叶
穏やかな春の陽差しが、御所の庭園を柔らかく包み込む。
皇という重責を背負うことになった叶は、縁側で静かに息をついた。
その傍らには、上皇となった光継が穏やかな笑みを浮かべて座っている。二人の間に流れる空気は、権力の移譲に伴う緊張など微塵も感じさせない、本当の親子のように温かいだものだった。
「少し、風が冷たいか? 叶」
光継が気遣うように声をかけると、叶はゆっくりと首を振って微笑んだ。
「いいえ、光継様。とても心地よい風です。こうして貴方様と過ごす時間が、私には何よりの安らぎですから」
生来、身体が細く体調を崩しやすい叶にとって、光継の存在は大きな支えだった。
上皇として一線を退いた後も、光継は事あるごとに新皇である叶を気遣い、良き理解者として常に寄り添ってくれている。叶もまた、光継の懐の深さを心から信頼していた。
ふと、庭の奥から弾けるような高い笑い声が響いてきた。
二人が視線を向けると、そこには茜の姿があった。彼女は春の日差しそのもののように明るく、庭中を元気いっぱいに飛び回っている。その少し後ろでは、桜華と朧が呆れたように笑い合いながら、茜の無邪気な様子を眺めていた。
桜華と朧もまた、肩を並べて楽しげに言葉を交わしており、二人の仲睦まじく穏やかな空気が、庭園に一層の華やぎを添えている。
「茜は、今日も元気だな」
光継が目を細めて言うと、叶の顔にも自然と柔らかな笑みが浮かんだ。
「はい。……本当に、彼女を見ていると、こちらまで心の底から温かくなります」
叶は自身の細い手首に視線を落とし、小さく息を吐いた。
「私には、彼女のような健やかさも、周囲を惹きつける眩しいほどの活力もありません。少し無理をすれば息が上がり、季節の変わり目にはすぐに床に伏せてしまう。
だからこそ……茜のあの屈託のない明るさと健やかさが、ひどく眩しく、愛おしいのです」
そこにあるのは妬みなどではなく、純粋な憧憬と慈愛だった。自身に欠けているものを豊かに持つ茜を、叶は心から慕っていた。
その澄んだ瞳を見て、光継は静かに頷き、叶の肩に優しく手を置いた。
「己の弱さを知り、他者の輝きを心から尊ぶことができる。それこそが、お前の持つ最大の強さであり、万民を慈しむ皇としての器なのだよ、叶。
茜があれほど自由に笑い、桜華や朧が心穏やかに過ごしていられるのも、お前が作るこの優しい治世があればこそだ」
光継の深く温かな言葉に、叶の胸の奥がじんわりと熱くなる。
庭先で立ち止まった茜が縁側の二人に気づき、満面の笑みで大きく手を振った。隣の桜華と朧も、それに釣られてこちらへ優雅に一礼をしている。
叶は光継と顔を見合わせて微笑み合うと、眩しい太陽のような茜に向かって、そっと、けれどもしっかりと手を振り返した。病弱な身であっても、この温かな繋がりがあれば前を向いて歩いていける。叶の胸の内には、大切な者たちを守り抜くという静かな決意が宿っていた。
ーーー
高く、澄み切った産声が、豪奢な御殿の奥深くから響き渡った。
それは、待ちに待った新たな命の誕生を告げる喜びの音であった。何日も前から屋敷全体を覆い尽くしていた張り詰めた空気は、春の陽だまりのような温かな歓喜へと一変する。
光継と、側室である朧との間に、待望の長男・光仁が誕生したのだ。
清らかな白檀の香りが漂う産屋の中、最高級の夜着に身を包む朧の顔には、極度の疲労とともに、安堵と至福の涙が幾筋も伝っていた。
「おお……よくぞ大役を果たしてくれた、朧。
見事な男児よ。これで我が血筋も盤石、誠にめでたい!」
誰よりも早く相好を崩したのは、光継の父である鷲王院であった。上皇として絶大な権力を持ちながらも、今はただの一人の祖父として、孫の誕生を手放しで喜んでいる。
その隣では、光継もまた、高貴な身分にふさわしい豪奢な産着に包まれた小さな命を抱き抱え、感無量の面持ちで我が子を見つめていた。
「朧、よく耐えてくれた。」
光継の震えるような優しい声に、朧は弱々しくも満ち足りた微笑を返す。側室としての重圧はあったが、こうして光継や鷲王院からの心からの祝福を受け、朧の胸には母としての純粋な喜びだけが満ちていた。
そして、その輪の中で誰よりも温かい涙を流し、喜びに打ち震えていたのは――他でもない、光継の正妻である桜華であった。
「朧……本当によく頑張ってくれましたね。なんて愛らしい、元気な男の子……」
桜華は寝台のそばに歩み寄ると、朧の汗ばんだ白い手を両手でそっと包み込んだ。
「桜華様……。桜華様のお心遣いがあったからこそ、私は今日、この日を迎えることができました。本当に……ありがとうございます」
「何を言うの。私の方こそ、お礼を言わなければならないわ。光継様の子を産んでくれて……本当に、ありがとう」
正妻と側室という立場を超え、手を取り合って涙を流す二人の女性。その深く純粋な絆に、光継も鷲王院も目を細め、部屋の中は一族の温かい愛情で満たされていた。
そこへ、場を和やかに包み込むような、静かで穏やかな足音が近づいてきた。
叶である。
その優しい眼差しは、まっすぐに光継の腕の中にある小さな命へと向けられた。
叶は静かに膝をつくと、まるで壊れ物を扱うようにそっと顔を近づけ、光仁の柔らかな頬に、自身の頬をすり寄せた。
ほんのりと熱を持つ、無垢で柔らかな命の鼓動。
(おお……なんという温かさ。この小さく儚い命が、やがて大きく育ち……いずれはこの国の皇を継ぎし者となるのだな)
叶はそっと目を閉じ、心の中で祈るように誓いを立てた。
(それまで、私が……しっかりとこの国を守り抜こう。この子が一切の憂いなく、健やかに玉座に就けるその日まで。)
ゆっくりと目を開いた叶の表情には、次代の光を守り抜くという確かな覚悟と、無垢な命を慈しむ、あまりにも深い愛情が満ちていた。
その一部始終を、少し離れた場所で護衛として見守っていた茜は、不意に胸の奥を激しく打たれた。
常に国を背負いながらも、誰よりも優しくあろうとする皇・叶。彼がふと見せた、あまりにも無防備で愛情深い姿。……小さな命に頬を寄せ、未来を慈しむその尊い横顔に、茜の心臓はドクンと大きく跳ね、顔中がカッと熱くなるのを感じた。単なる忠誠心や尊敬を優に超えた、甘く切ない感情。
煩いほどの鼓動をごまかすように、茜はたまらず視線を泳がせ、ほんのりと朱に染まった自らの頬を隠すように慌てて俯いた。
だが、その微かな乙女の動揺を、隣に控える霞の静かな双眸は決して見逃してはいなかった。
霞は何も言わず、ただ意味ありげに、どこか微笑ましいものを見るような視線を茜の横顔へと向けていた。
光に包まれ、家族の愛と絆で満たされた光継派の歓喜。
しかし、光が強ければ強いほど、そこに生まれる影は濃く、深いものとなる。
この底抜けの祝福の空気の中で、ただ一人、どす黒い感情を煮えたぎらせている男がいた。
桜華の実父であり、第一権門の長である藤原正である。
そっと祝いの席を辞し、人気の少ない薄暗い渡り廊下へと足を踏み入れた正の胸中には、嫉妬と焦燥が狂気のように渦巻いていた。
娘である桜華自身が望んだことだとは分かっている。光継や鷲王院が喜んでいるのも事実だ。
だが、第一権門の長たる正にとって、それは何の慰めにもならない。
(おのれ……っ! 結局のところ、生まれたのは側室の子ではないか。本来であれば我が娘・桜華が血を分けた男児を産み、この私が次期皇の祖父として絶対的な権力を握るはずであったものを!)
このままでは藤原家の威信が揺らぎ、発言力が削がれてしまう。娘の心からの喜びなど、権力闘争に生きる正にとっては無価値であった。苛立ちに任せて歩みを速めようとした、その時である。
ふらりと、正の背後の暗がりから、まるで意思を持つかのような『怪しい影』がにじみ寄った。
「……お労しや、藤原の大人」
声とも呼べない、ねっとりとした低い囁き。正が振り返るよりも早く、影は蛇のように背後へ回り込み、その耳元へと直接口を寄せた。
「正妻に子がなく、側室に子が生まれれば……いずれ、家は没落しますぞ」
それは、正の心にある最も脆く醜い焦燥を的確にえぐる、甘く危険な猛毒。
「誰だ……! 貴様、何を……っ」
正が血走った目で周囲を睨みつけるが、そこにはただ底冷えのする夜の闇が広がっているだけだ。影の姿はすでにない。しかし、耳の奥にこびりついたその言葉は、じわじわと正の血肉に溶け込み、どす黒い欲望を満たしていく。
(そうだ……没落などしてたまるものか。我が藤原の血こそが、この国の頂点に立ち続けねばならんのだ。……どんな手を使ってでも)
暗がりに響く正の濁った荒い息遣いは、やがて血塗られた陰謀の幕開けを告げるように、深く、重く、夜の廊下の奥へと沈んでいった。




