勾玉
今日もまた冷たい雨が、清涼殿の白木の柱を容赦なく打ち据えていた。
桜華は薄暗い部屋の片隅で、冷え切った指先をきつく握りしめている。彼女の視線の先、雨に打たれる庭の暗がりでは、光継と朧、そして源朝霧が泥にまみれながら死に物狂いの鍛錬を続けていた。
光継の白い頬には生傷が絶えず、朧は姉・霞を奪われた底知れぬ悲しみと、器としての途方もない重圧に耐えながら、限界を超えて刀を振るい続けている。
玉藻前たちが現れてからというもの、都は狂気と重税に沈み、罪なき民が地下で妖魔の生贄にされているという恐ろしい噂が絶えなかった。
光継は毎夜、星の力でその断末魔の悲鳴を直接受信し、悪夢にうなされ続けている。桜華は夜ごとにその震える背中をさすり、涙を拭うことしかできなかった。
(……皆、あんなにも傷ついて……戦おうとしている)
桜華の胸が、ギリリと締め付けられる。
(私ばかり守られている……。安全な場所で震えているだけなんて……)
藤原正の娘として、そして何より、光継を支える后として。ただ庇われるだけの存在でいることは、彼女の気高い誇りが許さなかった。
桜華は立ち上がり、側付きの茜に小声で命じた。
「茜。藤房叔父様を、極秘にこちらへ呼んできてちょうだい。決して、誰の目にも触れぬように」
その少し後
「桜華、このような時刻に私を呼ぶとは……何かあったか?」
人目を忍び、清涼殿の奥に現れた藤原藤房は、濡れた黒髪を払いながら低い声で問うた。桜華は居住まいを正し、叔父を真っ直ぐに見据える。
「叔父様。私に、何かできることはありませんか。私だけが何もできず、ただ守られている現状に、どうしても耐えられないのです」
悲痛でありながらも芯の通った桜華の言葉に、藤房は目を伏せた。
「お気持ちは痛いほど分かります。しかし、相手は人智を超えた大妖。通常の陰陽の術も通じぬ相手です」
「陰陽の術……」
桜華はふと、幼い頃に聞かされた宮中の伝承を思い出した。
「叔父様。皇家には代々、国を護る『三種の神器』なるものが祀られていると聞いたことがあります。それは、この危機に使うことはできないのですか?」
その言葉に、藤房の脳裏に雷光のように閃くものがあった。
「……八尺瓊勾玉か! 神代より伝わる強力な浄化の力を持つ神器……ここ平安の都の奥深くに安置されています!
あれを用いれば、鷲王院様を縛り付けている玉藻前の『魅了』の術を、完全に祓うことができるかもしれない……!」
鷲王院が正気を取り戻せば、光継を廃そうとする動きや、珠貴の腹に宿った子を世継ぎとする大義名分を根本から崩すことができる。
「ですが、神器の神力を引き出すには、極めて高度な陰陽の力が必要です。
……一人だけ、適任者がおります。泰真殿に勝るとも劣らぬ才を持つ男、安倍春真。泰真殿の弟です」
藤房は、都の近郊に戻ってきているという春真と水面下で接触を図ることを約束し、闇の中へと消えていった。
夜の雨が上がり、冷たい風が白木の回廊を吹き抜ける。
清涼殿の奥、人目を忍んだ一室に、濡れた狩衣を纏う若き陰陽師・安倍春真が密かに招き入れられた。
「夜分に失礼つかまつります。
兄・泰真の凶行……陰陽寮の端くれとして、お詫び申し上げます」
深く頭を下げる春真に、桜華は首を振って本題を切り出した。
春真は古い巻物を広げ、険しい表情で告げた。
「八尺瓊勾玉で玉藻前の魅了を解くことは可能でしょう。しかし、現在の都は玉藻前や鬼の瘴気で満ちており、ここで神器を使えば効力は薄れ、最悪の場合は砕け散ります。
何より、この圧倒的な神気を玉藻前が感知すれば、即座に破壊しにくるでしょう」
「では、どうすれば……」
藤房が静かに口を開いた。
「東の地……関東の者たちを頼るべきと。
私の知己に、平恒弘と三浦義景という信頼できる剛の者がおります。
彼らに東国の霊的な結界を張らせ、そこで神器の力を解放するのです」
「私が直接、伝令として向かいます」
春真が自らの胸に手を当てた。「表向きは『地方への鬼払い』と称して都を出れば、兄の目も誤魔化せるはずです」
命懸けの任務を引き受ける春真の決意に、桜華は深く頭を下げた。
「春真殿……お任せします。どうか、ご無事で」
「陛下の星の光と、桜華様の深い祈りがある限り、我らは決して屈しません」
春真は力強く断言し、夜の闇へと溶けるように去っていった。
同じ頃。深夜の冷気が肌を刺す白砂の鍛錬場では、泥にまみれた光継が木刀を地に突き立てて息を荒らげていた。
「……強くなりたい。祖父様が遺してくれたこの都を、母上を……助け出すために」
光継は隣に腰を下ろした朧に、胸の奥で燻り続けていた痛切な思いを吐露した。
「朧……僕は星の力で、玉藻前や鷲王院様の『記憶』の欠片を読んだことがあるんだ。鷲王院様は……母上を奥の院に閉じ込め、僕を不義の子だと憎んでいた。私がお祖父様と母上の子だと……」
その言葉を聞いた瞬間、朧の胸の奥で『虚』がざわりと不吉な音を立てた。
優しく気品に満ちた輝子が、玄耀院と不義の密通をするなどあり得ない。朧の脳裏に、ある陰陽師の得意とする恐るべき術が閃いた。
「光継様……その光景、鷲王院様に不義を疑わせた『輝子様』の姿は、現実のものだったのでしょうか?」
「え……?」
「泰真です。奴は強力な『幻術』を操る陰陽師と聞きます。鷲王院様の心の奥底にあった玄耀院様への密かな嫉妬や劣等感に付け込み、都合の良い幻影を見せたのだとしたら……?」
光継の顔からサッと血の気が引いた。
祖父と母の純粋な家族の絆が、泰真の幻術によって汚され、鷲王院の目を曇らせる猛毒に変えられてしまったのだ。
「あいつは……泰真は、そこまでして……この都を、僕の家族を壊したのか……!?」
怒りに震える光継の泥にまみれた手を、朧が両手でそっと包み込んだ。
「光継様、怒りに呑まれてはいけません。
ですが、私たちの敵はより明確になりました。泰真が仕掛けた偽りの幻影ごときで壊された絆なら、必ず取り戻せます。私が、必ず」
朧の真っ直ぐな瞳に見つめられ、光継は深く息を吐き出して怒りを鎮めた。
「……ありがとう、朧。……絶対に負けられない」
偽りの記憶の呪縛から解放された光継の瞳には、かつてないほど強い星の光が宿っていた。




