第10話 悪の組織の幹部に昇進しました。辞表はどこに出せばいいですか?
小日向奏斗は、出世したくなかった。
正確に言えば、出世そのものが嫌いなわけではない。仕事を評価され、給料が上がり、できることが増える。それ自体は、むしろ喜ばしいことだと思っている。
問題は、出世した先に何が待っているかである。
前の会社では、課長になった先輩がいた。
入社八年目。営業成績は常に上位で、後輩の面倒見もよく、誰からも慕われていた人物だった。
その先輩は昇進して三か月後、会社を辞めた。
理由を尋ねると、こう答えた。
『給料は二割増えたけど、仕事が三倍になったんだ』
以来、奏斗は出世という言葉に慎重になった。
ましてや、異世界の犯罪組織である。
幹部に昇進した場合、何を任されるのか。
考えたくもなかった。
「カナトさーん! おめでとうございます!」
ところが、本人の意思とは無関係に、その日はやってきた。
黒梟商会本部、一階大広間。
天井からは黒いフクロウの旗が吊るされ、長机には肉料理や酒樽が並んでいる。壁際には武装した男たちがずらりと立ち、中央には巨大な垂れ幕が掲げられていた。
そこには、こう書かれている。
『黒梟商会・新幹部就任祝賀会』
そして、その下に小さく。
『カナト様』
「…………」
奏斗は垂れ幕を見上げた。
次に、隣で満面の笑みを浮かべているニコを見た。
「……ニコさん」
「はい!」
「これは、何でしょうか?」
「カナトさんの昇進祝いです!」
「……誰が昇進するんですか?」
「カナトさんです!」
「……私は聞いていないんですが」
「サプライズです!」
奏斗は静かに目を閉じた。
サプライズ。
ははん、なるほど。
異世界では、人事異動までサプライズで行われるらしい。
できれば、事前に相談してほしかった。
*
「いやあ、カナトはん。おめでとうさんです」
ロイド・ベルガーが、酒杯を片手に近づいてきた。
「……ロイドさん」
「ついに幹部ですか。いやあ、出世が早いですなあ」
「……あの、まだ正式に決まったわけでは……」
「もう決まってますで」
「…………」
奏斗は固まった。
「……どなたが決めたんでしょうか」
「そら、ボスですわ」
「……本人への確認は?」
「これからやと思います」
「順番が逆ですよね!」
ロイドは楽しそうに笑った。
「まあまあ。悪い話やありません。給料も上がりますし、権限も増えます」
「……責任も増えますよね……」
「そら、もちろん」
「……ですよね」
奏斗は深くため息をついた。
そのとき、背後から大きな声が響いた。
「カナト!」
振り返ると、ガルド・バルバロッサが両手に酒樽を抱えていた。
「おめでとう!」
「……あ、ありがとうございます」
「これでお前も幹部だな!」
「……まだ正式には……」
「よし! 今度、一緒に敵の拠点を潰しに行こうぜ!」
「行きません!」
奏斗は即答した。
ガルドは不思議そうに首を傾げた。
「あ? なんでだ?」
「私、そういう仕事はできません!」
「じゃあ、後ろで見てるだけでもいいぞ!」
「見たくもありません!」
ガルドは豪快に笑った。
「相変わらず面白え奴だな!」
奏斗は頭を抱えた。
この人と話していると、犯罪組織の幹部になることの恐ろしさを嫌でも実感する。
「……ガルドさん」
「なんだ?」
「ちなみに、幹部になると休日はどうなるんでしょうか」
「休日?」
「はい」
「仕事が終われば休めるぞ!」
「…………」
奏斗は静かに目を閉じた。
嫌な言葉だった。
あまりにも、聞き覚えのある言葉だった。
*
やがて、宴会が始まった。
大広間には黒梟商会の構成員たちが集まり、酒杯を掲げている。
奏斗は中央の席に座らされていた。
隣にはレオナ・ヴァイス。
反対側にはミレーユ・ロゼッタ。
正面には、首領ヴォルフガング・グレイヴが座っている。
「……カナト」
レオナが声をかけた。
「はい?」
「緊張しているのか」
「……はい」
「敵の前では、あれだけ堂々としているのにな」
「……あれは、仕事ですから」
「今も仕事だろう」
「……そうなんですけど」
奏斗は苦笑した。
レオナは少しだけ口元を緩めた。
「安心しろ。別に、今すぐ命を取られるわけではない」
「……その言い方、安心できません」
「そうか?」
「はい」
レオナは小さく笑った。
以前の彼女なら、奏斗の弱気な態度を見て眉をひそめていただろう。
しかし、今では少し違う。
この男が本当に臆病で、争い事を嫌っていることを、彼女は知っていた。
それでも必要な場面では、震えながら前に出る。
だからこそ、レオナは奏斗を認めていた。
「……カナト」
「はい?」
「お前が来てから、うちは随分と変わった」
「……そうでしょうか?」
「ああ。無駄な仕事が減った。怪我人も減った。帳簿も整理された」
レオナは酒杯を置いた。
「それに、最近は部下たちが前よりよく笑う」
奏斗は少し驚いた。
「……そうなんですか?」
「気づいていなかったのか?」
「……あまり……」
レオナは呆れたように息を吐いた。
「本当に、お前は自分のことに鈍いな」
奏斗は困ったように笑った。
そのとき、ミレーユが口を開いた。
「私も、カナトさんには感謝しています」
「……ミレーユさん」
「おかげで、ようやく帳簿をまともに管理できるようになりました」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「以前は、毎月末になると徹夜が当たり前でしたから」
「……それは大変でしたね」
「ええ。でも、今は違います」
ミレーユは微笑んだ。
「少なくとも、誰が何にお金を使ったのか分かるようになりました」
「……よかったです」
「ただし、ガルドさんの経費だけは相変わらずですけど」
「おい! 聞こえてるぞ!」
遠くからガルドの声が飛んできた。
ミレーユは振り返りもせずに答えた。
「聞こえるように言いました!」
大広間に笑い声が広がった。
奏斗も、思わず笑ってしまった。
こんなふうに、仕事仲間と笑い合うことができる。
それだけで、少し不思議な気持ちだった。
*
宴会が盛り上がってきた頃。
ヴォルフガングが立ち上がった。
大広間が静まり返る。
「……皆、聞け」
低く、よく通る声だった。
「今日は、新しい幹部を迎える」
構成員たちが一斉に奏斗を見た。
奏斗は思わず背筋を伸ばした。
逃げたい。非常に逃げたい。
「小日向奏斗」
「……は、はい!」
反射的に立ち上がった。
ヴォルフガングは、ゆっくりと笑った。
「お前がここに来てから、まだ二週間ほどだ」
「……はい」
「だが、その短い間に、お前は多くのことを成し遂げた」
ヴォルフガングは指を折り始めた。
「最初は、失われた荷物を見つけた」
奏斗は思い出した。
異世界に来たばかりの日。
ガルドに捕まり、命の危険を感じながら、荷物の行方を調べた。
あれから、まだ二週間しか経っていないのか……。
「次に、借金を抱えた商人を救い、商会に新しい利益をもたらした」
ベルント・ハーゼの顔が浮かんだ。
あの織物商は、その後どうしているだろう。
試験的に出荷した二十反の布は、まだ販売結果が確定していないはずだった。
うまく売れていればいいのだが……。
「そして、組織の働き方を変えた。無駄な仕事を減らし、人を休ませ、金の流れを整理した」
奏斗は少しだけ胸を張った。
それは、確かに自分がやったことだった。
もちろん、ミレーユやニコ、ガルドたちの協力があってこそだが……。
「さらに、灰蛇団との抗争を防ぎ、王国騎士団の調査にも対応し、金獅子商会の圧力を退けた」
大広間にどよめきが広がった。
奏斗は慌てて首を振った。
「い、いえ! 私一人の力ではありません!」
ヴォルフガングは頷いた。
「そうだ。お前一人の力ではない」
奏斗は少し安心した。
しかし、次の言葉で再び固まった。
「だからこそ、お前には皆を率いる資格がある」
「…………」
ヴォルフガングは、黒いフクロウの紋章が刻まれた銀の徽章を取り出した。
「本日をもって、カナトを黒梟商会の最高幹部の一人に任命する」
大広間が歓声に包まれた。
「おおおおお!」
「カナト様!」
「新幹部万歳!」
ガルドが酒樽を掲げ、ニコが飛び跳ね、ロイドが拍手する。
ミレーユも嬉しそうに微笑んでいた。
レオナは静かに頷いている。
奏斗だけが、笑顔のまま固まっていた。
「……あの、グレイヴさん」
「なんだ?」
「一つ、確認してもよろしいでしょうか……?」
「言ってみろ」
「……最高幹部というのは、具体的にどのような役職なのでしょうか?」
ヴォルフガングは少し考えた。
「商会全体の運営を見てもらう」
「……全体?」
「ああ。運送、倉庫、金融、人事、経費管理。必要に応じて、各部門を調整してくれ」
「…………」
奏斗は静かに目を閉じた。
完全に管理職だった。しかも、かなり上のほうの。
「……ちなみに、給与は?」
「今の倍にしよう」
「……倍?」
「ああ。月に銀貨四十枚だ」
奏斗は目を見開いた。
月給が倍。
それは、確かに魅力的だった。
前の会社では、四年間働いても、ほとんど給料が上がらなかった。
それが、異世界では二週間で倍になる。
なんということだろう。
しかし、奏斗は慎重だった。
「……勤務時間は?」
「仕事が終わるまでだ」
「…………」
来た。
あの言葉である。
奏斗は深く息を吸った。
「……グレイヴさん」
「なんだ?」
「その条件では、お引き受けできません」
大広間が静まり返った。
酒杯を持ったまま、誰も動かない。
ガルドが口を開いた。
「……カナト?」
レオナも目を見開いた。
ロイドの笑みが、わずかに深くなる。
ヴォルフガングは、ゆっくりと奏斗を見つめた。
「……理由を聞こう」
奏斗は緊張しながら答えた。
「……仕事が終わるまで、という条件では、いつまでも仕事が終わらない可能性があります」
「……ほう」
「それに、管理職だからといって、無制限に働いていいわけではありません」
奏斗は続けた。
「私は、働きやすい組織を作りたいと思っています。でも、そのために自分が休めなくなったら、意味がないと思うんです」
ヴォルフガングは黙っていた。
奏斗は少しだけ声を強めた。
「ですから、休日と勤務時間について、明確に決めていただきたいです」
大広間に、再び沈黙が落ちた。
奏斗は思った。
終わった。完全に終わった。
犯罪組織の首領に向かって、昇進条件を突き返してしまった。
今度こそ、命が危ないかもしれない。
しかし、ヴォルフガングは突然笑い始めた。
「……ははっ!」
そして、豪快に笑った。
「ははははは!」
大広間に笑い声が響く。
「……なるほどな!」
ヴォルフガングは満足げに頷いた。
「確かに、その通りだ!」
「……え?」
「お前が作った規則を、お前自身が守れないようでは意味がない」
奏斗は目を瞬いた。
「……では……」
「ああ。休日は週に一日。勤務時間も、各部門と調整して決めよう」
「……本当ですか?」
「もちろんだ。必要なら、補佐もつける」
奏斗は、ほっと息を吐いた。
よかった。
少なくとも、前の会社のようにはならずに済みそうだ。
「……ありがとうございます……」
奏斗は深々と頭を下げた。
ヴォルフガングは笑った。
「では、改めて。引き受けてくれるな?」
奏斗は少し考えた。
犯罪組織の幹部。
その肩書きには、やはり抵抗がある。
しかし、ここには自分を必要としてくれる人々がいる。
そして、自分の提案を聞いてくれる上司がいる。
それは、前の会社では得られなかったものだった。
「……はい」
奏斗は頷いた。
「微力ながら、頑張らせていただきます」
大広間に、再び歓声が響いた。
*
宴会が終わったのは、夜も更けた頃だった。
奏斗は一人、事務室に戻っていた。
机の上には、今日から使うことになった新しい書類が置かれている。
《黒梟商会・最高幹部| カナト》
そう書かれた名札。
その隣には、銀の徽章。
奏斗はしばらく、それらを見つめていた。
異世界に来て、二週間。
最初は、ただ生き延びることだけを考えていた。
それが今では、犯罪組織の最高幹部である。
人生とは、本当に分からない。
「……カナトさん」
扉が開き、ニコが顔を出した。
「……ニコさん」
「まだ起きてたんですか?」
「ええ。少し考え事をしていまして」
ニコは部屋に入ってきた。
そして、机の上の徽章を見て、嬉しそうに笑った。
「……かっこいいですね!」
「……そうでしょうか?」
「はい! 俺も、いつか幹部になりたいです!」
奏斗は微笑んだ。
「……そのためには、まず仕事を覚えないといけませんね」
「はい!」
「それから、文字の勉強も続けましょう」
「はい!」
「あと、休むことも大事ですよ」
「……はい!」
ニコは元気よく頷いた。
奏斗は、そんな少年を見ながら思った。
この組織には、まだまだ改善すべきことがある。
無駄な仕事も、危険な仕事も、理不尽な慣習も。
それに、そもそも犯罪組織であるという根本的な問題も。
しかし、少しずつなら変えられるかもしれない。
少なくとも、ここで働く人々の暮らしを、少しは良くできるかもしれない。
「……さて」
奏斗は立ち上がった。
「今日はもう帰りましょうか」
「はい!」
二人は事務室を出た。
廊下の窓からは、ベルグラードの夜景が見えていた。
遠くには河港の灯り。
街道には、荷馬車の明かりが点々と続いている。
そのどこかで、黒梟商会の人々が働いている。
奏斗は、少しだけ誇らしい気持ちになった。
もちろん、犯罪組織の幹部になったことを誇っていいのかどうかは、また別の問題だが。
*
翌朝。
奏斗が出勤すると、机の上には山のような書類が積まれていた。
「…………」
奏斗は固まった。
昨日の夜には、何もなかったはずである。
それが、たった一晩でこの有様だった。
「……あの、ミレーユさん」
「はい?」
「この書類は……?」
「新幹部への決裁依頼です」
「……決裁?」
「はい。各部門から届いています」
奏斗は恐る恐る、一番上の紙を手に取った。
『倉庫修繕費の承認申請』
次の紙。
『新規雇用者の配置について』
さらに次。
『灰蛇団との共同運送契約・追加協議』
その下。
『ガルド部門・備品購入申請』
奏斗は嫌な予感を覚えた。
最後の書類を開く。
そこには、こう書かれていた。
『訓練用椅子 二十脚』
「……ガルドさあん!!」
奏斗の叫び声が、事務室に響いた。
遠くから、豪快な笑い声が返ってくる。
「おう! 新幹部! 頼んだぜ!」
「椅子は訓練用の武器ではありません!」
ミレーユがくすくす笑った。
ニコも、隣で楽しそうに笑っている。
奏斗は深くため息をついた。
どうやら、最高幹部になっても、仕事は減らないらしい。
それどころか、増えている。
しかし、彼はすぐに気を取り直した。
「……まずは、優先順位をつけましょう」
奏斗は書類を整理し始めた。
緊急のもの。
後回しにできるもの。
担当者に戻すべきもの。
そして、そもそも申請する必要のないもの。
そうしているうちに、ふと気づいた。
机の端に、一枚の紙が置かれている。
『退職届』
奏斗は、それをじっと見つめた。
いつの間にか、自分で用意していたものだった。
異世界に来てから、何度も書こうと思った。
怖い目に遭うたびに。
危険な仕事を任されるたびに。
幹部への昇進を告げられたときにも。
しかし、結局、一度も提出していない。
「……まあ」
奏斗は小さく笑った。
「もう少しだけ、頑張ってみましょうか」
そして、退職届を引き出しにしまった。
その瞬間、扉が開いた。
「カナト!」
ヴォルフガングが現れた。
「グレイヴさん。おはようございます」
「おう! 早速だが、新しい仕事だ!」
「……はい?」
「隣国の商会から、大きな取引の話が来ている!」
奏斗は笑顔のまま固まった。
「……隣国?」
「ああ。かなり儲かる話らしい」
「……そうですか」
「ただし、少々厄介な条件があってな」
「……厄介な条件?」
ヴォルフガングは豪快に笑った。
「向こうの商会は、どうやら暗殺者を雇っているらしい!」
「…………」
奏斗は静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと引き出しを開けた。
そこには、先ほどしまったばかりの退職届がある。
「……あの、グレイヴさん」
「なんだ?」
「辞表って、どこに出せばいいんでしょうか?」
ヴォルフガングは少し考えた。
そして、笑った。
「俺に出せばいいぞ!」
「……そうですか」
「ただし、辞める理由は聞くからな!」
「…………」
奏斗は、退職届をそっと引き出しに戻した。
理由なら、山ほどある。
ありすぎて、どこから説明すればいいのか分からない。
だから、とりあえず今日も働くことにした。
異世界の犯罪組織で。最高幹部として。
月給銀貨四十枚、週休一日。
なお、残業代については、現在も交渉中である。
こうして、小日向奏斗の異世界労働生活は、今日も続いていく。
彼が知らないのは、ただ一つ。
自分が働きやすくし、効率化し、利益を増やしているその組織が、今やベルグラードで最も勢力を伸ばしつつある犯罪組織だということだった。
善意は、必ずしも善い結果だけを生むとは限らない。
それでも奏斗は、今日も笑顔で頭を下げる。
「本日は、どうぞよろしくお願いいたします!」
その笑顔を見た裏社会の人々は、今日も震え上がるのだった。
完




