第十三話 化けの皮
六月の終わり。
全国高校科学研究選手権まで、あと一か月。
科学部では連日遅くまで実験が続いていた。
奏斗も毎日、最後まで残っていた。
実験。
失敗。
記録。
実験。
失敗。
記録。
その繰り返し。
昔なら考えられない生活だった。
「部長。」
後輩が声を掛ける。
「ここ、分からないんです。」
「どれ?」
奏斗はノートを覗き込む。
「ああ、それなら──」
説明を始める。
十分ほどで後輩は理解した。
「ありがとうございます!」
「部長って教えるの上手いですね。」
その言葉に、奏斗は少し驚いた。
(教える……。)
前世。
会社員だった頃。
新人教育を担当したことがあった。
その経験が自然と口から出ていた。
(……これも俺なんだ。)
神童だからではない。
前世を生きた三十五年間も、今の自分を作っている。
数日後。
研究発表のリハーサル。
先生が全員に講評をしていく。
「水瀬さん。」
「素晴らしい。」
「このままでいい。」
「一ノ瀬くん。」
「面白い。」
「質問への対応だけ準備しよう。」
そして。
「結城くん。」
「はい。」
先生は少し困ったように笑った。
「発表は、とても上手。」
「ありがとうございます。」
「でも。」
その一言で空気が変わる。
「研究そのものは。」
「普通だね。」
部室が静まり返る。
先生は慌てて付け加える。
「もちろん高校生としては十分優秀だ。」
「だけど。」
「発表技術が研究内容を引っ張っている印象かな。」
奏斗は静かにうなずいた。
「……はい。」
否定できなかった。
帰宅後。
机に向かう。
研究ノートを読み返す。
何度読んでも、先生の言葉は正しかった。
研究は丁寧。
データも多い。
結論も妥当。
だけど。
誰でも思いつく。
それ以上ではなかった。
「……。」
ふと、本棚の奥から一冊のアルバムを取り出す。
『神童・結城奏斗』
十歳の頃の記事。
《小学生で高校数学を理解》
《未来を担う天才》
《日本の宝》
ページをめくる。
そこに映る自分は、自信満々に笑っていた。
「……違うよ。」
思わず声が漏れる。
「違う。」
「俺は天才じゃない。」
「最初から。」
「ただ、一度知っていただけなんだ。」
部屋は静まり返っていた。
そのときだった。
コンコン。
母がドアをノックする。
「奏斗。」
「入っていい?」
「うん。」
母は部屋へ入ると、アルバムを見て少し笑った。
「懐かしいね。」
「……うん。」
「また見てたんだ。」
奏斗は少し迷った。
そして、初めて口にした。
「母さん。」
「何?」
「俺。」
「神童じゃなかった。」
母は一瞬きょとんとした。
「今さら?」
「え?」
母はベッドに腰掛ける。
「お母さんね。」
「最初から知ってたよ。」
奏斗は目を見開いた。
「え……?」
「神童じゃないって?」
「違う違う。」
母は笑った。
「神童かどうかなんて、どうでもよかった。」
「お母さんが見てたのは。」
「毎日楽しそうに本を読んでる奏斗。」
「分からないことがあると悔しがる奏斗。」
「転んでも、また挑戦する奏斗。」
「それだけ。」
「テレビの神童なんて。」
「お母さんには関係なかった。」
奏斗は何も言えなかった。
母は続ける。
「ねぇ。」
「覚えてる?」
「五歳の頃。」
「一日中折り紙で鶴を折ってたこと。」
「……。」
覚えている。
最初は全然折れなかった。
何十回も失敗した。
「百回くらい失敗して。」
「やっと一羽できたとき。」
「あなた、すごく嬉しそうだった。」
母は優しく笑う。
「その顔。」
「最近またするようになったね。」
その言葉を聞いた瞬間。
奏斗は気付いた。
神童だった頃の自分は。
「褒められるため」に勉強していた。
今は違う。
「知りたいから」学んでいる。
「できるようになりたいから」努力している。
その違いは、とても大きかった。
翌日。
学校へ向かう坂道。
すずが隣を歩いていた。
「おはよう。」
「おはよう。」
奏斗は少し笑って言った。
「俺さ。」
「うん。」
「やっと化けの皮が剥がれた。」
「え?」
「昔の俺は。」
「神童を演じてただけだった。」
「今は。」
「ただ勉強が好きな普通の高校生。」
すずは少し黙ってから、肩をすくめた。
「今さら?」
「え?」
「私。」
「最初から知ってたよ。」
「……は?」
「結城くん。」
「天才じゃなくて。」
「努力家だもん。」
奏斗は思わず立ち止まる。
「そんな顔しなくても。」
すずは笑う。
「私が憧れたのは。」
「テレビの神童じゃない。」
「負けても、次の日にはまた勉強してる結城くん。」
「そっちだから。」
坂の上では、朝日が二人を照らしていた。
その瞬間、奏斗はようやく過去を手放した。
「神童」という仮面は、もう必要ない。
ただ一人の高校生として。
昨日より少しだけ前へ進むために。
彼は歩き始めた。
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