第二部 第七話 初めての敗北
part2
大学四年、六月。
教育心理学研究室。
「卒業研究の中間発表を始めます。」
教授の声が響く。
卒業研究。
大学生活四年間の集大成。
奏斗も、ひまりも、この日を目標に研究を進めてきた。
……ただし。
二人は同じ学年ではない。
奏斗は四年生。
ひまりは一年生。
本来なら、一年生が発表する場ではない。
しかし。
「特例です。」
教授は穏やかに言った。
「朝比奈さんの研究は、学年を問わず発表する価値があります。」
研究室がざわつく。
大学院生まで興味深そうな表情をしていた。
「最初の発表。」
「結城奏斗。」
奏斗は壇上へ立つ。
テーマは、
『問い返しによる学習意欲の長期的変化』
高校時代から積み重ねてきた研究。
大学で四年間磨き上げた内容だった。
発表を終える。
質疑応答。
大学院生から鋭い質問が飛ぶ。
教授からも細かな指摘がある。
それでも、しっかり答え切った。
拍手。
完成度は高い。
誰もがそう思った。
「続いて。」
「朝比奈ひまり。」
一年生とは思えない落ち着いた足取りで壇上へ向かう。
タイトルが映る。
『“分かった”という感覚は、他者へ教えることで完成するのか』
奏斗の表情が変わる。
(……そう来たか。)
自分の研究をさらに発展させている。
しかも。
切り口がまったく違う。
「私は。」
ひまりが話し始める。
「高校時代。」
「結城先輩から、答えではなく問いを教わりました。」
会場が静かになる。
「しかし。」
「大学に入り。」
「私は一つの疑問を持ちました。」
「人は。」
「理解しただけでは、本当に理解したことにならないのではないか。」
スクリーンにデータが映る。
理解した学生。
教えた学生。
数週間後の定着率。
驚くほど明確な差。
「他者へ説明することで。」
「人は初めて、自分の理解の浅さに気付きます。」
「そして。」
「理解は、そこで完成します。」
会場の空気が変わった。
教授がメモを取る。
大学院生たちも真剣な表情になる。
橘も、小さく息を呑んだ。
質疑応答。
教授が手を挙げる。
「非常に面白い。」
「ありがとうございます。」
「この研究は。」
「誰の影響を受けましたか?」
ひまりは少しだけ笑った。
「一人の先輩です。」
「その人は。」
「いつも答えではなく。」
「問いをくれました。」
「だから。」
「今度は私が。」
「その問いの続きを考えました。」
教授はゆっくり頷いた。
「素晴らしい。」
その一言だけだった。
しかし。
研究室にいる全員が理解した。
今日、一番心を動かした発表は。
朝比奈ひまりだった。
発表終了後。
研究室の廊下。
「先輩。」
ひまりが少し不安そうに近付いてくる。
「……怒ってますか?」
奏斗は少しだけ黙った。
そして。
笑った。
「悔しい。」
「……。」
「完全に負けた。」
その一言で。
ひまりは目を丸くした。
「でも。」
奏斗は続ける。
「最高だった。」
「え?」
「俺なら。」
「その問いは思いつかなかった。」
「だから。」
「ありがとう。」
ひまりは何も言えなかった。
ただ、涙があふれた。
「私……。」
「ずっと。」
「先輩の背中だけ見てきました。」
「うん。」
「なのに。」
「今日は。」
「初めて。」
「先輩が私を見てくれた気がします。」
奏斗は静かに頷く。
「見てるよ。」
「もう。」
「背中じゃない。」
「隣だ。」
その様子を見ていた教授が、小さく笑った。
「結城くん。」
「はい。」
「負けた気分は?」
奏斗も笑い返す。
「最高です。」
教授は満足そうに頷く。
「研究者は。」
「弟子に負けた日が、一番嬉しいんだ。」
夕暮れ。
研究棟の窓から差し込む光が、二人を照らしていた。
かつて。
神童だった少年は。
ようやく本当の意味で、次の世代へバトンを渡した。
そして。
そのバトンを受け取った少女は。
誰かに教えられた問いではなく。
自分だけの問いを見つけた研究者になろうとしていた。
二人の勝負は終わらない。
だが。
もう勝ち負けだけではない。
互いの問いを深くするための、終わりなき対話が始まっていた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
もし少しでも面白いと思っていただけましたら、
★評価
★ブックマーク
★感想
をいただけると執筆の大きな励みになります!
今後とも、よろしくお願いいたします!




