安久美
都の空を絶望の赤紫色が覆い尽くし、比叡山から玉藻前の巨大な尾が放射状に広がっていたその頃。
はるか東、東海道の要衝である安久美神戸では、歴史の命運を左右するもう一つの激闘が幕を開けようとしていた。
深い鎮守の森に囲まれた神域で、若き陰陽師・安倍春真は額に玉の汗を滲ませながら、複雑な印を結び続けていた。彼が構築しているのは、都の温明殿に隠蔽された『八尺瓊勾玉』の神力を、都から五十里(200km)離れた地から引き出し、増幅して放つための前代未聞の霊的結界である。
「玉藻前の手下に嗅ぎつけられることは時間の問題だ……急げ、陣を固めろ!」
春真の周囲では、関東から集結した武士団が慌ただしく動いていた。彼らの準備は万全だった。都から迫るであろう最悪の妖魔を迎え撃つべく、弓に矢を番え、槍を握る手には悲壮なまでの決意が込められている。
一方、その神気を嗅ぎつけ、東海道を凄まじい跳躍で駆けてきた平青成――『青鬼』の依代と化した男は、安久美神戸の手前、高師ケ原へ降り立っていた。
「……チッ、どこに隠れやがった」
周囲を見渡した青成の視界に広がるのは、見渡す限りの何もない泥炭地だった。
一歩足を踏み入れればズブズブと沈み込み、少し歩けば右も左もわからなくなる。
春真が周到に仕掛けた罠だった。
泥炭地のあちこちに、わざと神器を模した力を込めた札が配置されており、青鬼の研ぎ澄まされた嗅覚すらも狂わされていたのだ。
「舐めやがって……陰陽師め、小賢しい真似を!」
いい加減腹が立った青成は、狂気に満ちた青い瞳を血走らせ、泥を蹴立てて走り回る。しかし、走れば走るほど方向感覚は喪失し、巧妙に張られた迷いの陣からの脱出は困難を極めた。
だが、『青鬼』の淀んだ念が、依代である青成の脳髄を直接刺激した。
(……思い……出せ……)
青鬼の力によって無理やり引きずり出された青成自身の記憶。それはかつて、彼が平将の乱を鎮めた際、戦勝祈願に訪れた神聖なる地の風景だった。
泥炭地の景色ではなく、己の魂に刻み込まれた「道」なき「記憶」を辿る。
「……あぁ、そうだ。あそこか……!!」
青成の口角が、耳まで裂けんばかりに歪む。彼は札の偽の神気を完全に無視し、自らの記憶だけを頼りに一直線に安久美神戸へと向かって跳躍した。
苛立ちと殺意を爆発させたまま、青成が神社に張られた結界を力任せに引き裂いて侵入した。
「見つけたぞ、陰陽師ぃ!!」
咆哮と共に踏み込んだ青成の前に、音もなくひとつの影が立ちはだかった。
都から駆けつけた影の精鋭、平黒羽である。
「ずいぶん遅かったな。待ちかねたぞ、化け物」
黒羽の研ぎ澄まされた冷気のような声に、戦いに飢えた青成は狂喜の笑い声を上げた。
「ハハッ!!時間稼ぎばかりしやがって!」
青成が丸太のような凶腕を振り上げ、黒羽へ向かって一直線に斬りかかる。
その瞬間――黒羽が薄く嗤った。
「単純な奴と聞いていたが、その通りだな。」
黒羽が印を結ぶと同時、青成の周囲の地面に仕掛けられていた無数の竹筒が、一斉に火を噴いた。
『手筒』を用いた、火炎の術の陣である。
「グォォォォォォッ!?」
数十本の手筒から、天を焦がすほどの巨大な火柱が瀑布のように吹き上がり、青成の巨体を完全に飲み込んだ。火の粉が舞い散り、凄まじい熱波が神域を赤く染め上げる。
青鬼の肉体は異常なまでの再生力を持つ。
しかし、この手筒の陣は一瞬の爆発ではない。絶え間なく、執拗に、超高温の炎を浴びせ続ける持続的な罠だった。
肉が焼け焦げ、再生し、また焼かれる。その無限ループの中で、さしもの青成も完全に身動きが取れず、炎の中で絶叫を上げた。
だが、これほどの大掛かりな罠を張っても、春真の背後で構築されている霊的結界は、まだ完成の域に達していなかった。
シュウゥゥゥ……。
やがて、炎の勢いが弱まっていく。
黒煙の中から現れた青成の姿は、全身の皮膚が焼け爛れながらも、青鬼の呪われた再生力によって瞬時に肉を繋ぎ合わせ、より一層凶悪な殺気を放っていた。
「……よくも、よくも焼きやがったなァァァッ!!」
仕掛けは全て使い果たした。
残された手札は一つだけ。黒羽と、そして関東からの応援の武士およそ五千人による、血を血で洗う『人海戦術』である。
「陣が完成するまで、一歩も通すな!!」
黒羽の号令と共に、五千の武士たちが一斉に怒号を上げ、槍の衾を築いて青成へと殺到した。
しかし、それはまさに地獄の絵図だった。
「死ねェ!」
青成が腕を一振りするだけで、十数人の武士が宙を舞い、鎧ごと肉体を粉砕される。
槍で刺し貫いても瞬時に傷は塞がり、逆に槍を掴まれて薙ぎ払いの武器にされる。圧倒的で理不尽な暴力が、関東の武士たちを次々と血の海へ沈めていく。
「下がれ! 私が相手をする!」
黒羽が影の術を全開にし、死地の中心へと踊り出た。
自らの術を極限まで練り上げ、青成の巨体へまとわりつくように連撃を叩き込む。だが、青成の拳が黒羽の腹部を掠めただけで、内臓が破裂しそうな衝撃が全身を貫く。
「ガハッ……!」
血を吐きながらも、黒羽は決して倒れない。
骨が軋み、肉が裂け、自身の血で装束を赤黒く染め上げながら、青成の足を止めるためだけに、決死の足止めを続ける。
「どけェェッ!!」
青成の渾身の蹴りが黒羽を捉え、黒羽の身体はボロ布のように吹き飛んで神社の太い柱に激突した。
「……はぁ……はぁ……まだ、だ……」
血まみれになった黒羽が、折れた刀を杖にして、再び立ち上がる。その瞳には、影の一族としての誇りと、決して屈しないという凄絶な意志だけが宿っていた。
「黒羽殿!……皆……!」
背後でその血みどろの死闘を感じながら、春真は唇から血が出るほど噛み締め、最後の印を結んだ。
黒羽たちが命を削って稼ぎ出した時間が、ついに奇跡の扉を開く。
「――陣、成れり!!」
春真の叫びと共に、安久美神戸の神域全体が、眩いばかりの純白の光に包まれた。
足元の陣が激しく明滅し、空間そのものが振動を始める。
春真が印を前方に突き出すと、安久美神戸の陣から一筋の鋭く澄んだ光が放たれた。
それは天を駆け、遥か西、平安の都を目指して一直線に東海道の空を駆け抜ける『鍵』となる光であった。
その光は瞬く間に五十里の距離を零し、都の温明殿へと到達する。
そこには、光継の言霊によって隠蔽されていた神代の神器『八尺瓊勾玉』が息を潜めていた。
春真の放った光が温明殿の封印に届いた瞬間……。
まるで重厚な扉の鍵がカチリと開け放たれたかのように、光継の言霊の隠蔽が解け、神器と安久美神戸の陣の力が完全に同調した。
ズドォォォォォォンッ!!!
遂に真の神力を解放された八尺瓊勾玉が、都の中心たる温明殿から、天地を貫く途方もない極太の浄化の光を立ち上がらせた。
「いけぇぇぇぇぇッ!!」
遠く安久美神戸で春真が咆哮する。
温明殿から放たれた反撃の光の矢は、比叡山から都を覆い尽くそうとしていた玉藻前の赤紫色の瘴気を、まるで夜明けの太陽が闇を切り裂くように、都の内側から真っ二つに引き裂いていく。
奇跡の光が、今、絶望の空を撃ち抜いた。
「……見え、るぞ……!」
満身創痍の黒羽が、折れた刀にすがりつきながら西の空を見上げた。
安久美神戸の地からでも、それははっきりと見て取れた。
だが、その圧倒的な浄化の波動を肌で感じ取ったのは、人間たちだけではなかった。
「……あァ?」
黒羽にトドメを刺そうと凶腕を振り上げていた青成の動きが、ピタリと止まる。
青鬼の依代たる彼にとって、はるか西から押し寄せるその純白の神気は、肌を焼かれるような強烈な不快感と、本能的な危機感を伴っていた。
濁った青い瞳が、都の方角で天を貫く光柱を睨みつける。
「……チッ。」
苛立たしげに舌打ちをした青成は、足元で血に塗れて倒れ伏す黒羽から完全に興味を失ったように視線を外す。
次の瞬間――ドッ!! と大地を粉砕するほどの凄まじい踏み込みと共に、青成は一直線に西の空、平安の都を目指して跳躍した。
その影は瞬く間に点となり、東海道の空へと姿を消していく。




