第七話 努力の才能
中学一年生の夏。
科学部の部室は、蒸し暑かった。
エアコンはない。
窓際で回る古い扇風機が、申し訳程度に風を送っている。
「今日はここまで。」
午後六時。
部長の黒瀬凛が声をかける。
「お疲れ様でした。」
部員たちは一斉に帰り支度を始める。
奏斗もノートを閉じようとした、その時だった。
「結城。」
「はい?」
「残って。」
一瞬、部室が静かになる。
「……俺ですか?」
「うん。」
他の部員が帰ると、部屋には二人だけが残った。
「座って。」
黒瀬は一冊のノートを机に置いた。
「これ、見て。」
ページを開く。
そこには、何十回も失敗した実験の記録が並んでいた。
失敗。
失敗。
失敗。
ページをめくっても、また失敗。
「これ……。」
「去年の私。」
「え?」
「全部失敗。」
奏斗は目を丸くした。
「でも先輩は全国大会で——」
「優勝した。」
黒瀬は苦笑する。
「でも、その前に百回くらい失敗してる。」
「百回……。」
「神童って言われる子はさ。」
黒瀬は窓の外を眺めた。
「みんな、成功したところしか見てもらえない。」
「失敗は映らない。」
その言葉に、奏斗は息をのむ。
どこか、自分と似ていた。
「結城。」
「君は努力してる?」
突然の質問だった。
「……してます。」
「本当に?」
「え?」
「知ってることを確認してるだけじゃない?」
図星だった。
奏斗は毎日勉強している。
でも、その多くは「知っていること」の復習だった。
本当に未知の分野へ飛び込む時間は、少ない。
「君は頭がいい。」
「でも。」
黒瀬は人差し指で机を軽く叩く。
「努力の仕方を知らない。」
その言葉は、今まで誰にも言われたことがなかった。
翌日。
夏休み。
奏斗は朝七時に学校へ来ていた。
図書室。
借りる本は、前世で読んだことがないものだけ。
理解できないページには付箋を貼る。
知らない単語は辞書を引く。
一ページ読むのに三十分。
小学生の頃なら五分で読めた。
(遅い……。)
それでも。
「知らないこと」が少しずつ「知っていること」に変わる感覚は、不思議と心地よかった。
夕方。
科学部。
「おはよう。」
すずがやって来る。
「……夕方だけど。」
「細かいことはいいの。」
彼女は机に座ると、奏斗のノートを覗き込んだ。
付箋だらけだった。
「すご。」
「分からないところ全部?」
「うん。」
「こんなに?」
「知らないことばっかりだった。」
すると、すずは嬉しそうに笑った。
「よかったね。」
「……またそれ?」
「うん。」
「結城くん、最近楽しそう。」
その一言に、奏斗は少し驚いた。
楽しい。
そんな顔をしていただろうか。
八月。
市内科学コンクール。
今年のテーマは自由。
部員全員が作品を提出する。
結果発表の日。
第三位。
「天城すず。」
拍手。
第二位。
別の学校の生徒。
そして。
第一位。
「該当者なし。」
会場がざわつく。
審査員が説明する。
「今年は基準点に届く作品がありませんでした。」
その後。
講評が始まる。
「天城さん。」
「発想は素晴らしい。」
「ただ、検証が足りません。」
「結城さん。」
奏斗は立ち上がる。
「知識量は非常に高い。」
「ですが。」
審査員は少し間を置いた。
「この研究は、あなた自身の疑問から始まっていますか?」
その質問に、奏斗は答えられなかった。
研究テーマは、本で見つけたもの。
実験方法も、本を参考にした。
もちろん、自分なりに工夫はした。
それでも。
「……。」
「答えられないようですね。」
審査員は優しく笑った。
「知識は大切です。」
「ですが、研究者に最も必要なのは。」
「『なぜ?』と疑問を持つ心です。」
会場を出る帰り道。
奏斗は悔しかった。
優勝できなかったからではない。
自分には、「自分だけの問い」がなかったことが。
その隣で、すずは空を見上げながら言った。
「ねえ。」
「何?」
「来年は勝てる気がする。」
「なんで?」
「今年は負け方が分かったから。」
奏斗は思わず笑った。
「前向きだな。」
「うん。」
「だって。」
すずは少し照れくさそうに笑う。
「負けるたびに、昨日の自分には勝ってるもん。」
その言葉は、奏斗の心に静かに刻まれた。
彼はまだ気付いていない。
彼女の本当の才能は、頭の良さではない。
誰よりも、成長することを楽しめる才能。
それこそが、将来彼女を「本物の天才」へと変えていく最大の力だった。
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