しす石
都を覆っていた暗雲が晴れ、光継と朧が新たな誓いを立ててから、さらに五年の歳月が静かに流れ去っていた。
光継と桜華の間に生まれた光仁は、周囲の深い愛情と祝福を一身に浴びて健やかに成長し、宮中の庭を駆け回る無邪気な声が、人々の心を和ませている。
光継は院として一歩引いた立場から国を見守り、皇位を継いだ叶は、生来の病弱な身を押して政務に励んでいた。民を慈しみ、争いを好まぬ叶の治世は、多くの者から「名君」として慕われていた。
藤原藤房や源朝霧といった忠臣たちがその治世を盤石なものとして支え、かつての凄惨な戦いや、大妖・玉藻前の影は、もはや過去の悪夢として歴史の闇に忘れ去られようとしていた。 だが、その平和は薄氷の上に築かれた幻想に過ぎなかった。
都の南端に佇む寂れた廃寺の地下。 香炉の煙と生臭い腐臭が充満する石室で、上皇の寵姫・珠貴は、冷たい笑みを浮かべながら盃を傾けていた。その背後には武将・平青成が控えている。かつて玉藻前の依代として狂気を振るった男は、今もなお底知れぬ悪意をその身に宿していた。
「青成。……準備は進んでいるかしら?」
「あぁ。藤原正の没落への焦燥を利用し、陰謀の種はまいた。……そして、出雲の秘境より秘かに奪い去りし、あの『石』も……」
青成が恭しく差し出した文様入りの小箱。 その蓋が開かれると、不気味な青白い燐光を放つ『出雲しず石』が姿を現した。
神代の昔、大妖の邪気を極限まで増幅し、隠された妖性を強制的に引き出すとされる禁忌の霊石である。
「うふふ……見事だわ」
珠貴の瞳が、黄金色の妖光を放つ。彼女の腹から生まれた『妖の落とし子』である叶を玉座に縛り付けながらも、真の目的は別にあった。
「光継の血脈も、あの用無しの叶も……すべてこの手で終わらせる。あの女(霞)の中に眠る『九尾の残り香』をこの石で呼び覚ませば、都は再び恐怖に狂い、あの子が真の帝として君臨する……」
陰から姿を現したのは、狂気に顔を歪ませた陰陽師・安倍泰真であった。行方をくらませていたかつての筆頭陰陽師は、しず石の光を見つめ、恍惚とした笑みを漏らす。
「すべては、玉藻様……そして珠貴様のご意向のままに」
都の平和という薄氷の下で、時代は破滅へと向かって静かに流れだしていた。
ーーー
秋の長雨が続くある夜。 冷たい雨音が清涼殿の静寂を破る中、突如として悲鳴のような声が響き渡った。
「叶様が! 御上がお倒れに!」
その知らせは、宮中を駆け巡り、安寧の空気を一瞬にして凍りつかせた。叶皇は、政務の最中に突如として大量の血を吐き、そのまま意識を失ったのだ。
光継は知らせを聞くや否や、桜華と朧、そして霞を伴って叶の寝所へと駆けつけた。
「叶! 叶、しっかりしろ!」
光継が血相を変えて呼びかけるが、叶の顔色は死人のように青ざめ、額からは脂汗が滝のように流れ落ちていた。浅く速い呼吸を繰り返し、苦痛に顔を歪めている。
「光継、様……」
掠れた声で叶が呟く。その目は焦点が合わず、虚空を彷徨っていた。
「すぐに皇医を呼べ! 薬湯を急がせろ!」
光継の怒号が飛ぶ。しかし、駆けつけた皇医たちは叶の脈を診るなり、絶望的な表情を浮かべた。
「こ、これは……ただの病ではございませぬ。内臓が……まるで目に見えぬ炎で焼かれているかのような……」
「病ではないだと……?」
光継の脳裏に、かつての忌まわしい記憶が蘇る。妖魔、呪詛、そして——。
「陛下、私に診させてください」
進み出たのは、かつて九尾の器とされ、その後奇跡的な生還を果たした霞であった。
彼女の白銀の髪が、寝所の薄明かりに揺れる。 霞がそっと叶の胸元に手を当てると、彼女の顔色が一瞬にして蒼白となった。
「これは……毒でも、病でもありません。極めて強力で、底知れぬほど深く冷たい『念』です。それも、ただの念ではない……」
霞の言葉に、光継は自らの右手を凝視した。
手の甲には、かつて己の命を削って事象を書き換えた「菊の御紋」が刻まれている。残された花弁は、あの日からさらに減り、ごく僅かとなっていた。
「私の、言霊の力で……!」
光継が意を決して右手を叶にかざそうとしたその時。
「なりませぬ、光継様……」
力なく、しかし確かな意志を持った手で、叶が光継の右手を掴んだ。
「叶……!」
「貴方様のその力は……私のようにもう長くない命のために、使ってはなりませぬ……。次代の光である、光仁のために……この国のために、残しておいて、ください……」
「馬鹿なことを言うな! 君もこの国に必要な人間だ!」
「私など……所詮は、繋ぎの皇……。光継様が、真の……」
激しく咳き込み、叶の口から再び赤黒い血が溢れ出す。
「叶様!」
桜華が悲鳴を上げ、朧は唇を強く噛み締めた。 朧の胸の奥にある『虚』もまた、かつてないほどの激しい不協和音を響かせていた。
宮中を覆い尽くそうとする、ねっとりとした悪意の気配。
「光継様、霞姉。これは……あの時と同じ、いや、それ以上に狡猾で濃密な瘴気です」
朧の言葉に、光継はハッとして周囲を見渡した。
「まさか……玉藻前は完全に消滅したはずだ! 泰真も行方知れずで……」
その時だった。
「ククク……ハハハハハッ!!」
寝所の奥、暗闇に沈む障子の向こうから、床を踏み鳴らすような低い笑い声が響いた。重々しい足音と共に、障子が音もなく開き、一人の男が姿を現した。
「……誰だ!」
朝霧が即座に刀の柄に手をかけ、前に進み出る。 だが、その男の顔を見た瞬間、光継も朧も、その場にいた全員が息を呑んだ。
「ご無沙汰しておりますな、光継様。そして……愛しき『器』たちよ」
深い闇を纏った狩衣。乱れた髪の間から覗く、狂気に満ちた琥珀色の瞳。かつて筆頭陰陽師として都に君臨し、玉藻前に魅了されてその犬と成り下がっていた男——安倍泰真であった。
「泰真……貴様、生きていたのか!」
光継の怒声が響く。あの激闘の末、行方をくらませていた泰真が、なぜ今、宮中の奥深くに立ち入ることができたのか。
「生きていた、とは心外な。私はずっと、玉藻様の御心のままに……この時を待っていたのですから」
泰真の目は、完全に常軌を逸していた。かつての玉藻前に魅了されていた時よりも、さらに深く、暗く、底なしの狂気がその瞳の奥で渦巻いている。
「貴様が、叶に呪いをかけたのか!」
朝霧が刀を抜き放ち、泰真へと肉薄する。しかし、泰真は一切動じることなく、懐から何かを取り出し、高く掲げた。
「呪い? 違いますよ。これは……大いなる御魂の、目覚めの儀式です」
泰真の手に握られていたのは、不気味な青白い燐光を放つ文様入りの小箱であった。 パチン、と音を立てて蓋が開かれる。
「なっ……なんだ、その光は!」
小箱の中から現れたのは、神代の昔より出雲の秘境に封印されていたとされる禁忌の霊石——『出雲しず石』であった。
大妖の邪気を極限まで増幅し、隠された妖性を強制的に引き出すとされる恐るべき石。 しず石から放たれた強烈な青白い光が、寝所を照らし出す。
その光は、苦しむ叶皇を通り越し、真っ直ぐに一人の少女へと注がれた。
「きゃあっ……!」
「霞姉!」
光を浴びた霞が、胸を押さえてその場に崩れ落ちた。
「これは……熱い……体が、焼ける……!」 霞の純白の髪が、毛先からじわじわと禍々しい黄金色に染まり始める。
そして——。
「これは玉藻前の呪いなり!!」
泰真の狂おしいまでの絶叫が響き渡った。
放たれたしず石の光が、壁に霞の影を色濃く映し出す。
光継たちは、その影を見て全身の血が凍りつくのを感じた。
壁に映し出された霞の影——そこには、人間の少女の影ではなく、ゆらゆらと蠢く『九つの尾』が鮮明に、あまりにも鮮明に映し出されていたのだ。
「馬鹿な……霞の中に眠る『九尾の残り香』が……引き出されているというのか!?」
光継の戦慄の声が、雷鳴のように響いた。 静かに流れ出した破滅の足音が、五年という歳月を経て、再び彼らの前に絶望の扉を開け放った瞬間であった。




