」
寝所の外で控えていた宦官や女官たちの間から、声にならない悲鳴が漏れた。 彼らの脳裏に、五年前に都を地獄へと変えた『玉藻前』の記憶が蘇る。
空を覆い尽くしたおぞましい肉傀儡、都の地下で響き渡っていた生贄たちの断末魔、そして、生臭い血と腐肉の匂い。
「妖だ……玉藻前が、蘇ったのだ!!」
「霞様が、妖だったのだ! 逃げろ、喰われるぞ!!」
誰かが叫んだその一言が、限界まで張り詰めていた恐怖の糸をプツリと切った。
宦官たちは我先にと逃げ出し、転倒し、互いを踏みつけ合いながらパニックに陥った。恐怖に駆られた彼らの目には、苦しむ霞の姿が、かつて都を蹂躙した大妖そのものに見えていた。
「違う! 霞姉は妖なんかじゃない!!」
朧が駆け寄り、熱にうなされる霞を必死に抱きしめた。
「熱い……朧、離れて……私が、また暴走して……」
「霞姉のせいじゃない! これは泰真が石の力で無理やり引き出しているだけだ!」
朧は『虚』の力を使ってしず石の光を遮ろうとするが、神代の禁忌の霊石から放たれる光は、虚の力をすり抜けて霞の奥底にある『残り香』を抉り出そうとしていた。
霞の白銀の髪が、禍々しい黄金色に染まりかけ、彼女は胸を掻き毟りながら苦悶の声を上げる。
「泰真ッ!! 貴様、何ということを!」
源朝霧が怒号と共に刀を振りかざし、泰真へと斬りかかった。 しかし、泰真の前に黒い影が立ちはだかる。武将・平青成であった。
ガギィィィンッ!!
朝霧の太刀と青成の剛剣が激突し、火花が散る。 「青成……貴様も狂ったか!」
「狂っているのはそっちだろう、朝霧。宮中に妖を匿い、あまつさえ叶皇に呪いをかけていた大罪人どもめ」
青成の目は、かつて玉藻前の配下である『青鬼』の依代と化していた時のように、濁った悪意に満ちている。
完全に妖の力から解放されたはずの彼が、なぜ再びこれほどの瘴気を纏っているのか。
「光継様! ここは我らが食い止めます!」
藤房も駆けつけ、朝霧と共に青成と泰真に対峙する。
だが、その乱戦の最中。
「……ごふっ……!!」
病床の叶が、これまでで最も大量のどす黒い血を吐き出し、その細い身体を大きく痙攣させた。
「叶!!」
光継が血相を変えて叶の元へ駆け寄り、その身体を抱き起す。 叶の顔色はすでに死人のそれであり、瞳からは急速に光が失われつつあった。
「……光継……様……」
「喋るな! 誰か、薬師を! 皇医を連れてこい!!」
光継の怒号が響くが、パニックに陥った清涼殿には、もはや叶を救おうとする者は誰一人として残っていなかった。
「陛下……! 嘘です、そんな……」
桜華が叶の冷え切った手を両手で包み込み、大粒の涙をこぼす。
「みんな……どうか、泣かないで、ください……」
叶は、震える手で光継の頬に触れた。
その手は、まるで氷のように冷たかった。
「私の、命は……もとより、長くないと……分かって、おりました……」
「馬鹿なことを言うな! 君はこの国に必要な皇だ! 民を慈しみ、誰よりも平和を願った君が、こんなところで終わっていいはずがない!」
「ふふ……光継様に、そう言っていただけて……私は、幸せなです……」
叶の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
彼はゆっくりと視線を巡らせ、泣きじゃくる桜華、必死に霞を抱きしめる朧、そして自分を守ろうと刃を交える朝霧や藤房を見た。
「あぁ……皆の、温かい絆が……私には、とても眩しくて……羨ましかった……。
珠貴母上にも……この温かさが、分かれば……よかったのに……」
叶の脳裏に浮かんだのは、自らを権力の道具としてしか見ていなかった母・珠貴の冷たい微笑みであった。それでも叶は、母を憎むことはできなかった。
「光継様……どうか、この国を……次代の、光仁を……お守り、ください……。私の、大好きな……この美しい都を……」
「叶! 叶っ!!」
その言葉を最後に、叶の腕が力なく床に落ちた。
虚空を見つめていた瞳がゆっくりと閉じられ、叶皇は静かに息を引き取った。
薄氷の平和を保っていた心優しき名君の、あまりにも呆気なく、呪われた最期であった。
「……っあぁぁぁぁぁぁッ!!」
光継の絶叫が、嵐の夜の宮中に悲痛に響き渡った。 だが、その哀しみを嘲笑うかのように、泰真と青成は薄暗い笑みを浮かべながら後ずさりしていく。
「見ましたか、皆様。光継派が匿っていた妖が、叶皇を呪い殺しましたぞ!」
泰真が外に向かって声を張り上げると、怯えて遠巻きに見ていた貴族たちの中で、疑心暗鬼と恐怖が確信へと変わっていった。
「おのれ……よくも叶皇を!」
「光継院は、自らが皇位を奪還するために、妖を使って皇を呪殺したのだ!」
憎悪の矛先は、完全に光継と霞たちに向けられた。 五年前の平和な日常は、たった一夜にして脆くも崩れ去り、都は再び血塗られた権力闘争の闇へと引きずり込まれていった。
ーーー
叶皇の崩御から数日後。 都は、重苦しい喪の空気に包まれると同時に、かつてないほどの異様な熱狂と殺気に満ちていた。
紫宸殿で行われた緊急の朝議において、泰真と青成が提出した『証拠』——しず石によって九尾の影を映し出された霞の姿を見たという宦官たちの証言——により、光継派は完全に孤立無援の状態に陥っていた。
「妖を匿い、皇を呪殺した光継院を即刻排除せよ!」
「我が国を妖の手に渡してはならぬ!」
恐怖に駆られた貴族たちの大合唱が、紫宸殿を揺るがす。 藤房が毅然として立ち上がり、反論を試みる。
「愚かな! 霞殿は妖ではない! 叶皇を死に至らしめたのは、出雲しず石という禁忌の呪物を用いた泰真殿の呪詛である!」
「左様! 光継様は叶皇を誰よりも案じておられた! 騙されるな!」
源朝霧も声を張り上げるが、集団心理という名の狂気に支配された場では、理路整然とした反論など、暴風雨の前の木の葉に等しかった。
「………静まれ」
その時、御簾の奥から低く、冷酷な声が響いた。
現れたのは、珠貴であった。
喪服に身を包みながらも、その妖艶な美しさは少しも損なわれておらず、むしろ凄みすら増していた。
「私の愛する息子、叶は……光継たちに呪い殺されました。この悲しみを、どうしてくれましょう」
珠貴が嘘泣きをしながら袖で顔を覆うと、貴族たちの光継への憎悪はさらに燃え上がった。
「珠貴様のお悲しみ、察するに余りあります!」
「直ちに光継院たちを捕縛し、罰を!」
珠貴は袖を下ろし、ふっと冷たい微笑みを浮かべた。
「ええ。光継たちは追って裁きを下します。ですが、今は皇位を空位にしておくことはできません。我が国には、新たな光が必要です」
彼女が手を差し伸べた先、御簾の奥から一人の少年が歩み出てきた。 鷲王院と輝子の子であり、光継の異母弟にあたる雅白であった。
現在七歳となるその少年は、幼い頃に蝶の羽をむしり取って残酷に嗤っていた時と全く変わらぬ、冷酷で底知れぬ悪意を瞳に宿していた。
「紹介しましょう。新たな皇となる、雅白です」
雅白が玉座へと歩みを進める。その傍らには、青成が忠実な猟犬のように控えていた。
雅白は玉座にどっかりと座ると、見下ろすように貴族たちを見渡し、薄く笑った。
「……泣くな。死んだ者など、弱かっただけだ」
その幼くも邪悪な言葉に、背筋を凍らせる者もいたが、泰真と青成がすかさず平伏したことで、貴族たちも雪崩を打つように新皇へ頭を下げた。 妖の落とし子とも言える残忍な少年が、都の頂点に君臨した瞬間であった。
その光景を、部屋の片隅でただ呆然と見つめている老人がいた。
上皇・鷲王院である。
かつては絶対的な権力と威厳を誇り、冷酷に政を操っていた彼であったが、今はその面影は全くなかった。
愛する息子、叶の突然の死。
そして、九尾から自分を解放してくれた息子、光継がその九尾を匿っていた事実。
鷲王院は震える手で宙を掴もうとしたが、その手は何にも触れることはなかった。 自分が築き上げてきたと思っていた信頼が幻であったのかという絶望。 彼は完全に心を折られ、もはや一言も発することができない廃人と化していた。
玉座に座る雅白と、傍らに立つ青成。 そして、狂気に満ちた笑みを浮かべる泰真と珠貴。
光継派を排除せよという狂乱の大合唱が響き渡る中、都は再び、最も深く暗い絶望の淵へと沈んでいったのであった。




