愛
譲位の儀から、さらに三年が過ぎた。
秋の夜風が、庭の木々を揺らして心地よい葉音を立てている。縁側には虫の音が響き、澄み切った月光が白木を青白く照らし出していた。
「夜風が冷たくなってまいりましたね。お風邪を召されませぬよう」
桜華がそっと、光継の肩に薄衣をかけた。
微かに漂う、彼女の好む藤の香りが光継の鼻腔をくすぐる。
「ありがとう、桜華。……お前も、少し手が冷たいな」
光継は薄衣に添えられた桜華の手を優しく包み込んだ。しかし、桜華はその温もりに触れた瞬間、伏し目がちに視線を落とし、悲しげな笑みを浮かべた。
「光継様。……どうか、朧を側室にお迎えください」
静かな声だった。
その言葉に、部屋の隅で気配を絶って控えていた影が、ビクリと大きく揺れた。音もなく姿を現した朧の顔は、驚愕に蒼白となっている。
「お、桜華様!? 何を血迷ったことを! 私は光継様のただの影! そのような大それたこと、望むべくもありません! ……っ、失礼いたします!」
早口でまくしたてた朧は、耐えきれなくなったように夜の闇へと溶け込み、逃げ去ってしまった。
秋の虫の音だけが、どこか所在なさげに響く。
「桜華……お前は、本当にそれで良いのか?」
光継は重い息を吐き、桜華の瞳を真っ直ぐに見つめた。自らの血を継ぐ子が必要なのは分かっている。だが、桜華を傷つけてまで得たいものなど、光継にはなかった。
「私は正室です。光継様をお支えする気持ちに変わりはありません」
桜華は光継の手を両手で包み込み、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「ですが光継様。あなたがどれほど過酷な道を歩み、重いものを背負ってこられたか……。
私では、癒やしきれない影の痛みがあるのです。朧は、ずっとその闇の中で光継様を護り、支えてきました。あの子の瞳は、昔からずっと……ただ光継様だけを見つめているのですよ」
「……」
「そして光継様も、無意識のうちに朧の存在に深く寄りかかっておいでです。光継様ご自身の心と、向き合ってあげてくださいませ」
桜華の言葉は、秋の夜風のように優しく、光継の心の奥底に隠れていた本心を揺さぶった。
ーーー
人気のない渡り廊下の陰で、桜華は膝を抱えてうずくまる朧を見つけた。
「朧。ここにいたのね」
「……桜華様」
顔を上げた朧の瞳は、泣きはらしたように赤く腫れていた。彼女は血のにじむほど唇を噛み締め、震える声で絞り出す。
「私は、影です。これまで数え切れないほどの血で手を汚してきました。ひとりの女として、あの方の温もりに触れる資格など、私にはないのです……っ」
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙が、冷たい板張りの床に黒い染みを作っていく。
桜華はしゃがみ込み、冷え切った朧の頬を両手でそっと包み込んだ。桜華の指先から伝わる温もりに、朧の肩がびくンと跳ねる。
「影だというのなら、光継様の放つ光を一番近くで、一番熱く受けてきたのはあなたでしょう?
あなたのその手は、光継様を護るための手。誰よりも気高くて、美しい手です」
桜華は朧の涙を指ですくい取り、優しく微笑んだ。
「ひとりの女性としての幸せを、あなたが諦める必要などないと思うの。光継様の影ではなく、光継様の隣に立つ人になってちょうだい」
その夜深く。
庭の木立の中で、周囲の警戒にあたっていた朧の背後に、静かな足音が近づいてきた。
踏みしめられる玉砂利の音。微かに漂う、白檀の香り。振り向かなくとも、それが誰なのか朧には痛いほど分かった。
「……お役目中にて」
感情を押し殺した声で告げて、朧はその場から立ち去ろうとする。
しかし、すれ違いざまに、力強い手が朧の細い腕をしっかりと掴んだ。
「逃げるな、朧」
「っ……逃げてなど、おりません。光継様、どうか腕を……」
「私を見ろ」
低く、切実な声に引かれるように朧が振り返ると、雲が晴れ、月明かりが光継の顔を鮮明に照らし出した。その瞳には、いつもの穏やかな主としての顔ではなく、一人の男としての熱い感情が渦巻いている。
「桜華に言われて、気づかされた。私はずっと、お前の存在に甘え、寄りかかっていたのだと」
「光継様……」
「お前のその手も、瞳も。私にとって、これほど美しく愛おしいものはない」
光継の手のひらから伝わる熱が、朧の冷たい肌を焦がすように熱く火照らせていく。
風が吹き抜け、木々がざわめいた。互いの鼓動が重なり合うような静寂の中、光継は静かに、しかしはっきりと告げた。
「桜華の願いだからではない。私の心が、お前を求めているんだ。朧」
その言葉が落ちた瞬間、朧の心に幾重にもかけられていた『影』としての鎖が、音を立てて崩れ去った。
溢れ出す涙を堪えきれず、朧は光継の広い胸に崩れ落ち、その温もりを強く、強く抱きしめ返したのだった。
障子の隙間から忍び込む夜風は、肌を刺すように冷たかった。しかし、畳の上に敷かれた夜具の中だけは、溶けるような熱を帯びていた。
長年、光継の影として生きてきた朧にとって、主の隣という「光の当たる場所」は、あまりにも眩しく、そして恐れ多い場所だった。
だが、光継の力強くも優しい腕は、彼女の迷いをすべて溶かすように抱き寄せる。
「もう、影として隠れる必要はない。私の傍にいてくれ」
光継の静かな声が耳元で響く。
重なり合う互いの体温が、冷たい夜気を完全に遮断していた。光継の微かな沈香の香りと、自身の髪から漂う夜露のような匂い。決して交わることのないはずだった光と影が、確かな鼓動を伴って一つに結ばれた夜だった。
翌朝、光継の部屋から連れ立って出てきた二人を見た霞と茜は、文字通り目を丸くした。
「えっ……嘘、ついに!? いや、遅すぎるくらいだけど!」
霞が顔を真っ赤にして驚き、尾をパタパタと揺らすように喜ぶと、茜は腕を組んで得意げに笑った。
「まったく、光継様もようやく腹を括ったってわけですね。おめでとう、朧ねぇ」
普段は感情を表に出さない朧が、頬を微かに朱に染めて俯く姿は、皆に深い安堵と、この上ない幸福感をもたらしていた。
誰もが、この穏やかな時間が永遠に続くことを祈っていた。
——だが、その幸せな陽だまりの裏側で、漆黒の淀みは確実に形を成し始めていた。
「影としてではなく、私の傍にいてくれ」
その言葉の通り、光継と朧は連れ立って、父である鷲王院の屋敷を訪れていた。
もはや忍びの装束ではない。光継の妻として、不慣れながらも美しい着物に身を包んだ朧は、鷲王院への挨拶を無事に終え、緊張で火照った頬を冷まそうと、庭に面した縁側に出ていた。
穏やかな風が心地よい。しかし、その安らぎは、庭の隅にしゃがみ込む小さな姿によって唐突に断ち切られた。
鷲王院と輝子の子であり、光継の異母弟にあたる雅白だった。
まだ二歳という幼さでありながら、一人で庭にいるその背中には、子どもらしい無邪気さがすっぽりと抜け落ちていた。
雅白の目の前を、見事な羽を持った揚羽蝶が舞う。
雅白は無表情のまま、二歳児とは思えない精密な動きで手を伸ばし、空中の蝶をあっさりと捕らえた。
そして指先で器用に、そして一切の躊躇なく、蝶の美しい四枚の羽をゆっくりとむしり取ったのだ。
羽を失い、土の上を無様に這いずり回る胴体。
雅白は身悶えする命をじっと見下ろし、幼い舌足らずな声で、しかし酷く冷たい響きでこう呟いた。
「面白そうだ、見てみよう」
命が苦しむ様を、ただ純粋な娯楽として観察する昏い瞳。
縁側に立つ朧の背筋を、異様な冷気が撫で上げた。それは冬の夜風などではない。命の根源を否定するような、絶対的な『悪意』の気配。
光継の温もりを知り、人としての幸せに触れたばかりの朧の体が、得体の知れない恐怖に微かに震えていた。




