↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星影〜受け継がれる言霊と最強の護衛で平安の闇を祓う〜  作者: 川村匡弘


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/25

偽りの凪

柔らかな春の風が、都の大路を吹き抜けていく。

梅の甘い香りがふわりと鼻をくすぐり、遠くからは子どもたちの無邪気な笑い声が響いてきた。


玉藻前という未曾有の災厄が退けられてから、四年。

都を覆っていた妖の気配はすっかり消え失せ、人々はかつての穏やかな日々を取り戻していた。


「平和ですね……光継様」

縁側に腰を下ろす光継の傍らで、霞が温かい茶を差し出しながら微笑んだ。


「ああ。民の笑い声が聞こえる。これほど心地よい音楽はないな」

茶の湯気を深く吸い込み、光継は静かに頷く。

過酷な運命に翻弄され、血と泥に塗れてきた彼にとって、この四年間はまるで奇跡のように穏やかな凪の時間だった。

陽の光が、冷え切っていた彼の心を少しずつ溶かしていくようだった。


一方、御所の奥深く。


伽羅の香が微かに漂う静寂の中、珠貴は鷲王院の御前に伏していた。彼女の美しい顔には、痛ましげな憂いの影が落ち、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。


「院様。近頃の光継様のお顔を、見られましたか」

衣擦れの音をさせて顔を上げた珠貴の声は、小刻みに震えていた。

「光継がどうかしたのか?」


「あの方は、優しすぎます。幼き頃より政の道具とされ、身を粉にして国を守り続けてこられました。……このままでは、あの方は国のために命を使い果たしてしまわれます」

珠貴はそっと袖で目元を抑える。


「どうか、あの方を休ませてあげてはいただけませんか。私の叶(かのう:鷲王と珠貴の子)へ皇の座を譲位させ、光継様には重荷を下ろしていただきたいのです」

鷲王院は息を呑んだ。

我が子である叶の栄達ではなく、光継の身を案じて涙を流す珠貴の姿。その深い慈愛に、鷲王院は強く心を打たれた。


「珠貴……そなたは本当に、心優しい母だな。

……わかった。光継が院として国を見守れるよう、話をつけてみよう」

鷲王院の温かな言葉に、珠貴は深く深く頭を下げた。

畳に顔を伏せた瞬間、彼女の美しい唇が、ほんの僅かに冷酷な弧を描いたことなど、鷲王院は知る由もなかった。


譲位の話は、光継にとっても渡りに船であった。

権力への執着など微塵もない。叶を養子として迎え、皇位を譲る。

そして自らは院として一歩引いた場所から平和な国づくりを支える。それで十分だった。


数日後、譲位の要となる『宣命』が起草される場に、光継は足を運んでいた。

筆を走らせているのは入洞である。部屋には、すられたばかりの墨の匂いが張り詰めていた。


光継はふと、入洞の心を覗き込んだ。

かつての戦いの記憶が、彼に僅かな警戒心を抱かせていたのだ。泰真と入洞。あの時の不審な動きが、平和な今でも心のどこかで引っかかっている。

(……何も、ない)

光継は微かに眉をひそめる。


入洞の心の中は、驚くほど静かだった。

悪意も、野心も、企みも。水面のように波一つ立たない、完全なる無我。ただ目の前の紙に文字を書き連ねるという行為だけが、純白の空間に浮かび上がっている。

あまりにも、綺麗すぎた。


「入洞。大儀であるな」

「はっ。光継様におかれましても、これまでの御務め、誠にご苦労様でございました」

面を上げた入洞の表情は、どこまでも穏やかで、ただ実直な忠義に満ちていた。

光継は胸の奥をふわりと撫でた名状しがたい違和感を、春の温かい風と共に無理やり飲み込んだ。


この淀みない平穏が、緻密に計算された『甘い毒』であることなど、今はまだ誰も気づいていなかった。


重々しい雅楽の調べが、御所の高くそびえる天井に吸い込まれていく。

伽羅(きゃら)と沈香(じんこう)が混ざり合った、むせ返るような儀式の香りが立ち込める中、譲位の儀は厳かに執り行われていた。


煌びやかな装束に身を包んだ百官たちが平伏する前で、宣命(せんみょう)を読み上げる声が、静寂の空間に朗々と響き渡る。

「——此の度、天皇の位を、皇太弟(こうたいてい)叶へ譲り渡すものなり」

その言葉が響いた瞬間、伏せていた光継派の者たちの肩が、ビクリと跳ねた。


(……『皇太弟』?)

光継もまた、僅かに目を見開いた。

叶ら光継の『養子』として迎えている、その上での譲位を行うはずであった。


当時の習いにおいて、退位した後に実権を握る(院政を行う)ためには、新天皇の『父親(尊属)』でなければならない。

『兄』という立場にされてしまえば、光継は将来にわたって政治の実権を握る権利を完全に奪われることになるのだ。


ざわめきが波のように広がりかける。

しかし、光継は扇で静かにそれを制した。

(……それも……良いかもしれぬ)

光継の口元に、ふわりと柔らかい笑みが浮かぶ。

騙し討ちに遭ったことへの怒りも、権力を奪われたことへの焦りもない。


(私が院政を敷かずとも、今の鷲王院様であれば、より良い国を作れよう)

国のために身を粉にしてきた光継にとって、権力など元よりどうでもよかったのだ。誰を責めることもなく、光継はただ静かに、この『手違い』を受け入れた。

儀式が終わり、百官が退いた後の奥殿。

床を踏み鳴らす激しい足音が響いていた。


「一体どういうことだ!! 何故あのような手違いが起こる!!」

顔を真っ赤にして怒鳴り散らす鷲王院の足元で、数人の宦官たちがガタガタと震えながら平伏している。

「お、恐れながら、宣命の起草に誤りはなく……!」


「言い訳など聞きたくはない! これでは光継がただ政から追放されたのと同じではないか!」

怒髪天を衝く勢いの鷲王院。その背中へ、衣擦れの音を立ててすがりついたのは、珠貴であった。


「院様、どうかお待ちくださいませ……!」

大粒の涙をこぼし、珠貴は鷲王院の袖をきつく握りしめた。

「手違いを起こした者たちを責めないでください。……実は、私が仕向けたことなのです」


「なっ……珠貴、そなたが!?」

驚愕に目を見開く鷲王院へ、珠貴は悲痛な面持ちで訴えかける。

「光継様が院政を行うとなれば、あの方の苦労は増えるばかりではありませんか。あの方には、もう十分休んでいただきたいのです」


「しかし、それでは光継から全てを奪うことに……」


「いいえ、院様」

珠貴は涙に濡れた瞳で、鷲王院を真っ直ぐに見つめ返した。その声は、どこまでも甘く、深く響く。

「あなたが、今までの失敗を挽回していくべきなのです。あなたが立派に政を行い、光継様に安心させてあげることこそが、最大の報いとなりましょう?」


「……っ」

鷲王院は息を呑み、そして、ゆっくりと天を仰いだ。

珠貴の言う通りだ。自分がしっかりせねばならない。鷲王院は渋々ながらもその言葉を受け入れ、光継の元へ向かうことを決めた。


「すまない、光継。私に、挽回する機会をくれ。……そして次期皇は、お前に息子ができたら任せたい」

深々と頭を下げる鷲王院に、光継は


「どうかお気になさらず」

と、いつもの優しい微笑みを返したのだった。

すべてが、丸く収まった。

誰もが安堵の息を吐き、穏やかな空気が満ちた廊下の片隅で。

伏し目がちに鷲王院を見送る珠貴の口元だけが、三日月のように吊り上がっていた。


背筋が凍るほど冷酷で、歪な嗤い。

その悪意の匂いに気づく者は、まだ誰もいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。