第二部 第九話 論文より難しいもの
大学院一年、四月。
「今日から大学院生か。」
新しい学生証を見つめながら、奏斗は小さく息を吐いた。
学部生の頃とは違う。
ここから先は、「学生」ではなく「研究者の卵」として見られる世界だ。
教授は最初のゼミでこう言った。
「大学院では、正しい答えを出すことは求めません。」
「求めるのは、新しい問いです。」
その言葉を聞き、奏斗は自然と笑っていた。
高校一年の頃なら、この意味は分からなかっただろう。
一方その頃。
「先輩!」
教育学部一年。
朝比奈ひまり。
入学して一週間で、教育学部の有名人になっていた。
理由は簡単だ。
「教授。」
「その実験条件だと交絡変数が残りませんか?」
「……。」
教授が少し考え込む。
教室がざわつく。
「あの一年生誰?」
「高校生で学会賞を取った子らしい。」
「なるほど……。」
ひまり本人は全く気付いていなかった。
昼休み。
学食。
「先輩!」
ひまりがトレーを持って隣へ座る。
「また勝負しましょう!」
「何を?」
「テスト!」
「まだ授業始まったばかりだよ?」
「じゃあレポート!」
「それもまだ出てない。」
「じゃあ論文を読む速さ!」
奏斗は笑ってしまった。
「勝負好きだな。」
「もちろんです!」
「負けると燃えるので!」
昔のすずもそうだった。
いや。
ひまりはもっと一直線だった。
五月。
研究室。
奏斗は初めて、自分が後輩を指導する立場になった。
「この論文を読んできて。」
一年生が難しい顔をする。
「難しいです……。」
「全部理解しなくていい。」
「え?」
「一つだけ。」
「分からなかったことを書いてきて。」
学生は首をかしげる。
翌週。
「書いてきました!」
ノートには五ページ分の「分からない」が並んでいた。
奏斗は嬉しそうに頷く。
「十分。」
「え?」
「それだけ疑問があるなら。」
「もう研究は始まってる。」
その言葉を、教授は部屋の外で聞いていた。
「結城くん。」
「はい。」
「君。」
「昔の私に似てきた。」
「先生に?」
「いや。」
教授は笑う。
「私が目指していた教師に。」
六月。
一本のメールが届く。
送り主は、一ノ瀬だった。
件名。
『共同研究の誘い』
本文は短い。
教育心理学と認知科学を組み合わせた研究を考えている。
興味があれば、一緒にやらないか。
奏斗は思わず笑う。
高校時代、一度も勝てなかったライバル。
今度は、同じ論文に名前を並べる。
「面白そうだ。」
返信は一行だけだった。
喜んで。
その夜。
研究室を出ると、ひまりがベンチに座っていた。
「まだ帰ってなかったの?」
「待ってました。」
「どうした?」
「相談です。」
珍しく真剣な顔だった。
「私。」
「初めて負けました。」
「何に?」
「レポート。」
「九十二点でした。」
「十分高いよ。」
「でも。」
「一位じゃありませんでした。」
奏斗は少し笑う。
「悔しい?」
「はい。」
「じゃあ。」
「なんで負けたと思う?」
ひまりは十分ほど考えた。
「……。」
「書きたいことを書きすぎました。」
「うん。」
「課題と少しずれていました。」
「そうだね。」
「じゃあ次は?」
「相手が何を求めているかも考えます。」
奏斗は頷いた。
「それでいい。」
ひまりは少し照れくさそうに笑う。
「また。」
「答えを教えてくれませんでしたね。」
「教えたら。」
「私の勝ちにならないから。」
その言葉に、ひまりは嬉しそうに笑った。
「やっぱり。」
「先輩には勝ちたいです。」
「望むところ。」
夕焼けのキャンパス。
二人は並んで歩く。
勝負は続く。
けれど、その勝負には嫉妬も憎しみもない。
あるのは、互いを一歩先へ押し出す力だけだった。
その背中を見送りながら教授は静かにつぶやく。
「論文を書くより難しいことがある。」
隣にいた橘が尋ねる。
「何ですか?」
教授は笑った。
「自分を超える教え子を育てることだ。」
「そして。」
「それを心から喜べることだ。」
遠くで笑い合う二人を見つめながら、教授は確信していた。
結城奏斗は、もう「元神童」ではない。
一人の教育者であり、研究者として、自分だけの道を歩き始めているのだと。
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