第9話 だから私、ただの営業マンなんですが……
営業マンにとって、最も厄介な競合相手とは何か。
価格の安い会社だろうか。品質の高い会社だろうか。それとも、豊富な資金力と圧倒的な知名度を誇る大企業だろうか。
小日向奏斗は、どれも厄介だと思っていた。
ただし、四年間の営業経験を通じて、一つだけ確信していることがある。
競合他社が営業先に傭兵を送り込んでくるのは、明らかに反則である。
「……というわけで、金獅子商会がうちの取引先を脅して回っている」
黒梟商会の会議室で、レオナ・ヴァイスが報告を終えた。
机の上には、ベルグラードの河港を中心とした地図が広げられている。赤い印がつけられているのは、黒梟商会の取引先だった。
その数、十二。
うち五つには、大きな×印が書き込まれていた。
「……この印は?」
奏斗が尋ねると、レオナは眉間に皺を寄せた。
「契約を打ち切られた取引先だ」
「五件もですか?」
「ああ。金獅子商会から圧力をかけられたらしい」
奏斗は思わず息を呑んだ。
五件。
それも、わずか数日の間に。
通常の営業活動であれば、相当な異常事態だった。
「……理由は分かっていますか?」
「金獅子商会と契約すれば、今後の港湾利用料を安くする。逆に、うちと取引を続けるなら、荷揚げ作業を断るそうだ」
「……それは、かなり強引ですね……」
「強引どころではない」
レオナは地図の一角を指さした。
「昨日は、うちの荷馬車が港の入口で止められた。傭兵が十人ほど待ち構えていたそうだ」
「……十人……」
奏斗の顔が青ざめた。
怖い。とても怖い。
前の会社にも競合他社はいたが、さすがに傭兵を雇っている会社はなかった。
少なくとも、奏斗の知る限りでは。
「よし。なら、こっちも二十人出そうぜ」
ガルド・バルバロッサが腕を組んだ。
「二十人で足りるか?」
「足りなきゃ三十人だ!」
「増やさないでください!」
奏斗は反射的に叫んだ。
ガルドは不満そうに鼻を鳴らした。
「じゃあ、どうすんだよ。黙って客を取られるのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「なら殴るしかねえだろ!」
「どうして二択なんですか!?」
奏斗は頭を抱えた。
この人は本当に、商売というものを何だと思っているのだろう。
しかし、今回はガルドの言い分にも一理あった。
相手が武力を使っている以上、こちらも無防備ではいられない。
だからといって、全面抗争になれば、港の商売そのものが止まってしまう。
それでは、誰も得をしない。
「……カナトはん」
ロイド・ベルガーが口を開いた。
「今回は、前の灰蛇団みたいにはいきまへんで」
「……そうなんですか?」
「金獅子商会は、うちよりずっと大きい。金も人も持ってます。しかも、港湾の荷役組合に顔が利く」
ロイドは笑みを浮かべたまま続けた。
「信用を積み重ねて勝つ、いうても、その信用を使う場所そのものを押さえられたら終わりですわ」
奏斗は黙った。
確かに、そのとおりだった。
どれほど良いサービスを提供しても、商品を届けられなければ意味がない。
営業マンが契約を取っても、物流が止まれば売上にはならない。
奏斗は地図を見つめた。
そして、ふと気づいた。
「……あの、ロイドさん」
「はいな」
「金獅子商会は、港から先の運送網も持っているんでしょうか」
ロイドの目が細くなった。
「……と言いますと?」
「港で荷物を扱うのは得意でも、その荷物を各地へ運ぶ仕組みまで持っているとは限りませんよね?」
レオナが口を開いた。
「確かに、金獅子商会の主力は港湾事業だ。街道輸送は外部の業者に任せている」
「……なるほど」
奏斗は頷いた。
「でしたら、まだ勝負できる部分はあると思います」
ヴォルフガング・グレイヴが腕を組んだ。
「……聞かせろ」
奏斗は少し緊張しながら、口を開いた。
「金獅子商会は、港を押さえています。でも、私たちは港から先の運送網を持っています」
奏斗は地図を指さした。
「つまり、港だけではなく、荷物が目的地に届くまでの全体を考えれば、こちらにも強みがあるはずです」
会議室が静まり返った。
「……それで?」
ヴォルフガングが尋ねた。
奏斗は深く息を吸った。
「金獅子商会と、港の支配権を争う必要はありません」
「……何?」
「私たちは、荷物を確実に届けることに集中するんです」
*
翌朝。
黒梟商会では、珍しく全幹部が集まっていた。
奏斗が提案したのは、運送網の再編だった。
金獅子商会が港を押さえているなら、そこだけに依存しない仕組みを作る。
具体的には、河港の外側にある小規模な荷揚げ場や、街道沿いの倉庫を活用する。
さらに、灰蛇団との共同運送契約を利用して、東街道の輸送能力を強化する。
もちろん、すぐに実現できる話ではない。
新しい荷揚げ場の利用許可、倉庫の確保、荷馬車の手配、取引先との調整。
やるべきことは山ほどあった。
「……で、誰がやるんだ?」
ガルドが尋ねた。
奏斗は笑顔で答えた。
「皆さんです」
「……は?」
「私一人では無理ですので」
会議室が静まり返った。
奏斗は続けた。
「レオナさんには、運送路の安全確保をお願いしたいです。ガルドさんには、倉庫と荷馬車の警備を。ミレーユさんには費用の試算をお願いできますか?」
「……構わない」
レオナが頷いた。
「警備なら任せろ!」
ガルドが胸を叩いた。
「費用の試算はできます。ただし、予算を超えるなら止めますよ」
ミレーユが眼鏡を押し上げた。
「ありがとうございます」
奏斗は頭を下げた。
そして、ロイドを見た。
「ロイドさんには、取引先との交渉をお願いしたいんです」
「……ほう?」
「金獅子商会の圧力で契約を打ち切った取引先も、必ずしも私たちを嫌っているわけではないと思います」
ロイドは目を細めた。
「……なるほど。戻る理由を作ってやるわけですな」
「はい。無理に戻ってもらうのではなく、こちらと取引するメリットを示したいんです」
「……ええでしょう」
ロイドは楽しそうに笑った。
「ほな、ワシの腕の見せどころですわ」
最後に、奏斗は窓際を見た。
そこには、いつの間にかシエル・ノクスが座っていた。
「……シエルさん」
「なあに?」
「金獅子商会の運送状況について、分かる範囲で調べてもらえますか?」
「いいよ」
「ただし、危険なことはしないでくださいね」
「……それ、僕に言う?」
「はい」
シエルはくすくす笑った。
「分かった。なるべくね」
「なるべく、では困るんですが……」
奏斗はため息をついた。
しかし、これで必要な役割は揃った。
あとは、それぞれが仕事を進めるだけである。
ヴォルフガングは、そんな奏斗をじっと見つめていた。
「……カナト」
「はい?」
「お前は、随分と人を使うのが上手いな」
「……いえ、そんなことはありません」
奏斗は慌てて首を振った。
「私は、皆さんのほうが詳しいことをお願いしているだけです」
ヴォルフガングは笑った。
「それができる人間は、そう多くない」
奏斗は困ったように笑った。
褒められているのだろうか。
しかし、彼にとっては当たり前のことだった。
営業マン一人では、商品は作れない。
契約を取っても、納品する人間がいなければ仕事にならない。
経理が請求書を作らなければ、売上にもならない。
だからこそ、周囲の人間と協力する必要がある。
それだけの話だった。
*
三日後。
黒梟商会の本部には、次々と報告が届いていた。
「カナトさーん!」
ニコが勢いよく駆け込んできた。
「東街道の倉庫、使えることになりました!」
「本当ですか!」
「はい! 灰蛇団の人たちが、空いてる倉庫を貸してくれるそうです!」
奏斗はほっとした。
灰蛇団との共同運送契約が、思わぬ形で役に立った。
もちろん、倉庫の利用料は発生する。
しかし、港湾倉庫に依存しない拠点を確保できたことは大きかった。
「……よかったですね」
「はい!」
ニコは嬉しそうに笑った。
そのとき、ミレーユが書類を抱えて現れた。
「カナトさん。費用の試算ができました」
「ありがとうございます」
「新しい運送経路を使う場合、最初の一か月は赤字になる可能性があります」
「……そうですか」
「ただし、二か月目以降、一定の荷物量を確保できれば黒字化する見込みです」
奏斗は頷いた。
「では、最初から全便を切り替えるのは避けましょう」
「そうですね。まずは試験運用が妥当です」
ミレーユは微笑んだ。
「それと、ガルドさんのところから報告が来ています」
「……何でしょうか?」
「新しい倉庫の警備体制が整ったそうです」
「……よかったです」
「ただし、警備員が多すぎるので、半分に減らしてもらいました」
「……ありがとうございます」
奏斗は心から感謝した。
ガルドに任せきりにしていたら、倉庫より警備員のほうが多くなっていたかもしれない。
*
さらに二日後。
ロイドが戻ってきた。
「いやあ、カナトはん。なかなか面白い結果になりましたで」
「……どうでした?」
「契約を打ち切った五件のうち、三件が戻ってきます」
「……本当ですか!」
奏斗は思わず立ち上がった。
「ええ。金獅子商会の条件も悪くなかったんですが、向こうは港から先の運送が不安定らしくてな」
「……なるほど」
「うちは、目的地までまとめて運べる。しかも、遅延があった場合の対応も明確にした。そこを評価してくれはりました」
奏斗は頷いた。
価格だけではない。
納期、品質、対応力。
そうした要素も、取引先にとっては重要なのだ。
「……ありがとうございます、ロイドさん」
「いやいや。ワシは、あんたの考えた条件を説明しただけですわ」
「いえ、実際に交渉してくださったのはロイドさんですから」
ロイドは一瞬だけ目を丸くした。
そして、くつくつと笑った。
「……ほんま、変わったお人ですなあ」
「……またですか」
「普通、手柄は自分のものにしたがるもんですけど」
「……そんなことはありませんよ」
奏斗は苦笑した。
「皆さんが働いてくださった結果ですから」
ロイドはしばらく奏斗を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……そうですな」
*
しかし、問題はまだ終わっていなかった。
その日の夕方。
シエルが本部に戻ってきた。
「カナト。ちょっとまずいことになったよ」
「……何でしょう?」
「金獅子商会が、うちの新しい運送経路を潰そうとしてる」
奏斗は眉をひそめた。
「……どういうことですか?」
「東街道の倉庫に、傭兵を送り込むつもりらしい」
「……えっ?」
「今夜、襲撃があるかもしれない」
奏斗の顔から血の気が引いた。
せっかく整えた運送網。
ようやく戻ってきた取引先。
それらが、また暴力によって壊されようとしている。
「……レオナさんには?」
「もう伝えたよ」
「……そうですか」
奏斗は深く息を吐いた。
ここから先は、営業マンの仕事ではない。
少なくとも、自分一人で何とかできる問題ではなかった。
*
夜。
東街道の倉庫には、緊張した空気が漂っていた。
レオナとガルドが、それぞれ部下を率いて警備に当たっている。
倉庫の中には、翌朝出発する予定の荷物が積まれていた。
奏斗は、少し離れた場所で様子を見守っていた。
「……カナト」
レオナが声をかけた。
「はい?」
「お前は本部に戻れ」
「……でも」
「ここは危険だ。お前がいる必要はない」
奏斗は少し考えた。
確かに、自分がいても戦力にはならない。
むしろ、足手まといになる可能性が高い。
「……分かりました」
奏斗は素直に頷いた。
「皆さん、どうかお気をつけて」
レオナは小さく笑った。
「……ああ」
そのときだった。
倉庫の外から、怒声が響いた。
「黒梟の連中! 出てこい!」
奏斗は飛び上がった。
傭兵たちが来たのだ。
ガルドが拳を鳴らした。
「……ようやく来たか」
レオナが剣に手をかける。
奏斗は青ざめた。
まずい。このままでは、本当に戦いが始まってしまう。
「……あのー!」
奏斗は思わず声を上げた。
「ちょっと待ってくださーい!」
レオナが振り返った。
「カナト!?」
「……私、少しだけ話してみます!」
「馬鹿を言うな!」
「でも、まだ戦う必要があるかどうか分かりませんから!」
奏斗は震える足で、倉庫の入口へ向かった。
外には、十数人の傭兵が立っていた。
先頭にいるのは、金獅子商会の紋章をつけた男だった。
「……お前が黒梟の代表か?」
「い、いえ! 代表ではありません!」
奏斗は慌てて首を振った。
「小日向奏斗と申します。運送関係の担当者です」
「……何?」
「本日は、どのようなご用件でしょうか?」
男は一瞬、言葉を失った。
そして、怒鳴った。
「この倉庫を明け渡せ!」
「……理由を伺っても?」
「金獅子商会が使うことになった!」
「……契約書はありますか?」
「……は?」
「こちらは、灰蛇団との正式な賃貸契約に基づいて使用しております。もし権利関係に変更があったのであれば、書面で確認したいのですが」
男は黙った。
奏斗は続けた。
「もちろん、正当な権利があるのであれば、確認のうえ対応いたします。ただ、口頭だけでは判断できませんので……」
傭兵たちがざわめいた。
「……おい、隊長……」
「なんだ」
「こいつ、何言ってるんだ……?」
「……分からん」
奏斗は困った。
そんなに難しいことを言ったつもりはない。
ただ、契約書を見せてほしいと言っただけである。
そのとき、背後からロイドの声がした。
「いやあ、困りましたなあ」
振り返ると、ロイドがゆっくりと歩いてきた。
「契約書もなしに倉庫を明け渡せ言われましても、こちらとしては応じられまへんわ」
その笑顔は、いつもどおり穏やかだった。
しかし、目はまったく笑っていなかった。
「それに、今夜ここで騒ぎを起こしたら、明日の荷物が遅れます。そうなれば、取引先に損害が出ますなあ」
ロイドは傭兵たちを見渡した。
「その損害、どなたが補償してくれはるんです?」
傭兵の隊長が顔をしかめた。
「……知るか!」
「そうですか」
ロイドは笑みを深めた。
「ほな、金獅子商会さんに直接請求することになりますなあ」
奏斗は頷いた。
「はい。契約上の責任がある場合は、正式に確認する必要があります」
隊長の顔色が変わった。
金獅子商会の幹部から命じられたのは、倉庫を脅して明け渡させることだった。
しかし、契約書や損害賠償の話など、聞いていない。
しかも、背後には《赤刃》レオナと《鉄拳》ガルドが控えている。
ここで戦えば、ただでは済まない。
「……くそっ」
隊長は舌打ちした。
「今日は引くぞ!」
傭兵たちは、ぞろぞろと引き上げていった。
奏斗は、その背中を見送った。
そして、膝から崩れ落ちそうになった。
「……よかった」
怖かった。本当に怖かった。
しかし、何とか戦いを避けることができた。
その隣で、ロイドが楽しそうに笑っていた。
「いやあ、カナトはん。見事なもんですわ」
「……いえ、私は何も……」
「契約書一枚で、傭兵を追い返すとはなあ」
「……たまたまですよ……」
奏斗は苦笑した。
実際、ロイドやレオナたちがいなければ、どうなっていたか分からない。
自分一人の力ではない。
それだけは、はっきりしていた。
*
翌日。
黒梟商会の本部では、久しぶりに明るい報告が続いていた。
新しい運送経路の試験運用は、予定どおり始まった。
金獅子商会の圧力で離れた取引先も、少しずつ戻り始めている。
もちろん、問題がすべて解決したわけではない。
しかし、少なくとも、黒梟商会は生き残った。
「……よくやったな、カナト」
ヴォルフガングが満足げに頷いた。
「ありがとうございます」
「今回の件で、うちの運送網は以前より強くなった」
「……そうですね」
「それも、お前が皆を動かしたからだ」
奏斗は慌てて首を振った。
「いえ、私は皆さんにお願いしただけです!」
「それができる人間は、そう多くない」
ヴォルフガングは笑った。
「……カナト。お前には、近いうちに正式な話をしたい」
「……正式な話?」
「ああ。楽しみにしていろ」
奏斗は嫌な予感を覚えた。
非常に嫌な予感だった。
しかし、ヴォルフガングはそれ以上何も言わなかった。
ただ、意味深に笑っている。
奏斗は静かに目を閉じた。
どうか、面倒な話ではありませんように。
そう願った。
しかし、その願いが叶わないことを、彼はまだ知らなかった。
翌日、黒梟商会の本部では、盛大な宴会の準備が始まっていた。
そして、その中央には、なぜか奏斗の名前が書かれた大きな垂れ幕が掲げられていた。
そこには、こう書かれていた。
『黒梟商会・新幹部就任祝賀会』
「…………」
奏斗は、しばらくその文字を見つめていた。
そして、ゆっくりと振り返った。
「……あの、ニコさん」
「はい!」
「これ、誰の就任祝賀会でしょうか」
ニコは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん、カナトさんのです!」
「…………」
奏斗は静かに目を閉じた。
どうやら、自分の知らないところで、人生最大の人事異動が決まっていたらしい。
なお、本人はまだ、昇進の内示すら受けていなかった。




