真理
雨上がりの湿気が、夜の宮中を蛇のように這い回っていた。
玉藻前が放つむせ返るような麝香の香りと、底知れぬ瘴気が微かに混じる澱んだ空気。
だが、ここだけは違った。
宮中の奥深く、鬱蒼と茂る木々に隠されるようにひっそりと佇むその場所は「温明殿」と呼ばれている。
「……ここが」
桜華は息を殺し、見上げるような重い檜の扉を見つめた。冷やりとした空気が肌を撫で、数百年もの間、守られてきた静寂と、研ぎ澄まされた清廉な気配が立ち込めている。
隣には、叔父である藤原藤房と、側付きの茜が静かに控えていた。桜華はぎゅっと冷えた指先を握りしめる。春真が東国へ向かい結界の準備を整えるまでの間に、この都にある『八尺瓊勾玉』をどうにかして隠し通さねばならないのだ。
「茜、周囲の気配は?」
「大丈夫です、桜華様。泰真の式神も、妖魔の匂いもしません。……でも、すごくピリピリした空気がします。肌が痛いくらい」
茜が身震いしながら答える。桜華はゆっくりと扉に手をかけ、重く低い音と共に堂内へと足を踏み入れた。
薄暗い堂内、微かな月明かりだけが奥の祭壇を照らしている。古い木の香りに混じって、肺の奥まで洗い流されるような清浄な空気が満ちていた。祭壇に安置された箱からは、圧倒的に澄み切った力が漏れ出している。
「この温明殿から出せば、隠されていた神気があの妖狐にすぐさま察知されてしまうでしょう。
しかし、このままにしておいても……いずれ存在を知られ、手の打ちようがなくなってしまいます」
藤房の苦渋に満ちた言葉に、重い沈黙が落ちた。持ち出すこともできず、置いておくこともできない。強大すぎる神気を一時的にでも完全に"鎮め、隠す"手立てが必要だった。
「あーぁ、こんなことなら、封印のお札でも春真様に作っておいて貰えば良かったですねぇ」
茜の何気ない愚痴が、桜華の脳裏に閃きをもたらした。
「……お札。……あっ……!」
桜華は顔を上げ、藤房と茜を振り返った。その瞳に、強い希望の光が宿っている。
「陛下がお持ちの川獺筆! 玄耀院様から受け継がれた、言霊を形にするあの筆が紡ぐ光の文字なら……この神器の力を、一時的に封じ込めることができるかもしれない!」
一方その頃。
清涼殿の奥、カビと埃の匂いが漂う薄暗い宮内書庫の中で、光継は山のように積まれた古い書物と格闘していた。傍らには、朧が静かに控えている。
「まだだ、朧。泰真の幻術を破る手がかりが、必ずどこかにある!」
光継の指先には墨が滲み、目元には疲労の色が濃い。愛する祖父と母の純粋な絆を汚し、父を狂わせた卑劣な幻術。武力で敵わないのなら、せめて己の力でその術の理を暴いてみせるという執念だけが、光継の身体を突き動かしていた。
パラリ、と。
古い陰陽の書物を広げた瞬間、光継の指が止まった。色褪せた和紙の上に墨で描かれていたのは、圧倒的な覇気を放つ「五爪の龍」の水墨画だった。
ただ墨で描かれただけの絵のはずなのに、まるで生きて呼吸をしているかのようなうねる鱗と、鋭い眼光。見つめているだけで、低い唸り声が鼓膜を揺らすような錯覚に陥る。
「光継様……その絵は……?」
朧もまた、ただならぬ気配を感じて息を呑んだ。
――トクン。
光継の腰に挿してあった川獺筆が、まるで主の心臓と連動するように、微かな振動を起こした。
光継が筆を手に取ると、黒い川獺の毛先が水紋のような淡い光を放ち始め、絵の中の龍の魂と呼応するように激しく明滅を繰り返す。
光継が無意識のうちに光を放つ筆を絵の上の空間へと近づけた瞬間。
「コォォッ」と熱を帯びた微風が巻き起こり、絵の中の龍の瞳が爛々と黄金色に輝き始めた。
「光継様、筆を離して!」
朧は本能的な危機感を覚え、凄まじい踏み込みで光継の指から強引に筆を弾き飛ばした。だが、遅かった。空間を切り裂くような甲高い鳴動と共に放たれた黄金の奔流が、光継と朧の姿を完全に飲み込んだ。
黄金の光が弾けた次に行き着いたのは、果てしなく続く雲海と真っ白な世界だった。
足元には雲海が広がり、冷たく澄んだ空気に微かな「墨の匂い」が混じって鼻腔をくすぐる。
「……光継様!」
朧は咄嗟に身を起こし、光継を抱き寄せた。
だが次の瞬間、空間そのものを震わせるような腹の底に響く咆哮と、立っていられないほどの凄まじい風が吹き荒れた。朧は本能的に虚を開き、風の術を展開しようとしたが、指先からは何の力も生まれない。負の念を呑む水のようなものだと教えられてきた彼女の虚が、この神聖な空間では完全に沈黙していたのだ。
雲海が大きく割れ、巨大な存在が顔を出した。
うねるような長い鱗の胴体、鋭く伸びた角、そして爛々と燃える黄金の瞳。
和紙に描かれていた「五爪の龍」が、途方もない質量と神気を纏って二人を見下ろしていた。
『――星を抱く幼き皇よ。そして、虚の器よ』
鼓膜を通り越し、魂の最も深い場所へ直接響き渡る重く温かい声。
『我はこの国の言の葉を守護せしもの。お前のその筆に興味があってな、お前たちを呼んだのだ』
巨大な龍の身体が眩い光の粒子となって収束していく。
風が凪ぎ、雲海の上にふわりと降り立ったのは、足先まで届く水色の髪と黄金の瞳を持つ、神々しい人型の姿だった。
人型の龍はしなやかな足取りで光継へと近づき、そっと屈み込んだ。
『星の力は、ただ民の願いを読むだけではない。
人々の願いを束ね、この世界を創り変える力。
だが、……今のままでは女狐の放つ絶望の渦に飲み込まれる。お前が武を鍛えたところであの狐に傷一つ付けられないだろう』
神秘的な水色の髪がふわりと揺れ、光継の頬を撫でる。
『真の言霊を紡ぐ覚悟はあるか?
痛みを恐れず、絶望を光に反転させる覚悟が』
その重圧に対し、光継は震える足をぴたりと止め、真っ直ぐに黄金の瞳を見つめ返した。
「……あります。僕が、祖父様の遺したこの都を、母上を……そして民を守ります」
光継の折れることのない真実の意志に呼応し、
川獺筆は彼の右腕を温かな黄金の光で包み込んだ。
龍は満足げに微笑むと、今度は朧へと視線を向けた。
『影とは何か、虚とは何か。お前は答えられるか?』
「父や師匠からは……虚は負の念を呑む水のようなものだと教わりました」
答える朧に対し、龍は静かに首を振った。
『違う。本来、虚とは真理そのもの』
龍の言葉は、朧の常識を根底から覆した。
『思いが生まれ、願いが生まれ、全てが始まった場所。影とは虚の余波であり、影こそが真理に近きものだ。虚は、決してただの負の念を処理するための器などではない。世界をも創り出す源だ』
龍は面白そうに黄金の瞳を細め、朧の顔を覗き込んだ。
『いっそお前の中に入り、あの狐と遊ぶのも少し楽しそうだが……まだその体はちと窮屈そうだ。女狐の奴め。寂しいからと尻尾ばかり増やしおって』
玉藻前の本質を見透かしたようなその言葉を残し、龍はゆっくりと立ち上がった。
『よく覚えておけ。言葉は紡ぐもの。全ての始まりは、虚から始まると』
パチンッ!!
龍が指を鳴らした瞬間、世界が爆ぜた。全身の感覚が千切れ飛ぶような衝撃が襲い、二人の意識は途切れた。
微かな香の匂い。障子越しに差す柔らかな陽の光。
身体を起こそうとしたが、全身がひどく重い。
「陛下……っ!? あぁ……っ、陛下、陛下……っ!!」
視界の端で小さな影が跳ねた。見上げると、そこには頬をこけさせ、目の下に深い隈を作った桜華が、子供のように号泣しながら光継の胸にすがりついていた。
「よかった、あぁ、本当によかった……! 私、陛下がこのまま目を覚まされなかったらどうしようかと……!」
震える細い腕がきつく光継の直衣を握りしめ、熱い涙が胸を濡らす。その必死な姿と、傍らに控えていた藤房の言葉によって、光継は自分が書庫で倒れてから、実に『半年』もの月日が流れていたことを知った。
光継は重い腕を上げて、泣きじゃくる桜華の背中をゆっくりと撫でた。彼の心に、もはや武力への執着も焦りもない。
自分に与えられた役割は、民の思いを受け止め、言葉を紡ぎ、祈りによって絶望を光に反転させることなのだと、魂の底から悟っていた。
ふと右手に違和感を覚え、視線を落とす。
握りしめていたはずの川獺筆は消え去っていた。
だがその代わりに、右手の甲の肌のすぐ下を、白銀の細い水引のような糸がツッと走り、極小の波紋を描きながら緻密に折り重なっていく。
そして結び上がったのは、一輪の完璧な形をした「菊の紋」だった。
真の言霊の力を得た若き帝と、虚の真理に触れた影の少女。長き眠りから目覚めた二人の、真の反撃が今ここから始まろうとしていた。




