胎動
鷲王院の居館、豪奢な御簾の向こう側。
馥郁たる白檀と、脳髄を直接痺れさせるような濃密な麝香の香りに包まれ、玉藻前は最高級の絹で織られた薄衣を纏い、退屈そうに玉杯を傾けていた。
「……人間なんて、いつの時代も愚かで脆い生き物」
赤い唇から漏れた声は、甘く残酷な響きを帯びていた。彼女の魂の奥底に息づいているのは、はるか昔、海を越えた異国での記憶だ。
殷の紂王を惑わせた妲己、天竺の斑足王をそそのかした華陽夫人。絶対的な美貌と妖力で王の心を絡め取り、国を意のままに弄んだ甘美な日々。
だが、その記憶の果てには常に、忌まわしい結末がこびりついている。最後に正体を見破られ、無様な姿で追いやられ、討伐された屈辱と苛立ち。
ふと、その記憶が表面化すると、玉藻前の白く細い指先が、手の中の玉杯をギリッと締め付けた。
ピシッ、
と嫌な音が鳴り、高価な杯が粉々に砕け散る。
「玉藻様。お気に召しませんか?」
足元に這いつくばる安倍泰真が、顔色を窺うように甘い声で尋ねた。
「いいえ。……ただ、同じ轍は踏まないと考えただけよ。今度こそ、誰にも邪魔されない完全に盤石な体制を作り上げるわ」
濡れた指先を艶やかな赤い舌で舐め取りながら、玉藻前は妖しく微笑んだ。
その盤石な体制を築くための皺寄せは、容赦なく弱い民へと向けられた。
夜な夜な都を脅かしていた野良の鬼の出没はピタリと止んだが、代わりに『増税』という名の逃げ場のない絶望が都を襲ったのだ。
すでに妖魔の依代と化し、人間の心など微塵も残っていない平青成と源忠朝が、感情のない冷酷な機械のように重税の取り立てを指揮していた。
少しでも払えぬ者は即座に縄を打たれ、表向きは「死罪」として闇へと連れ去られていく。
だが、真の地獄はその裏にあった。
都の地下深く。泰真が幾重にも張り巡らせた強固な結界の中。そこは、太陽の光が一切届かない闇の底である。生ぬるく湿った空気には、吐き気を催すほどの血と腐肉の匂いがべったりと充満していた。
「あ、あぁぁっ……!」
「助けてっ……!」
死罪とされた民たちは、そこで青鬼や黒獣などの妖魔たちの『生贄』として無惨に貪り食われていたのだ。骨が砕け、肉が引き裂かれる生々しい咀嚼音が、結界の中で絶え間なく響き渡る。
恐怖と激痛に染まった民の絶望の念は、泰真の術によって極上の瘴気へと変換され、玉藻前とその配下たちをさらに強大に育て上げていくための極上の餌となっていた。
そして、その絶望の淵から放たれる最後の祈りと断末魔を、光継は己の『星の力』によって毎夜のように直に受信し続けていた。
「……っ!」
真夜中の清涼殿。光継は悪夢にうなされ、幾度も幾度も目を覚ます。民の引き裂かれる悲鳴が、脳髄にこびりついて離れない。
しかし……今の自分には、あの化け物たちから民を救い出すには圧倒的に力が足りない。
まだ幼く若い光継にとって、大妖に抗うためにまずすべきことは、己自身が血を吐くような思いで成長し、確固たる力をつけること……それしかなかった。
光継は密かに、信頼できる者たちから教えを請うた。政治の表と裏、権力の動かし方については藤房から徹底的に学び、武術については、源朝霧と朧から厳しい指南を受けていた。
白砂の敷かれた秘密の鍛錬場。
「甘い! そんな太刀筋では、あの化け物どもの肉は斬れません!」
朝霧の容赦ない木刀が、光継の小さな肩を強打する。
「ぐっ……! まだだ!」
泥にまみれ、息が上がりながらも、光継は何度も立ち上がり食らいつく。
朧もまた自身を限界まで追い込んでいた。
姉を奪われた激しい喪失感。泰真が恍惚とした表情で玉藻を見つめていたあの不吉な姿が、頭から離れない。器として九尾に対抗しなければならないという途方もない重圧と、愛する姉を取り戻せるのかという恐怖。
朧はそれらのどす黒い感情を、自身を痛めつけるような鍛錬という行為で無理やり紛らわせようとしていた。
その日の朧の動きは、明らかに異常だった。
空気を引き裂く太刀筋には濃厚な殺気が混じり、彼女の周囲には『虚』の力が制御を離れ、黒い風のように渦を巻き始めていたのだ。
「……っ! なんで、もっと……強くなれないの……!」
朧の底知れぬ焦りと同調し、周囲の空気が異常なほどに波打つ。
「あ……っ!」
ついに制御を離れた黒い虚の念が完全に暴走し、巨大な黒い刃となって無差別に周囲を切り裂こうと猛り狂った。
「朧! 落ち着け! 気を静めろ!」
朝霧が叫ぶが、虚の暴風は止まらない。
その致命的な暴風の中へ、光継が木刀を捨て、一切の躊躇なく飛び込んだ。
「光継様!?」
風の刃が光継の肌を切り裂き、白い頬から赤い血が滲む。それでも光継は一歩も引かず、朧に真正面から駆け寄り、その震える細い身体を強く抱きしめた。
「大丈夫だ、朧! 焦らなくていい! 君が抱える不安も、恐怖も、僕が一緒に背負う!」
「みっ……光継、様……!」
「一人で抱え込まないでくれ。僕たちは、一緒に強くなるんだ」
光継の胸の奥から溢れ出した温かい星の光が、暴れ狂う虚の念を静かに包み込み、鎮めていく。
正気を取り戻した朧は、刀を取り落とし、光継の胸に顔を埋めて声を出して泣いた。焦りと恐怖の氷を、光継の温もりが溶かしていく。
それは、絶望の淵に立つ二人の間に、主従を超えた深い絆が再び強固に結ばれた瞬間だった。
その頃、都から離れた深い山中の谷底では、鷲王院の狂った妄執から逃れ、反撃の力を蓄える者たちがいた。
藤原影辰、黒耀、黒羽ら影の一族の主力たち。
「都の空が、ひどく淀んでいる……。だが焦るな。
時は必ず来る。それまで、我らは真の影となる」
影辰は研石で刃を研ぎながら、険しい表情で都の方角を睨み据えていた。
鷲王院の居館。
玉藻前は、長い煙管を吹かしながら退屈そうに白い煙を吐き出した。
「……光継……か。……あの小僧の星の光、どうにも鬱陶しいわね。微かだけど、こちらの瘴気を浄化している……?」
今すぐ青成や忠朝の依代を差し向けて暗殺することは容易い。だが、正当な理由もなく帝を殺せば、諸侯が一斉に蜂起して宮廷が不安定になる。
それは、彼女の思い描く「優雅な遊び場」の運営には面倒な事態だった。
「なら、さっさと用済みにすればいいのよ。皇の血を引く、私に都合のいい傀儡の世継ぎを」
玉藻前の赤い唇が、妖しく弧を描く。彼女はすぐさま配下に命じ、宮中の女たちを物色させた。
選ばれたのは、欲深く権力にすり寄るある中級官僚の娘だった。若く健康だが、知性も教養もなく、ただ見栄と欲望だけで生きているような無知な女。
玉藻前は、秘密裏にその娘を自らの部屋へ呼び出した。
「あ、あの……上皇様の寵姫であらせられるお方が、私のような者に何のご用で……?」
部屋を埋め尽くす金銀財宝に目を輝かせる娘には、玉藻前がまとう恐ろしい妖気も、背後に揺らめく尾も見えていない。
「可愛いお顔ね。あなたに、最高の栄誉を与えてあげるわ」
玉藻前がふわりと近づき、耳元で甘く囁く。その瞬間、玉藻前の背後で揺らめく九つの尾のうち、三本目の尾が異常なほどの妖気を放ち始めた。
「え……? ぁ……?」
娘が異変に気づいた時には、すでに遅かった。
部屋の空気が急激に歪み、玉藻前の三本目の尾から禍々しくも艶やかな妖の魂が這い出し、娘の体内へと無理やり侵入する。
「がっ、あ、あぁぁぁぁっ!!」
娘の瞳孔が開き、全身の骨が異様な音を立てて軋む。自我が粉々に砕け散り、空っぽになった肉体に、新たな妖が完全に定着した。
這いつくばった娘が、ゆっくりと立ち上がる。
その表情は、先ほどまでの無知で怯えた娘のものとは全くの別物だった。
妖艶で、残虐、男の欲望を根こそぎ絡め取るような魔性の笑み。
玉藻前の三本目の尾に宿る妖、『玉貴』が、依代を得てこの世に顕現した瞬間だった。
「ふぅん……悪くない身体ね。少し窮屈だけれど」
「よく似合っているわよ、玉貴。さあ、上皇をたっぷり喜ばせて、元気な世継ぎを産んでちょうだい」
「ええ、お姉様。任せて。
男を狂わせるのなんて、造作もないことだわ」
玉貴は、自らの豊かな胸元をなぞりながら、甲高い嬌声を上げた。
それから、幾度かの月が静かに満ちては欠けていった。
都を覆う絶望の雨が止む気配を見せず、民たちが重税と鬼の恐怖に喘ぐ中、宮中の奥深くでは、真綿で首を絞めるように緩やかで確実な破滅が進行していた。
馥郁たる白檀の香りと、脳髄を痺れさせるような濃密な麝香の匂いが、鷲王院の寝所を満たしている。
昼夜の区別すらつかない薄暗い部屋の中、かつて都を恐怖と威厳で支配した絶対権力者の姿はもはや見る影もない。
「あぁ……玉藻、珠貴……麗しき我が花よ……」
鷲王院はだらしなく口元を緩め、最高級の絹が敷き詰められた褥に力なく横たわっていた。
その瞳は完全に虚ろに濁り、かつての冷酷なまでの自我の光は微塵も残っていない。彼の右には絶世の美貌を誇る玉藻前が寄り添い、左には妖艶な笑みを浮かべる珠貴(玉貴)が、その胸元に白い指を這わせている。
「ウフフ……上皇様、今日はとてもご機嫌がよろしいのね」
珠貴の赤い唇から零れる声は、耳から侵入して理性を完全に溶かす甘い毒だ。彼女は鷲王院の耳元に顔を寄せ、甘く、そしてこの国の根幹を揺るがす決定的な一言を囁いた。
「私のお腹に……上皇様の御子が宿りましたの」
その瞬間、部屋の空気がぞわりと歪んだ。
鷲王院は呆けたように瞬きを繰り返し、やがて顔を紅潮させて歓喜の声を上げ、珠貴の肩を抱き寄せた。
「おお……! まことか! わしと珠貴の子が……! これで、あの忌まわしい奴は用済みだ! 我が真の世継ぎが誕生するのだ!」
狂喜乱舞する上皇を横目に、玉藻前は氷のように冷たい笑みを浮かべた。
(これで盤石ね。光継を廃し、この腹に宿った妖の落とし子を新たな傀儡の帝に据える……。都は完全に私の遊戯盤となるわ)
絶望の胎動が、確かな形を持って平安の都に根を下ろした。
都を覆う絶望の雨は、まだ止む気配を見せない。光と影の反撃の準備が整う前に、玉藻前の張る蜘蛛の糸は、さらなる狂気の深淵へと光継たちを引き摺り込もうとしていた。




