嘲笑
凄まじい雷鳴と共に都の結界を内側から食い破り、平安の闇を蹂躙した狂ったような嵐は去った。
しかし、幼き帝・光継たちが身を寄せる清涼殿を覆う空気は鉛のように重く、肺の奥が焼け焦げるような高密度の妖気と、噎せ返るような生臭い血の匂いがべったりとへばりついている。
「……来る」
清涼殿の奥。帝である光継を護るように控えていた近衛の朧が、微かに震える声で呟いた。
彼女の胸の奥で、負の念を呑み込む『虚』がかつてないほど激しく波打ち、絶望的な警鐘を鳴らしている。光継もまた、胸の星が軋むような痛みを覚え、思わず胸元を強く握りしめ顔をしかめた。
「陛下……!」
傍らに寄り添う后の桜華が、不安げに光継の袖をきつく握りしめる。その横では、側付きの茜が小さな足をガタガタと震わせていた。
昨夜の異変を察知し、急遽宮中へ駆けつけていた藤原藤房と源朝霧も、息を呑んで暗がりを睨みつける。彼らの前で、遠慮も何もない乱暴な所作により、御簾が大きく跳ね上げられた。
「ご機嫌麗しゅう、若き陛下」
朗々とした、しかし底知れぬ狂気と優越感を孕んだ声と共に現れたのは、上皇・鷲王院だ。
だが、光継や藤房、朝霧たちの視線は、憎き鷲王院には向かなかった。彼らの目は、鷲王院の背後に付き従う者たちに釘付けになっていたのだ。
鷲王院の後ろには、筆頭陰陽師・安倍泰真。
そして、平将の乱を鎮め討った若き策士、平青成。さらには、東国武士団の総領である猛将、源忠朝。
都が誇るこの二人の武将が、まるで別人のように、異様な念を纏って立っていた。
青成の瞳は狂気じみた青鬼のように濁りきり、忠朝からは黒煙の獣のようなドス黒い殺気が絶え間なく漏れ出ている。
二人はもはや人間の魂を失い、最悪の妖魔の器――『依代』へと成り果てていた。
しかし、
朧の瞳孔を極限まで収縮させ、全身の血を完全に凍らせたのは、その中心に立つ“存在”だった。
「あ……あぁ……」
朧の喉から、掠れた空気が漏れる。
白銀の長い髪。雪のように白く透き通る肌。
だが、かつて優しかった琥珀色の瞳は、人智を超えた妖艶な金色に染め上げられている。
そして彼女の背後には、九つの尾を持つ巨大な狐の幻影が、陽炎のようにゆらゆらと揺らめいていた。
「霞……姉……?」
朧の悲痛で、魂から絞り出すような呼びかけに、金色の瞳がふわりと細められた。
「霞? あぁ、私の極上の器となったこの子の名ね」
血のように赤い唇が弧を描き、小さく澄んだ嬌声を上げる。馥郁たる白檀と、脳髄を直接痺れさせるような麝香の甘い香りが、清涼殿の張り詰めた空気を容易く蹂躙し、塗り潰していく。
「私の名は玉藻。以後、お見知りおきを」
「っ……! お前、姉様に何をしたッ!!」
朧が激昂し、理性を飛ばして腰の小太刀に手をかけ、一歩踏み出した瞬間だった。
「朧ねぇ、待って!」
茜が、恐怖に震える手で朧の袖を力強く引っ張った。
「あの人……すっごく綺麗だけど、空気がぐにゃぐにゃしてて……怖いよ……っ」
「茜、見えないの!? あの女の背後の、巨大な尾が!」
「お……? 何を言ってるの? ただの綺麗な女の人にしか見えないよ……?」
茜の怯えた言葉に、朧はハッとした。
(……この異常な妖気と幻影は、普通の人間には見えないように隠蔽されている……!?)
星の力を持つ光継や、極限まで念を練り上げている朝霧、そして虚を持つ朧にははっきりと見えるその恐るべき九つの尾は、茜や一般の侍女たちには一切見えていなかった。玉藻前は、人間社会に溶け込むための擬態を、妖の術によって完璧にこなしているのだ。
「控えよ、小娘」
泰真が冷酷に言い放ち、恍惚とした表情で玉藻を見つめた。当代随一の陰陽師である彼もまた、すでに玉藻前の『魅了』の力に完全に呑まれ、這いつくばる犬に成り下がっていた。
「私の寵妃を紹介にきたまでだ」
鷲王院の宣告が、冷酷に響き渡る。彼もまた、玉藻に魅入られ、己の欲望のままに操られる人形であった。
反論しようと立ち上がった光継だったが、次の瞬間、激しい吐き気と頭痛に襲われ、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「っ……ぁ、がっ……!」
「陛下!?」桜華が悲鳴を上げる。
光継の星の力は、人の願望を読む。
その優しすぎる力が、玉藻前から放たれる果てしない怨念、途方もない欲望、そして数万の人間を喰らってきた血塗られた記憶を直に読み取ってしまったのだ。脳髄を直接掻き回されるような、絶望の奔流。それは、まだ幼い光継の心を一瞬で押し潰すほどの暴力だった。
「あら、可愛らしい星の君。心の声が聞こえるのね?」
玉藻は倒れ伏す光継に優雅な足取りで近づき、その顎を白く細い指先でそっと持ち上げた。
「……っ、触るな……化け物……っ」
光継は荒い息を吐きながら、震える声で睨みつける。
「ふふっ。威勢がいいこと。でもね、私はこの国を、私好みの極上の遊技場にするの。あなたたちには、玉座という特等席でその始まりを見物させてあげるわ」
玉藻は光継の頬を艶やかに撫でると、狂気に酔いしれる鷲王院や泰真、そして妖魔と化した武将たちを引き連れ、優雅な足取りで立ち去っていった。
圧倒的な武力と妖力の差。手も足も出ない、完全なる敗北の邂逅だった。
玉藻前たちが去った後の清涼殿は、深い絶望の淵に沈んでいた。
「霞姉……霞姉っ……!」
朧は床に崩れ落ち、声を殺して号泣していた。愛する姉を取り戻すどころか、指一本触れることすらできなかった己の無力さが、彼女の心を引き裂いていた。
沈痛な空気が流れる中、藤房は静かに、だが力強い声で口を開いた。
「『言葉は形を持つ。人の心は移ろうが、文字は残る。残るものは、力になる』」
藤房は、うずくまる光継の目を真っ直ぐに見据えた。
「玄耀院様の言葉です。陛下、今は奴らの力が我らを圧倒しています。ですが、心まで屈してはなりません。生きて、耐え、力をつけるのです」
「……」
「俺からも頼みます」
朝霧が静かに頭を下げた。
「俺の武も、今はあの妖魔たちには通じないかもしれない。だが、折れるつもりはない」
光継はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、玉藻の記憶に触れた恐怖の涙が滲んでいたが、奥底にある星の光はまだ消えずに宿っていた。
「……わかっている。僕は……逃げない」
光継の言葉に、朧も乱れた髪を払い、涙を拭って顔を上げる。
「……あの狐……私の命に代えても」
だが、反撃の誓いを立てる彼らを嘲笑うかのように、玉藻前の『遊戯』は、急速に都を地獄へと変えていくのである




