菊の紋章
光継は重い腕を上げて、泣きじゃくる桜華の背中をゆっくりと撫でる。
「……桜華。泣かないでくれ。もう、僕は大丈夫だ」
光継の静かで、しかし確かな響きを持った声に、桜華は弾かれたように顔を上げた。その瞳から大粒の涙が頬を伝い落ちる。
「陛下……そのお印は……」
「祖父様が遺してくれた力が、僕の中で形を変えたんだ。……皆はどうしている? 朧は?」
桜華の顔が悲痛に歪む。
「朧様は……あの書庫で陛下と共に倒れられてから、今も隣の部屋で眠り続けておられます。
息はありますが、どうしても目を覚まされず……」
光継は胸が締め付けられる思いだった。自らを庇い、虚の真理に触れた朧もまた、深淵の底で戦っているのだ。
「そうか……。都の様子はどうなっている」
傍らに控えていた茜が進み出て、警戒するように声を潜めた。
「現在、玉藻前と鷲王院様、そして新たに世継ぎを身籠もったとされる珠貴……様は、都にはおりません。熊野御幸に倣い、紀伊の山深くへ豪奢な祈祷の旅に出向いております」
「祈祷の旅……」
「はい。ですが都の守りは手薄ではありません。泰真が残した無数の式神が宮中を監視し、魅了された官僚たちが政務を牛耳っています。私たちが少しでも妙な動きを見せれば、すぐに……」
光継は静かに立ち上がった。
半年間の眠りによる衰えは感じない。むしろ、身体の奥底から清廉で強大な力が滾々と湧き上がってくるのを感じる。
「茜。少し、寒いだろう」
「え……?」
秋風が入り込む部屋の隅で、寒さに身を縮めていた茜へ向けて、光継は右手の菊の御紋をかざした。
光継の頭の中に『暖』という文字が浮かぶ。
すると、右手の紋章から淡い黄金の光が漏れ出し、空中に『暖』という文字が一瞬だけ形を結び、ふわりと茜の身体を包み込んだ。
「あっ……あったかい……! なにこれ、春の日差しみたい……!」
茜が驚きに目を丸くして自分の身体をさする。
「これが……真の言霊の力」
光継は確信を得た。次に、驚いて見つめる桜華に向けて右手をかざし、心の中で『隠』と念じる。
黄金の文字が桜華に溶け込んだ瞬間、彼女の姿がふっと陽炎のように揺らぎ、完全に気配ごと世界から消失した。
「えっ!? 桜華様が消えた!?」
茜が悲鳴を上げる。
「私はここにいます! 茜、見えないの?」
桜華自身の声は聞こえるが、姿は全く見えない。光継が再び文字を解くと、桜華の姿が元の場所に現れた。
「……す、凄いです、陛下。これなら……!」
藤房が感嘆の声を漏らす。
「ああ。まずは、最も守るべきものを隠蔽する」
光継は迷いのない足取りで、宮中の奥深く、鬱蒼と茂る木々に隠されるように佇む『温明殿』へと向かった。
そこには、玉藻前の魅了を打ち破る可能性を秘めた神代の神器『八尺瓊勾玉』が安置されている。
重い檜の扉の前で、光継は右手を高く掲げた。
空中に黄金の光を帯びた墨跡が走る。紡がれた文字は『密』、そして『盲』。
二つの言霊が温明殿の扉に吸い込まれると、まるで最初からそこに何も存在しなかったかのように完全に認識を遮断させた。
「これで、玉藻前や泰真の探索網から神器は完全に隠蔽された。春真殿が東国で結界の準備を整えるまで、これで持ち堪えられるはずだ」
光継の瞳には、かつての幼く怯えていた少年の面影はない。
「行くぞ、藤房。僕が眠っている間に奪われていた『もの』を取り戻す。これ以上、奴らの好きにはさせない」
光継たちは、鷲王院派の官僚たちが我が物顔で政務を取り仕切る政務室へと向かった。
扉を開け放つと、そこには妖魔の術に魅了され、虚ろな目で民を苦しめる重税の書類に判を押す官僚たちの姿があった。
「なんだお前たちは……! 許可なく入室するな!」
怒鳴る官僚へ向けて、光継は冷徹に右手を突き出した。
『 解 』
強烈な黄金の光が政務室を包み込む。
その瞬間、官僚たちの瞳からどろりとした濁りが抜け落ちた。
彼らはハッと我に返り、自分たちが手にしていた書類の内容を見て顔面を蒼白にさせた。
「な、なんだこれは……! 私はなんて恐ろしいことを……!」
「陛下……! 申し訳ございませぬ、我々は一体何を……!」
泣き崩れる官僚たちを見下ろし、光継は静かに玉座へと歩み寄り、机上に置かれていた皇の玉璽(印)を自らの手に取り戻した。
「もうよい。惑わされていたお前たちを責めはしない。今日から政は、僕が取り仕切る」
玉璽を握りしめる光継の姿は、紛れもなくこの国の真の帝としての威厳に満ちていた。
ーーー
印を取り戻し、清涼殿へと戻る回廊。
静寂に包まれた宮中だったが、光継の胸の奥で、不吉な念の波が警鐘を鳴らした。
「止まれ」
光継が立ち止まった瞬間、回廊の奥から異常な殺気と、むせ返るような血の匂いが漂ってきた。
泰真が宮中に残していた監視の式神が、官僚たちの魅了が解かれた異常を察知し、『番犬』を呼び寄せたのだ。
「……ネズミがチョロチョロと。大人しく寝ていればよかったものを」
ドス、ドスと重い足音を響かせて現れたのは、東国武士団の総領であり、玉藻前の『黒煙の獣』の依代と化してしまった猛将・源忠朝だった。
人間の魂を失い、最悪の妖魔の器と成り果てた彼の全身からは、どす黒い殺気が絶え間なく漏れ出している。
「陛下、下がってくだされ!」
金属の擦れ合う音と共に、光継の前に躍り出たのは源朝霧だった。玄耀院に推挙された屈強な武将である彼は、因縁の相手である忠朝を鋭く睨みつける。
「忠朝……! 誇り高き源氏の武士が、妖の犬に成り下がるとは!」
「ギャンギャンと五月蝿い。その首、玉藻様への手土産に引き千切ってやるよ」
忠朝が咆哮を上げ、腰の剛剣を引き抜いた。
「シィィッ!」
朝霧が先手を取って地を蹴り、渾身の太刀を振り下ろす。しかし、忠朝は避けることすらしない。
ガギィィィンッ!!
朝霧の刀は、忠朝の纏う分厚い黒煙の装甲に阻まれ、火花を散らして弾き返された。
「なっ……!」
「遅い、そして軽い」
忠朝の剛剣からの凄まじい黒炎が発せられ、朝霧の身体を軽々と吹き飛ばした。回廊の柱が飴細工のようにへし折れ、朝霧は血を吐いて床を転がる。
「朝霧殿!」藤房が叫ぶ。
圧倒的な膂力と、理不尽な妖魔の暴力。ただの武芸では決して超えられない壁がそこにあった。忠朝が悠然と朝霧に近づき、止めを刺そうと剛剣を高く振り上げる。
その時だった。
光継が一歩前に出た。彼に迷いはない。右手の甲に刻まれた菊の紋章を真っ直ぐに朝霧へかざし、腹の底から魂を震わせる声で叫んだ。
「朝霧!!」
――その瞬間。
朝霧の肉体が、文字通り『白い朝霧』となって輪郭を失った。
戦場であった回廊全体が、深く、冷たい白霧に完全に呑み込まれたのだ。
「な、なんだこれは……俺の身体が……」
霧と同化した朝霧自身が、自らの両手を見て驚愕する。
「朝霧! 自分の名だ、制御できないはずはない!」
光継の叫びが、白霧の空間に響き渡る。
「どこへ消えた! 小細工を!」
忠朝が咆哮し、剛剣は凄まじい炎と煙を爆発させて周囲の霧を薙ぎ払う。
しかし、どれほど絶大な力で剣を振るい、獣の炎で空間を焼き尽くそうとも、白霧は幻影のように実体を持たず、斬られた端から再び音もなく彼を包み込んでいく。
黒煙の獣の暴力すらも、真っ白な幻覚のような霧の中で方向感覚を完全に失った。忠朝は自らの理不尽な力の空回りに激しく消耗し、息を荒らげていく。
「……武とは、ただ無為に力を振り回すことではない。お前はもう、己の刃がどこへ向かっているのかすら見えていない」
濃霧の四方八方から、朝霧の静かだが確かな声が木霊する。
幻覚に完全に囚われ、暗闇の中で盲目的に剣を振り回すように隙だらけになった忠朝の背後。白霧がすっと人の形を結んだ瞬間、朝霧の太刀が音もなく閃いた。
刃は忠朝の肉体を傷つけることなく、彼を妖魔と縛り付けていた『繋がり』だけを静かに、断ち切った。
「ガァァァァッ!?」
忠朝の体内から、断末魔のような獣の悲鳴が上がる。
光継がすかさず右手を突き出す。
『 祓 』
黄金の言霊が忠朝の胸に吸い込まれると、彼を覆っていた黒煙の獣の瘴気が霧散し、完全に消滅した。
黒煙が晴れ、白霧もまた朝霧の姿へと収束していく。
力尽きて膝から崩れ落ちる忠朝。無傷で剣を鞘に収める朝霧。
人の理を完全に無視した、圧倒的で奇跡のような勝利だった。
「や、やりました……! 朝霧様が、あの化け物に!」
茜が歓喜の息を吐き、藤房もまた震える拳を握りしめて安堵の表情を浮かべた。
ただ一人、桜華だけを除いて。
「……陛下?」
桜華が息を呑んだ。
光継の顔色は、死人のように青ざめ、今にも倒れそうなほどに揺らいでいたのだ。
「陛下! しっかりなさってください!」
桜華が慌てて駆け寄り、光継の手を取った瞬間――彼女は見てしまった。
光継の右手に結ばれた、美しい『菊の紋章』。
そこから、美しい花弁が三枚、まるで燃え尽きた灰のように黒く変色し、ボロボロと崩れ落ちて虚空へ消えていったのだ。
言霊による事象の改変。それは無尽蔵に使える魔法などではない。帝自身の命を、魂を削って振るう強烈な代償を伴う奇跡だったのだ。
「……大丈夫だ、桜華。大丈夫だよ……」
光継は掠れた声で微笑み、静かに目を閉じた。
花弁を散らしながら進む反撃の道が、今、決定的に示されたのであった。




