姉妹
藻前が背後の尾を揺らす。
四本目の尾が禍々しい妖光を放った。
次の瞬間、巨大な黄金の尾の先端が醜く膨れ上がり、そこからドロドロとした赤黒い汚泥のようなものが滝のように吐き出され始める。
いや、それは泥ではない。
「ヒィィ……ッ」
「ギィィヤァァァ……!」
美女の艶やかな顔と、異形の獣の四肢がグロテスクに混ざり合った、おぞましい妖魔の軍勢。
無数の『肉傀儡』たちであった。
産み落とされた無数の肉傀儡たちは、空を覆い尽くすほどの凄まじい数で、光継が展開した黄金の結界『耀』へと群がり始めた。
「なっ……!?」
結界に張り付いき、黄金の光を遮るようにその醜い身を蠢かせ、ペチャリ、ベチャリと不快な音を立てて重なり合っていく。
彼女らは自らの肉体を壁とし、結界そのものを物理的な質量と呪いで押し潰そうとしていた。
光継たちの視界から、少しずつ黄金の光が奪われていく。見上げれば、空が、おぞましい肉の壁によって真っ黒に塗り潰されていく強烈な恐怖。
光を遮断された清涼殿の庭は、まるで地の底に閉じ込められたかのような暗闇と、むせ返るような死臭に包まれた。
「陛下ッ!」
「……く、ぐぅぅぅッ!!」
結界の内側で、光継は右拳を握り、必死に『耀』の力を維持しようと抗っていた。だが、数万にも及ぶ肉傀儡の重圧と、玉藻前の底知れぬ瘴気は、光継の命を削る言霊の許容量をとうに超えていた。
右手の『菊の御紋』は、数えられるほどしか残ってはいない。
(……このままでは、押し潰される……っ!)
限界を超えた光継の視界が激しく明滅し、耳の奥で自らの心臓の音が破裂するように鳴り響く。膝がガクンと折れそうになり、黄金の結界に亀裂が走り始めた、その絶体絶命の瞬間。
妖魔の肉壁で埋め尽くされた真っ黒な空に、一筋の鋭く澄んだ光が音もなく突き刺さった。
それは遥か東、安久美神戸の神域で、安倍春真と影の者たちが命懸けで放った『鍵』となる光であった。
東海道の空を駆け抜けたその一筋の光は、肉傀儡に覆われゆく結界の亀裂を寸分違わずすり抜け、都の中心――『温明殿』へと正確に到達する。
コチャ。
まるで、重厚な扉の鍵が開け放たれたかのような、世界そのものが反転するような澄んだ音が宮中に響いた。
光継が施していた言霊の隠蔽が解け、東国の陣の力と、神代より伝わる神器の力が完全に同調したのだ。
ズドォゴゴゴゴゴゴォォォ
次の瞬間、温明殿から、天地を貫く途方もない大きさの純白の光柱が立ち上がった。
『八尺瓊勾玉』の真の神力が解放されたのだ。
「ギィヤァァァッ!?」
結界に群がっていた肉傀儡たちが、内側から溢れ出したその圧倒的な浄化の波動に触れた瞬間、悲鳴を上げる間もなく、灰すら残さず一瞬で消滅していく。
温明殿から放たれた反撃の光の矢は、都を球状に包み込もうとしていた赤紫色の瘴気を、まるで薄紙を切り裂くように真っ二つに引き裂き天へと昇っていく。
「……っ!?」
予想外の神気の奔流と、自らの生み出した妖魔たちが一瞬にして焼き払われたことに、玉藻前は思わず顔をしかめ、その腕で顔を覆い隠した。
奇跡の純白の光が、絶望の黒い空を見事に撃ち抜いたのだ。
「あァ……忌々しい光……!」
八尺瓊勾玉から放たれる浄化の力は、都の空気を清廉なものへと書き換えていく。
その極限に高められた神気の中では、さしもの大妖といえども、山脈を覆うほどの巨大な九尾の尾を維持することは不可能だった。
玉藻前の巨大な黄金の尾の幻影が、陽炎のようにゆらゆらと揺らぎ、霧散していく。
膨大な妖気が一点へと収束した。
……………!
白砂が舞い上がり、そこに姿を現したのは――白銀の髪をなびかせ、金色の瞳を怒りに細めた『霞』の姿であった。
玉藻前は、九尾の巨体を維持できなくなり、元の器である霞の肉体へとその存在を収束させていた。
「……よくも……私の遊技場を荒らしてくれたわね。
……絶対に許さない。お前たちの魂を削り、永遠の苦しみを与えてやる」
霞の姿をした玉藻前から放たれる、濃密で殺意に満ちた妖気。先程の攻撃よりもさらに鋭く、圧縮された死の刃となって清涼殿の空気を凍りつかせた。
光継は力を使い果たして膝をつき、朝霧や藤房も、その圧倒的な存在感の前に身体が動かない。
だが、その凍りついた白砂の庭へ、躊躇うことなく一歩を踏み出した者がいた。
「……朧」
黒い装束を風に揺らし、小太刀を握りしめた朧が、玉藻前(霞)と真っ向から対峙する。
「あら。まだ動ける蟲がいたのね。
あなた、この器の妹だったかしら?
あなたの器の中にも何かいるんでしょ?」
玉藻前が白く細い指先を軽く振ると、圧縮された妖気が無数の見えない凶刃となって、朧の全身へと殺到した。
先ほどの肉傀儡とは比べ物にならない、大妖自身の純粋な暴力。触れれば一瞬で肉片に変わる絶対的な死。
だが、朧の瞳に恐れはなかった。
(……思い出すんだ。
朝霧殿との手合わせで掴みかけた、あの感覚を……)
朧は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
『虚とは……。』
精神世界で龍から告げられた言葉が、彼女の中で新たな輪郭を結ぶ。
朧はゆっくりと目を開き、殺到する妖気の凶刃に向かって、そっと両手を差し出した。
「……『虚』――事象の理よ」
朧の指先が空間に触れた瞬間、彼女を中心とした世界が、まるで水面に落ちた一滴の雫のように静かに波打った。
玉藻前の放った必殺の妖気が、朧の身体に触れる寸前で、まるで氷の上を滑るようにツルリと軌道を変え、彼女の背後の白砂を虚しく抉り飛ばす。
「なっ……!?」
玉藻前の金色の瞳が、驚愕に見開かれた。
朧は、敵の力を『受け入れ』、その運動の向きを『還し』、事象の理そのものを『書き換えた』のだ。
攻撃の威力をゼロにするのではなく、自身に対する干渉を完全に無効化させる……これが、朧が完全に開眼させた「新たな理」であった。
「生意気な小娘がァッ!!」
激昂した玉藻前が、背後から九つの尾の幻影を顕現させ、朧を跡形もなく粉砕しようと四方八方から連撃を叩き込む。
ドゴォォォォンッ!!
清涼殿の庭が爆発したように吹き飛び、土煙が舞い上がる。
だが、その煙の中から、朧は無傷で歩みを進めてきた。
巨大な尾の一撃も、呪いの妖気も、すべてが朧の身体の表面で滑り落ち、彼女を傷つけることができない。
「なぜ……なぜ当たらないのよッ!!」
「……あなたは、霞姉の身体を借りているだけ。
その力は、あなたのものではない」
朧は、荒れ狂う妖気の嵐の中を、ただ真っ直ぐに、一歩、また一歩と玉藻前へと接近していく。
どんな強大な術も、真理の起点たる『虚』の前では、ただの通り過ぎる風に過ぎない。
やがて、朧と玉藻前の距離が完全にゼロになった。
「近寄るなァァァッ!!」
玉藻前が絶叫し、霞の白い手で朧の胸を貫こうと突き出す。
しかし朧は、その腕を優しく払いのけ、自らの手を、玉藻前(霞)の胸の奥――『器』の中心へと真っ直ぐに押し当てた。
「っ……!」
玉藻前の身体がビクンと跳ねる。
朧の『虚』の力が、玉藻前の強固な支配と分厚い妖気の壁をすり抜け、霞の肉体の最も深い場所、奥底で眠りについている『魂』へと直接届いたのだ。
視界が白く反転し、気がつけば朧は、音もない真っ暗な精神空間に立っていた。
そこは、玉藻前の妖気に塗り潰された、霞の魂の牢獄。
暗闇の中央で、白銀の髪をした霞が、鎖に繋がれたように膝を抱えて蹲っていた。
その顔は青ざめ、生気がない。
「……霞、姉……」
朧の震える声に、霞がゆっくりと顔を上げる。
「……おぼろ……?
だめ、来ちゃだめ……ここは、あの狐の……」
「迎えに来たよ、霞姉」
朧は涙をこぼしながら駆け寄り、冷え切った霞の身体を強く、強く抱きしめた。
「ごめんね……。ずっと私を守るために、霞姉は一人で戦ってくれてた。鬼の念を取り込んだのも、私のせいだ……」
霞は弱々しく首を振った。
「違うよ、朧……。私が、あなたを守りたかっただけ……。でも、ごめんなさい。私の中の『何か』が暴走して……あの狐を、呼んでしまった……。私のせいで、都が……光継様が……」
絶望に呑まれ、自らを責め続ける霞。玉藻前は、この彼女の罪悪感と絶望を糧にして、その肉体を支配していたのだ。
「霞姉のせいじゃない!!」
朧は、霞の肩を力強く掴み、その琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「霞姉が私を守ってくれたから、私は今ここにいる! 霞姉が強くいてくれたから、私も強くなれた!
『虚』は、絶望を呑み込むためじゃない。
姉様の手を引いて、一緒に帰るための力だよ!!」
朧の胸の奥から、温かく力強い『虚』の波動が溢れ出す。それは、暗闇を浄化し、霞を縛り付けていた呪いの鎖を次々と解き放っていった。
「……おぼろ……」
霞の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「帰ろう、霞姉。お父様もお母様も、茜も……みんな、待ってる。光継様も、絶対に諦めないで戦ってる。だから……もう一度、一緒に立ち上がろう!」
朧が差し出した手を、霞は震えながら、しっかりと握り返した。
二人の手が繋がれた瞬間、真っ暗だった精神空間に、温かい琥珀色の光が満ち溢れた。
現実世界。
清涼殿の庭で、朧の手が胸に触れたまま硬直していた玉藻前が、突然、肺から空気を絞り出すような絶叫を上げた。
「アァァァァァァァァァァァァァァッ!!?
な、何よこれ……私の、私の力が……押し出されるッ!!」
玉藻前の金色の瞳が本来の優しい琥珀色に入れ替わる。
霞の魂が完全に覚醒し、己の肉体を取り戻すべく、内側から玉藻前の支配を強烈に拒絶し始めたのだ。
「認めない……こんな人間の小娘ごときに、
私が……私がァァァッ!!」
玉藻前の身体から、黒い泥のような妖気が噴き出し、空へと逃れるように抜け出していく。
「霞姉!!」
「……朧ッ!!」
完全に妖気が抜け落ちた瞬間、霞の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
朧はそれを受け止め、しっかりと抱きしめる。
「……ただいま、朧……」
霞が微かに微笑み、瞳から安堵の涙を流した。
「おかえりなさい……霞姉!」
姉妹の魂の対話と奪還は、最強の妖狐の支配を見事に打ち破った。
だが、肉体から追い出された玉藻前の怨念は、まだ完全に消滅したわけではなかった。




