黎明
温明殿から放たれた八尺瓊勾玉の純白の光と、朧の『虚』の力によって霞の肉体から弾き出された玉藻前の怨念は、悲鳴を上げながら都の空へと霧散し、やがて完全に消え去った。
糸が切れたように崩れ落ちる霞の身体を、朧がしっかりと抱きとめた。白銀に染まっていた髪に元の温かい栗毛が混じっている。
「……朧……」
ゆっくりと開かれた瞳は、本来の優しい琥珀色を取り戻していた。
「おかえりなさい、霞姉!」
朧の目から、堪えきれない涙が溢れ落ちる。
「霞姉様っ!!」
結界の奥で震えていた茜が、涙を散らしながら弾かれたように飛び出してきた。その後ろからは、異変の収束を察知して都へ駆けつけた父・影辰と母、そして黒耀の姿があった。
「霞……!」
母が泣き崩れながら娘を抱きしめ、影辰もまた、目を赤くして娘たちの肩を力強く抱き寄せる。
「よく生きて戻った……二人とも、本当によくやった」
厳格な父の震える声に、黒耀も静かに頷きながら目頭を拭っていた。
「……陛下、無理をなさいませんよう……」
「大丈夫だ……下ろしてくれ、朝霧」
そこには、全ての力を使い果たし、源朝霧に抱えられて清涼殿の奥から出てきた光継の姿があった。その顔色は死人のように蒼白だったが、瞳の奥の『星』はかつてなく力強く、澄んだ光を放っている。彼の傍らには、心配そうに寄り添う后の桜華と、静かに見守る藤原藤房の姿があった。
「ですが、陛下の御身体は……」
「いいんだ。僕自身の足で……行かなければ」
朝霧がそっと地面に下ろすと、光継は桜華に支えられながら、ふらつく足取りで、一歩、また一歩と白砂の庭を歩み始めた。
その小さくも痛々しい背中を見守りながら、藤房の胸には熱いものが込み上げていた。
(まだ十一という、これほどまでに幼い御身でありながら……ご自身の命を削り、かくも凄まじい運命を切り開いてしまわれるとは……)
本来なら、ただ守られ、健やかに笑っているべき年齢だ。それなのに、血を吐くような覚悟で絶望に立ち向かった若き帝の背中に、藤房はたまらない悲哀と、それ以上の深過ぎる敬意を抱いた。
「……真の、我らが皇……」
藤房が堪えきれずにその場に深く平伏すると、朝霧もまた静かに頭を垂れ、安堵の涙をこぼした。
光継の歩み寄る気配に気づき、朧が顔を上げる。
二人の視線が交差した。言葉は必要なかった。
絶望的な嵐の中、自らの命を削って『言霊』を紡ぎ続けた光継。
そして、『虚』の真の理に辿り着き、姉の魂を暗闇から引きずり出した朧。命の境界線で互いを信じ、背中を預け合った二人の間には、主従や身分という壁を完全に超越した、深く温かい通じ合いがあった。
光継は優しく微笑み、泥と傷だらけの朧の手をそっと握った。
「……君がいてくれたから、僕は最後まで立っていられた。一緒に戦ってくれて、ありがとう、朧」
朧もまた、涙で汚れた顔をほころばせ、その温かい手を強く握り返す。
「光継様が、私に『虚』の本当の意味を教えてくれたからです。……私たち、一緒に強くなれましたね」
朝日が昇り始める。長かった絶望の夜が明け、平安の都に再び、真の光と希望が差し込み始めていた。
それから四日後。
都を覆っていた瘴気が完全に晴れ渡った頃、熊野御幸と称して紀伊の山深くへ出向いていた上皇・鷲王院の一行が、豪奢な牛車を連ねて都への帰路についていた。
しかし、その車列を包む空気は、出発時の狂騒とは打って変わって、異様なほどの静寂と混乱に満ちていた。
「……う……あぁ……」
揺れる牛車の中で、鷲王院は頭を抱え、獣のようなうめき声を漏らしていた。
八尺瓊勾玉の浄化の光が都を覆い尽くしたあの瞬間、彼を何重にも縛り付けていた玉藻前の『魅了』の術を完全に打ち砕いたのだ。
術が解け、正気を取り戻した鷲王院の脳髄に、封じ込められていた真実の記憶が濁流となって流れ込んだ。
「違う……わしは……わしは一体、何ということを……!」
泰真が仕掛けた卑劣な幻術――亡き父・玄耀院と愛する妻が密通し、光継が不義の子であるという偽りの記憶。それが、パキパキと音を立てて崩れ去り、真実の光景へと置き換わっていく。
妻はただ、夫である自分の重圧を案じ、玄耀院に助言を求めていただけだった。玄耀院もまた、国を背負う息子を不器用ながらも深く愛し、見守っていただけだった。
そこにあったのは、ただ純粋な家族の絆だけだった。
だが、己の心の底にあった玄耀院への密かな劣等感と、妻を愛するがゆえの猛烈な嫉妬心を泰真に付け込まれ、鷲王院は自らの手でその絆を粉々に壊してしまったのだ。
「光継は……わしの愛する、本当の……!」
幼い光継から権力を奪い、実権を剥奪、言葉すら奪い、絶望の淵へと突き落とした己の業。
罪なき民に重税を課し、妖魔の生贄として地下へ追いやった狂気の沙汰。
すべては、己が玉藻前の幻術に操られていたからとはいえ、実行したのは他ならぬ自分自身である。
「ぅああああああああああぁぁぁぁぁッ!!」
鷲王院は牛車の床に崩れ落ち、自らの髪を掻きむしりながら慟哭した。愛する家族を、そして国を自らの手で壊そうとしていたという取り返しのつかない事実に直面し、彼の誇り高き魂は完全にへし折れていた。
皇として、決してしてはならない過ちを犯した。
その罪の意識が、彼を狂気の一歩手前まで追い詰めていく。
都へ帰り着くや否や、鷲王院は側近たちの制止を振り切り、泥にまみれるのも構わずに宮中の奥深くへと走った。
向かった先は、今は過酷な死闘を終えて倒れた光継の傍らにいる妻・輝子のもとである。
「輝子……! 光継……っ!」
部屋へ転がり込むように入った鷲王院の目に飛び込んできたのは、力を使い果たして青白い顔で眠る光継と、その枕元で手を握り、懸命に看病をしている輝子の姿だった。
「上皇様……」
突然の足音に、輝子が静かに顔を上げた。 その瞳には長年の苦労の疲れが滲んでいたが、かつての気品と優しさは失われていなかった。
「すまなかった……! 本当に、すまなかった……! わしが愚かであった……お前を疑うなどと……!」
鷲王院は二人の足元に泣き崩れ、輝子の細い手と、眠る光継の手を力強く握りしめて、子供のように声を上げて泣いた。
「光継は……わしの愛する……息子よ……!」
鷲王院は、己の愚かさを激しく呪った。
「許してくれとは言えぬ……だが、どうか、どうか……!」
泥にまみれて慟哭するかつての絶対権力者の姿に、輝子は驚きに目を丸くしたが、やがて夫の呪縛が解けたことを悟り、静かにその背中を撫でた。
「……もう、よろしいのです。あなたが、本当のあなたに戻ってくださったのなら……」
その時、輝子の手の温もりに気づいたのか、眠っていた光継がゆっくりと瞳を開けた。
「……父上……?」
「光継……! あぁ、光継……許してくれ……!」
光継は、自らを長年苦しめてきた父の涙に触れ、静かにその震える手を両手で包み込んだ。
「……呪縛は、もう解けたのですね。 ……私たちの家族の絆は、泰真の幻術ごときで壊されたりはしません」
妻と息子の温かい許しの言葉に、鷲王院の涙は止まることを知らなかった。
彼はこの日、皇としての権力も野望もすべて捨て去り、ただ一人の罪深き夫として、父親として、残りの生涯を二人の贖罪に捧げることを固く心に誓ったのである。
しかし、都に真の平穏が訪れたわけではなかった。
玉藻前という巨大な脅威は去り、鷲王院も正気を取り戻し、最悪の事態は回避はできた。
しかし、闇の火種はまだ都のそこかしこで不気味に蠢いていた。
ーーー
清涼殿の庭に、心地よい風が吹き抜けた。
光継と朧は、並んで白砂の庭に立ち、昇りゆく朝日を眩しそうに見上げていた。
全てを呑み込むようなどす黒い妖の瘴気はとうに消え去り、空はどこまでも高く、澄み渡っている。
「……終わったんだね」
光継が小さくつぶやくと、朧はふわりと笑った。
それは、重い『器』の運命や孤独から解き放たれ、年相応の少女に戻ったかのような、どこまでも無邪気で温かい笑顔だった。
「はい。でも、これは始まりでもあります。
私たちが、本当の意味でこの都を、自分たちの足で歩いていくための」
朧の言葉に、光継もつられて柔らかな笑みを浮かべる。
「そうだね。僕も、もう逃げない。君や、みんなと一緒に、この都を守っていくよ」
その時、一陣の風が庭を吹き抜けた。
夜明けの風が二人の髪を優しく揺らす中、光継はそっと自らの右手を見つめた。
そこには、真の言霊の証である『菊の御紋』が刻まれている。
白銀の細い糸が波紋を描きながら緻密に折り重なって結び上がった、美しい紋章。
十六の花弁が二重に重なる、計三十二枚の黄金の花びら。
しかし、今、光継の手の甲に残されているのは「十四枚」の花弁だった。
過酷な運命を切り開くためとはいえ、自らの命と魂を削り、すでに三十二枚の半分以上を散らしてしまったことになる。
「残り、十四枚……」
光継が小さく呟くと、朧がそっとその右手を両手で包み込んだ。
「減ってしまったのではなく……この十四枚で、まだ十四回も、大切な人たちを救える祈りの言葉を紡げるということです」
その前向きで力強い言葉に、光継は弾かれたように顔を上げ、つられて柔らかな笑みを浮かべた。
「そうだね。僕も、もう逃げない。君や桜華、みんなと一緒に、この都を守り抜いていくよ」
朝陽に照らされた光継の手の甲で、残された十四枚の黄金の花弁が、これからの再出発を祝福するように温かく、静かに輝いていた。
長い夜は明け、新しい時代が始まる。
柔らかな黎明の光に包まれながら――。
19話で一区切りとなります。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
19話は10月15日の木曜日の予定です。
引き続き第二部の制作に取り掛からせていただきます。
これからも光継と朧をよろしくお願いします。




