第二部 第二話 才能ではなく、問いで勝負する世界
大学一年、五月。
「今日から研究室のゼミを始めます。」
教育心理学研究室。
円形に並べられた机。
教授を囲むように、大学院生、四年生、三年生、二年生、そして一年生が座っている。
奏斗は一番下っ端だった。
「では。」
教授が笑う。
「“人はなぜ勉強するのか”について議論しましょう。」
(……え?)
奏斗は思わず顔を上げた。
資料はない。
答えもない。
議論だけ。
高校までなら、先生が答えを教えてくれた。
大学は違う。
「私は。」
大学院生が口を開く。
「自己実現のためだと考えます。」
「私は社会的評価です。」
「好奇心ではないでしょうか。」
次々と意見が飛び交う。
教授は一切答えを言わない。
「結城くん。」
突然、名前を呼ばれた。
「君は?」
全員の視線が集まる。
奏斗は少し考えた。
「……誰かと出会うため、です。」
部屋が静まり返る。
「理由を聞いてもいいかな?」
「はい。」
奏斗はゆっくり話し始める。
「小学生の頃の僕は。」
「答えを知るために勉強していました。」
「でも。」
「研究を始めて。」
「知らないことを知るより。」
「同じ問いを持つ人と出会う方が楽しくなりました。」
「だから。」
「勉強は、人と出会うためにするものだと思います。」
教授は嬉しそうに笑った。
「面白い。」
「正解かは分からない。」
「でも。」
「君自身の答えだ。」
その一言が、胸に残った。
ゼミ後。
「結城くん。」
声を掛けてきたのは、ペアになった二年生の橘彩乃だった。
「さっきの発言。」
「好きです。」
「ありがとうございます。」
「でも。」
彼女は少し困ったように笑う。
「研究として証明するのは難しいですよ。」
「確かに。」
「だから。」
「一緒に考えましょう。」
その笑顔は、どこか昔のすずを思わせた。
それから二か月。
二人は毎日のように図書館へ通った。
論文を読む。
実験を考える。
データを集める。
「結城くん。」
「はい?」
「この論文。」
「仮説が弱いですね。」
「本当だ。」
「でも。」
「実験方法は面白い。」
そんな会話を何時間も続ける。
不思議だった。
高校までは「勝負」が多かった。
大学では「共同研究」が増えた。
一人では届かない場所へ、二人で近付いていく。
そんな感覚だった。
六月。
研究室へ、一人の来客が現れる。
「失礼します。」
スーツ姿の女性。
教授と話している。
「今年卒業した大学院生だ。」
教授が紹介する。
「現在は海外で研究している。」
女性は学生たちを見回し、笑った。
「皆さん。」
「才能って言葉、好きですか?」
突然の質問だった。
誰も答えられない。
「私は嫌いです。」
部屋が静かになる。
「才能って。」
「努力した人を諦めさせる言葉になりやすいから。」
奏斗はその言葉に反応した。
女性は続ける。
「研究の世界で最後に残る人は。」
「一番頭がいい人じゃありません。」
「一番諦めが悪い人です。」
その瞬間。
黒瀬先輩の言葉が頭をよぎる。
『最後までやめない。』
高校時代。
あの日聞いた言葉と、まったく同じだった。
夜。
研究室を出る。
橘が隣を歩く。
「今日の話。」
「考えさせられましたね。」
「うん。」
「結城くん。」
「はい?」
「昔。」
「天才って呼ばれてませんでした?」
奏斗は少し笑う。
「呼ばれてた。」
「嫌でした?」
少し考える。
「昔は嬉しかった。」
「今は?」
「今は。」
夜空を見上げる。
「努力家って言われる方が嬉しい。」
橘は静かに笑った。
「それ。」
「きっと本当に成長した人だけが言える言葉ですね。」
その日。
奏斗は改めて思った。
神童だったことは、人生の一部に過ぎない。
今の自分を作っているのは、才能ではなく。
負けた日々。
迷った日々。
問い続けた日々なのだと。
そして遠く離れた高校では——。
「結城先輩。」
朝比奈ひまりが、新しい研究ノートを開いていた。
表紙には大きく書かれている。
『いつか先輩を超えるための研究ノート』
彼女の挑戦は、まだ始まったばかりだった。
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