火種
子供が突然の突風に煽られ、尻餅をついて泣き出した。
都の中央から八方に向かって、突如として不可視の風が吹き荒れたのだ。春一番のように爽やかでありながら、しかし確かな力強さを持ったその風は、都の通りから門の外、遠くの街道までを一気に駆け抜けていった。
同時に、空を重く覆っていた雲は晴れ、都に滞留していた息苦しい瘴気も諸共に吹き飛ばされる。
久しぶりに降り注いだ柔らかな太陽の光の下で、尻餅をついていた子供が笑顔を取り戻し、母親の胸に飛び込んだ。
都の中央、清涼殿。
天に向かって右手を掲げる光継の姿があった。
その右手の甲に刻まれた『菊の御紋』から、淡い黄金の光が微かに漏れ、そして――二枚の花弁が、灰のように黒く変色して虚空へ散っていく。
命を削る言霊の代償。それでも光継は、穏やかな眼差しで晴れゆく都の空を見つめていた。
清涼殿の裏手にひっそりと広がる、白砂が敷き詰められた秘密の修練場。
陽光が白砂に反射し輝いた刹那、木刀と木刀が激突する乾いた音が、張り詰めた朝の空気を鋭く切り裂いた。
「……シィッ!」
源朝霧が踏み込む。
その動きには、かつての彼が持っていた「剛の者」特有の武骨な力みが一切消え失せていた。
源忠朝との死闘の折、光継の命を削る言霊によって『白霧』そのものと同化したあの瞬間。朝霧は、肉体の枷から解き放たれ、万物と融け合う神域の感覚を確かに味わったのだ。
今は光継の言霊による直接的な加護はない。だが、朝霧はその一過性の奇跡に甘んじることなく、あの時の「霧の感覚」を自らの肉体と剣術に完全に落とし込んでいた。
朝霧の木刀が、音もなく空気を滑る。
ただ速いのではない。軌道が全く読めないのだ。振り下ろされる直前まで殺気も風切り音も生じず、まるで空間そのものが刃となって迫ってくるかのように。
対する朧は、その見えない刃をすれすれで躱し、流れるように反撃に転じていた。
(……狙いが見えない。でも、太刀筋が『通る』空間の歪みは、確かに感じる……!)
朧の動きもまた、以前の彼女とは次元が違っていた。
これまでの彼女は、胸に抱えた『虚』を、敵の攻撃や負の念を強引に呑み込む器として使っていた。だが、あの精神世界で龍から告げられた『虚とは真理そのもの。すべてが始まった場所』という言葉が、彼女の中で確かな輪郭を結び始めていたのだ。
朝霧の木刀が朧の肩口を捉えんとした瞬間、朧は受けに回らず、すっと自らの『虚』を半歩前の空間に展開した。
呑み込むのではない。
虚を介して空間の摩擦をゼロにし、朝霧の剣閃が持つ運動エネルギーをそのまま「滑らせて」逸らしたのだ。
「……っ!」
完璧な軌道で放たれたはずの朝霧の木刀が、まるで氷の上を滑るように虚空へと逸れ、彼の体勢がわずかに泳いだ。
そのコンマ一秒の隙を縫い、朧の木刀が朝霧の首筋にピタリと止められる。
「……そこまで!」
縁側から静かに見守っていた藤原影辰の声が響き、二人は同時に木刀を引いて深く息を吐いた。
「見事だ。朝霧殿の剣はもはや人の域を超えつつある。そして朧、お前も『虚』の扱いが全く変わったな」
影辰の感嘆の声に、朝霧は軽く汗を拭いながら頭を下げた。
「光継様の御力で一度神域に触れたことで、剣の道筋が明確に見えるようになりました。力で斬るのではないと。……朧殿の動きも、まるで私の力がそのまま通り抜けてしまったような、不思議な感覚でした」
朧は自分の手のひらを見つめ、静かに頷いた。
「真理……にはまだ全然届いていません。
でも、少しだけコツがわかりました。虚は、敵を飲み込むだけの忌まわしい器じゃない。相手の力を受け入れ、還し、事象の理を書き換えるための『起点』なのか……と」
「頼もしい限りだ」
影辰の隣に進み出た黒耀が、腕を組みながら鋭い目を向けた。
「玉藻前が祈祷の旅と称して紀伊へ向かい、都を離れている今が我らの勝機だ。里から呼び寄せた影の精鋭たちも、すでに都の要所へ配置を終えている。あの妖狐が熊野から戻るまで、早くてもあと十日はかかる。その間に、打てる手はすべて打つぞ」
影の一族は今や、都の地下水脈のように張り巡らされた巨大な防衛網となっていた。
光継の周囲は今ある最強の布陣で固められ、妖の侵入を許す隙は微塵もない。
「問題は、春真殿と東の動向だ」
影辰が東の空を見上げる。
「玉藻前や鬼の瘴気を祓ったこの都ならば、神器の神力を完全に発揮出来る。だが、陰陽道の理を知る春真殿は今ここにいない。黒羽が迎えに向かったが、間に合うか……いや、間に合わせねばならん。それが、この反撃の唯一の要だからな」
しかし、事態は決して彼らの思い通りには進まなかった。
春真の動きを察知した者がいた。
玉藻前の配下であり、最悪の妖魔『青鬼』の依代と化した平青成である。
関東へ向かう東海道。天照大御神を祀る強力な神域――『安久美神戸』に広がる鬱蒼とした鎮守の森。
青成は、常人ではあり得ない跳躍力で大木を蹴り渡り、かつて己が乱を鎮めた因縁の地であり、春真たちが結界の要衝として陣を構える安久美神戸を目指していた。
「……ふふっ。春真め、小賢しい真似を。だが、結界ごと俺が叩き潰してやる。玉藻様への良い手土産になるだろう」
青成の瞳は狂気に満ちた青色に濁り、その肉体からは周囲の草木を瞬時に枯らすほどの濃密な瘴気が立ち上っている。
同じ頃。
平安の都、清涼殿。
東からの吉報を待っていた光継は、不意に胸を押さえてうずくまった。
「……っ!!」
「陛下!?」
傍らに控えていた桜華が、慌てて光継の身体を支える。
光継の顔色は一瞬にして青ざめ、息をすることすら忘れていた。
「……おかしい……まだ来るはずがない……ましてや、そこにいるはずがないのに……っ!」
光継の胸の『星』が、かつてないほど狂ったように警鐘を鳴らし、脳髄を直接焦がすような絶望的な映像を強制的に見せつけていた。
同時に、右手の菊の御紋が焼けるように熱く疼く。
「どうされました、陛下!」
異変を察知し、縁側に控えていた影辰と黒耀が血相を変えて飛び込んでくる。
光継は震える指先で、北東の空を指差した。
「……空が……!」
影辰たちが庭へ飛び出し、空を見上げて息を呑んだ。
昼間であるにもかかわらず、都の空が、まるで腐った血をぶちまけたような不気味な赤紫色に染め上げられていたのだ。
空気が重く、息を吸うだけで肺が焼け焦げそうなほどの濃密な瘴気が、都全体をドーム状に包み込み始めている。
「馬鹿な……熊野から戻るには、どう足掻いてもまだ日数がかかるはずだ! なぜ、これほどの妖気が都を……!」
黒耀が叫ぶ。
その答えは、絶望という形をとって現れた。
都の鬼門。北東にそびえる霊峰・比叡山。
その巨大な山の稜線から、山肌の木々をなぎ倒し、大地を割りながら……『それ』は這い出してきた。
「あれ、は……」
桜華が恐怖に足の力を失い、その場にへたり込む。
ゆらり、ゆらりと。
比叡山の稜線を覆い隠すほどの、途方もない質量と高さを誇る『黄金の尻尾』が、空を赤く染めながら姿を現したのだ。
一つ、二つ、三つ……。
山脈そのものが生き物のように蠢き、巨大な幾つもの尾が、都を完全に包囲するように空へ向かって放射状に広がっていく。
「熊野への御幸すら……我らの目を欺く陽動、いや、ただの退屈しのぎの遊戯だったというのか……!」
影辰が呻くように呟いた。
人間の時間感覚や物理法則など端から無視した、大妖の単独強襲。
予定より遥かに早く、玉藻前は自らの巨大な本来の姿を顕現させ、比叡山から平安の都を冷酷に見下ろしていた。
反撃の希望を打ち砕く、圧倒的な絶望の幕開けであった。
東へ向かった黒羽は、まだ春真と合流すら出来ていない。そして、最悪の依代である青成もまた春真の命を狙い迫っている。
強襲する九尾の妖狐を前に、未だ力を取り戻しきれていない光継と朧の運命は……、
……ここで潰えてしまうのだろうか……。




