第二話 辺境到着初日、倉庫の隅で凍える狼獣人の少女を見つけた俺、まず食料を計算する
倉庫の中は、薄暗かった。
外の風で軋む扉。
差し込む夕陽の、細い帯。
その光の届く先に、麻袋の山があった。
俺は、足音を立てないように歩いた。
近づくにつれ、それは見えた。
麻袋の影、布を何枚もかき集めた塊。
その隙間から、小さな子供が、顔を出していた。
銀の髪。
琥珀色の瞳。
頭の上に、二つの獣の耳。
狼獣人の少女、だった。
頬は痩せて、唇は青白い。
俺を見た瞬間、その耳が、ぴくりと動いた。
「……来るな」
少女が、初めて声を出した。
低く、震えていた。
布の塊の隙間から、片方の手だけが、こちらに突き出されていた。
武器ではない。
ただ、自分を守るための、痩せた腕だった。
俺は、足を止めた。
その場にしゃがみ、視線の高さを合わせる。
「危害は、加えない」
短く、そう言った。
「俺は、この村の、新しい管理官だ」
「お前の名前は」
少女は答えなかった。
代わりに、鼻を、ひくりと動かした。
まるで、空気の匂いを嗅ぐように。
俺の上着、腰の帳面、その隙間。
すべての匂いを、一瞬で確認していた。
「……あんた」
「死人の匂い、しない」
少女が、ぽつりと言った。
俺は、自分の上着を、見下ろした。
王都を出てから三日。
馬車の埃と、雪の湿り気だけ。
血の匂いは、確かに、ない。
「殺し屋じゃない、ってことか」
「そうだ」
俺は頷いた。
少女の目に、ほんの僅か、警戒が薄れた。
「……ニナ」
「名前」
彼女は、震える声で言った。
俺は、その名を、頭の中の帳面に、書き加える。
『新規労働力候補:ニナ、狼獣人』
『状態:栄養失調、軽度の凍傷』
『嗅覚能力:高い(推定)』
可哀想だ、とは思わなかった。
ただ、計算した。
倉庫の口数が、一つ増えた。
同時に、潜在的な労働力も、一人増えた。
俺の仕事は、その差し引きを、合わせ続けることだ。
ニナの嗅覚が、本物なら。
食料の腐敗判定、毒草の選別、魔物素材の品質。
その全部に、応用が利く。
可哀想ではない。
使える。
俺の頭の中の数字が、そう言っていた。
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倉庫の入り口で、足音がした。
振り返る。
白髪の老人が、杖をついて、こちらを見ていた。
厚手の毛皮の外套。
顔の皺は深く、目は曇りかけていた。
だが、立ち姿には、まだ村の長としての矜持があった。
「……新しい、管理官の方ですかな」
老人は、ゆっくりと言った。
声が、わずかにかすれていた。
「レオ・クラウゼンと申します」
「俺は、補給官です」
俺は立ち上がり、少女を背にして、老人と向き合った。
「村長の、バウアーです」
「五十二になります」
老人は、深く頭を下げた。
その動作の遅さに、栄養不足の名残を、見た。
俺は、最初の問いを、置いた。
「現状を、教えてください」
「全部です」
バウアーは、少しだけ目を細めた。
覚悟の表情だった。
「……人口、三百十二」
「うち、労働可能な者、百四十前後」
「子供、四十二」
「老人、五十」
「病者、二十八」
「食料、十七日分」
「冬を越えるのに、必要な日数、六十日」
数字が、並んだ。
バウアーは、その並びを、自分の死亡通知のように、淡々と読み上げていた。
俺は、懐の帳面を取り出し、ペンを走らせた。
『人口:三一二』
『労働力:一四〇』
『食料残存:十七日』
『冬まで:六十日』
『差し引き:四十三日分、不足』
計算結果は、すでに頭の中で、出ていた。
現状のままでは、村は、四十三日後に飢える。
それより先に、凍えで死ぬ者も出る。
子供と、老人から、順番に。
布の塊の中で、ニナが、僅かに身じろぎした。
その音を、俺の耳が、拾った。
計算の対象が、増えた。
ただ、それだけのことだ。
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俺は、バウアーに向き直った。
「倉庫の在庫を、すべて、見せてください」
バウアーは、わずかに眉を上げた。
「すべて、ですか」
「樽の数、麻袋の数、中身、その重さ」
「全部、把握する必要があります」
俺の声に、村長は、ためらった後、頷いた。
「……構いません」
「ですが、もう、希望は」
「希望は、後です」
俺は、彼の言葉を、遮った。
「先に、数字です」
倉庫の中を、回る。
樽、二十二個。中身は、根菜と粟。
麻袋、四十一袋。半分は空、残りに小麦。
干し肉の束、十三本。多くは、すでに乾き切っている。
塩の壺、ひとつ。
塩の壺の蓋を開け、中を見た。
残量、二日分。
俺の手の中の帳面に、数字が、増えていく。
数字が増えるたび、生存確率が、一行ずつ、削られていく。
その間、ニナは、布の塊の中から、ずっと俺を見ていた。
その横で、バウアーは、黙って俺の作業を見守っていた。
すべての確認が、終わった。
俺は、最後の一行を、書いた。
『現状での生存確率:十二パーセント』
数字は、嘘をつかない。
ならば、その数字を、書き換えるしかない。
「バウアーさん」
俺は、村長を呼んだ。
「この村に、薬師か、保存食を作れる者は、いますか」
バウアーの目が、わずかに開いた。
「……ミラ、という娘がおります」
「亡き母から、薬草の知識を、受け継いだ者です」
「保存食は、知識だけは、あります」
「呼んでください」
俺は、短く言った。
「それと、彼女に、まずニナを預けます」
「身体を温めて、薄い粥を、少しずつ」
「肉も油も、まだ与えてはいけません。胃が、受け付けない」
バウアーの口が、僅かに開いた。
まるで、目の前の若い管理官が、何者なのか、初めて確認したかのように。
俺は、続けた。
「明日から、保存食の生産を始めます」
「燻製、塩漬け、乾燥」
「食料の寿命を、三倍に延ばす」
「四十三日分の不足は、これで埋まります」
バウアーは、何も言わなかった。
ただ、深く、息を吐いた。
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その夜。
ミラ、という娘が、倉庫まで来た。
二十八ほど。物静かな、目の細い女だった。
彼女は、ニナを抱き上げ、自分の家に連れ帰った。
倉庫の入り口で、ニナは、一度だけ、振り返った。
「……レオ」
「ん」
「あんた」
「肉、燻すんでしょ」
「北のほう。山の上から、何か、肉の匂いが、する」
ニナは、それだけ言って、ミラに連れられて行った。
俺は、その背中を、見送った。
頭の中の帳面の、ニナの欄に、もう一行を、書き加える。
『嗅覚能力:確定。北方の魔物素材、感知可能』
数字が、また一つ、増えた。
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倉庫に、夜が、降りた。
俺は、ペンを置き、最後の課題を、書いた。
『燻製にも、塩漬けにも、塩は、必須』
『塩がなければ、保存食は、作れない』
窓の外、北の空に、雪雲が、流れていた。
塩を、どうにかしなくてはならない。
明日、最初の一日が、始まる。




