第7話 ボス、経費精算には領収書が必要です
会社の金と、自分の金は違う。
これは社会人として、ごく基本的な常識である。
会社の金で食事をするなら、業務上の必要性を説明しなければならない。備品を購入したなら、購入した品目と金額を記録しなければならない。
もちろん、領収書も必要だ。
ところが、異世界の犯罪組織には、その常識が存在しなかった。
「……グレイヴさん」
「なんだ、カナト」
「この『情報収集費・金貨八枚』というのは、何でしょうか」
「情報収集に使った金だろう」
「それは分かります。具体的な使途を伺いたいんです」
「情報収集だ」
「ですから、その中身を……」
「情報を集めたんだろう?」
「…………」
小日向奏斗は、静かに目を閉じた。
話が通じない。
前の会社でも、経費精算に無頓着な上司はいた。
しかし、ここまで堂々と用途を説明しない人間はいなかった。
いや、正確には説明しているつもりなのだろう。
それが余計に厄介だった。
「……ちなみに、領収書はありますか?」
「領収書?」
ヴォルフガング・グレイヴは眉をひそめた。
「そんなもの、何に使う?」
「経費の確認です!」
黒梟商会の経営改善は、今日も前途多難だった。
*
事の発端は、二日前に遡る。
黒梟商会の金庫番、ミレーユ・ロゼッタが、三か月分の帳簿を机に積み上げたのである。
「カナトさん。助けてください」
「……どうされました?」
「お金が合いません」
「……はい?」
「帳簿上の残高と、実際の金庫の残高が違うんです」
奏斗は嫌な予感を覚えた。
「……どのくらいですか?」
「金貨百二十七枚です」
「…………」
金貨百二十七枚。
銀貨二十枚が月給の奏斗には、想像するだけでも恐ろしい金額だった。
「……それは、かなり大きな差額ですね」
「はい。ですから、困っているんです」
ミレーユは涼しい顔で答えた。
しかし、その目の下には薄い隈ができている。
どうやら、相当な時間をかけて調べていたらしい。
「……ちなみに、いつから合わなくなったんですか?」
「三か月前からです」
「それ以前は?」
「多少の誤差はありましたけど、ここまで大きくはありませんでした」
「なるほど……」
奏斗は帳簿をめくった。
運送費、倉庫管理費、警備費、情報収集費、接待費。
項目は一応、整理されている。
しかし、支出の根拠となる書類がほとんど存在しなかった。
「……ミレーユさん」
「はい?」
「これ、経費を申請した人の名前が書いてありませんね」
「……はい」
「支払先も不明です」
「……はい」
「領収書もありません」
「……はい」
ミレーユは机に突っ伏した。
「だから困ってるんですよ!」
奏斗は心から同情した。
この状態で帳簿を管理しろというのは、あまりにも無理がある。
「……分かりました。まずは、支出を一件ずつ確認しましょう」
「……本当ですか?」
「はい。時間はかかりますけど、原因を調べるにはそれしかありません」
ミレーユは顔を上げた。
その瞳が、少しだけ潤んでいる。
「……カナトさん」
「はい?」
「あなたが来てくれて、本当によかったです……」
奏斗は苦笑した。
前の会社では、こんな言葉をかけられたことがなかった。
ただし、仕事の内容は前の会社より恐ろしい。
なにしろ、相手は犯罪組織である。
経費の不正が見つかった場合、始末書では済まない可能性が高かった。
*
監査初日。
奏斗とミレーユは、幹部たちを一人ずつ呼び出すことにした。
最初に現れたのは、ガルドだった。
「おう! 何の用だ!」
「ガルドさん。先月の警備費について、確認したいことがありまして」
「おう!」
「この『備品修繕費・銀貨四十枚』というのは?」
「椅子だ!」
「……椅子?」
「殴り合いで壊れた!」
「…………」
奏斗は帳簿を見つめた。
「……何脚ですか?」
「八脚だ!」
「……どうしてそんなに?」
「一人につき一脚だ!」
「そういう問題ではありません!」
ガルドは不思議そうに首を傾げた。
「……じゃあ、何脚までならいいんだ?」
「そもそも椅子を武器にしないでください!」
ミレーユが机を叩いた。
「だから何度も言ってるでしょう! 椅子は座るためのものです!」
「分かってるよ!」
「分かってないから壊すんでしょうが!」
二人の言い争いを、奏斗はしばらく見守っていた。
少なくとも、椅子の修繕費は実際に発生した支出らしい。
問題は、その使い方だった。
次に現れたのは、ロイド・ベルガーだった。
「いやあ、経費の確認ですか。ご苦労さんですなあ」
ロイドはいつものように、にこにこと笑っていた。
「ロイドさん。こちらの接待費についてなんですが……」
「はいな」
「『酒場利用・金貨十二枚』というのは?」
「商談ですわ」
「……商談?」
「ええ。取引先の方々と、親睦を深めましてな」
「なるほど。では、参加者と目的を教えていただけますか?」
ロイドは少し考えた。
「……覚えてまへんなあ」
「…………」
「まあ、ええ商談やったことは確かですわ」
「……領収書は?」
「そんな野暮なもん、酒場でいちいち貰いまへんがな」
奏斗は深く息を吐いた。
「……ロイドさん」
「はいな」
「今後は、必ず領収書をもらってください」
「いやあ、カナトはん。裏の商売には、表に出せへん金もありますさかい」
「それは理解しています。ただ、内部で支出を確認できる記録は必要です」
ロイドの笑みが、わずかに深くなった。
「……ほう?」
「何に使ったのか分からなければ、必要な経費なのか判断できません。もちろん、機密性の高い取引については、閲覧できる人を制限するなどの方法もあります」
「……なるほどなあ」
ロイドはしばらく奏斗を見つめた。
そして、くつくつと笑い始めた。
「いやあ、カナトはん。あんた、ほんま容赦ないですなあ」
「……えっ?」
「ワシらの金の流れを、全部把握しよういうわけですか」
「いえ、そういうつもりでは……」
「分かってます、分かってます」
ロイドは立ち上がった。
「これからは、ちゃんと記録を残しますわ」
「ありがとうございます」
「ただし、見んほうがええ記録もありますで」
「……できれば、そういう仕事は減らしていただきたいんですが」
ロイドは笑って答えなかった。
奏斗は、その笑顔が少し怖かった。
*
午後。
最後に呼び出されたのは、シエル・ノクスだった。
「やあ、カナト。僕に何か用?」
少年は窓から入ってきた。
「……シエルさん」
「何?」
「普通に扉から入ってきてください」
「そっちのほうが遠回りだから」
「はあ……そうですか」
奏斗は諦めた。
この組織には、常識を教えるところから始めなければならない人間が多すぎる。
「それで、情報収集費についてなんですが……」
「うん」
「先月、金貨八枚を使っていますよね?」
「そうだね」
「何に使ったんでしょうか」
「情報収集」
「……具体的には?」
「秘密」
「…………」
奏斗は静かに目を閉じた。
予想どおりだった。
「……シエルさん」
「何?」
「機密情報を扱う仕事だということは理解しています。ただ、支出の記録まで残さないと、経費として確認できません」
「でも、誰に金を払ったか書いたら、情報源がばれちゃうよ?」
「ですから、情報源の名前を伏せたうえで、用途と金額だけを記録する方法はどうでしょう?」
「……へえ」
シエルは目を細めた。
「例えば?」
「『情報提供料・金貨二枚』『潜入調査費・銀貨十五枚』といった形です。詳細はシエルさんと、必要な権限を持つ方だけが確認できるようにします」
シエルはしばらく考え込んだ。
「……なるほどね」
「どうでしょうか」
「悪くないと思うよ」
奏斗はほっとした。
ようやく、まともに話が通じた。
しかし、シエルはすぐに笑った。
「でもさ、カナト」
「はい?」
「もし誰かが嘘の経費を申請したら、どうするの?」
奏斗は少し考えた。
「……その場合は、別の記録と照合する必要がありますね」
「別の記録?」
「例えば、運送費なら荷馬車の運行記録。倉庫費なら入出庫記録。人件費なら勤務記録です」
シエルの目が細くなった。
「……へえ」
「一つの書類だけでは分からなくても、複数の記録を比較すれば、不自然な点が見つかることがありますから」
奏斗は微笑んだ。
「まあ、前の会社でも、経費の確認はそうやっていましたので」
シエルはしばらく黙っていた。
そして、にやりと笑った。
「……カナト。ちょっと面白いものを見せてあげようか」
*
翌日。
奏斗とミレーユは、シエルが持ってきた運送記録を調べていた。
「……これ、おかしくありませんか?」
奏斗が指さしたのは、先月の運送費だった。
東街道を通る荷馬車の運行記録。
帳簿上では、毎週十台分の運送費が計上されている。
しかし、実際の運行記録には、六台しか記載されていなかった。
「……四台分、多いですね」
ミレーユが眉をひそめた。
「はい。それも、一度だけではありません」
奏斗は別の週の記録を開いた。
同じように、四台分の差がある。
その次の週も。さらに、その次の週も。
「……つまり」
ミレーユの声が低くなった。
「実際には走っていない荷馬車の費用を、誰かが請求している……?」
「その可能性があります」
奏斗は慎重に答えた。
「ただし、記録漏れの可能性もあります。まずは担当者に確認しましょう」
シエルが笑った。
「もう調べてあるよ」
「……えっ?」
「その荷馬車、存在しないんだ」
奏斗は固まった。
「……存在しない?」
「うん。登録番号も偽物。御者の名前も架空。支払先の運送業者も、実際には営業していない」
ミレーユの顔色が変わった。
「……ということは」
「誰かが、架空の運送費を計上してるってことだね」
奏斗は深く息を吐いた。
嫌な予感がした。非常に嫌な予感がした。
これは、単なる経費精算の問題ではない。
組織内部の横領事件である。
*
その日の夕方。
黒梟商会の会議室には、幹部たちが集まっていた。
長机の中央には、帳簿と運送記録が並べられている。
「……つまり、誰かが商会の金を抜いていたということか」
ヴォルフガングが低い声で尋ねた。
「はい。少なくとも、帳簿上の支出と実際の運行記録が一致していません」
奏斗は慎重に答えた。
「現時点では、架空請求の可能性が高いと考えています」
レオナが腕を組んだ。
「担当者は誰だ?」
ミレーユが書類を確認した。
「運送部門の管理を任されている、バルド・クレインです」
ガルドが眉をひそめた。
「……あいつか」
「知っているんですか?」
「ああ。三年前からいる古株だ。運送関係の仕事を任せてる」
ヴォルフガングの表情が険しくなった。
「……呼べ」
数分後。会議室に、四十代の男が連れてこられた。
小太りで、口ひげを生やした男だった。
「ボ、ボス……何か御用でしょうか」
「バルド。運送費について聞きたいことがある」
「運送費……?」
奏斗は帳簿を差し出した。
「こちらの記録ですが、実際の運行台数と請求台数が一致していません。理由をご説明いただけますか?」
バルドは紙に目を落とした。
そして、わずかに顔色を変えた。
「……ああ、それは、臨時の運送がありまして」
「臨時の運送?」
「ええ。記録に残っていないだけです」
奏斗は頷いた。
「なるほど。では、その臨時運送の依頼主と、運んだ荷物を教えていただけますか?」
「……それは……」
「支払先の運送業者についても、確認したいんです」
バルドは黙り込んだ。
シエルが横から口を挟んだ。
「その業者、存在しないんだけど?」
「……なっ!」
バルドの顔が青ざめた。
ヴォルフガングがゆっくりと立ち上がった。
「……バルド」
低い声だった。
それだけで、室内の空気が変わった。
「俺の金を盗んだのか?」
「ち、違います! 何かの間違いです!」
バルドは必死に首を振った。
しかし、奏斗は慌てて口を挟んだ。
「あの、グレイヴさん!」
「なんだ」
「まずは、事実関係を確認しましょう。まだ本人の説明をすべて聞いていませんので……」
ヴォルフガングは奏斗を見た。
そして、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……いいだろう。続けろ」
奏斗は小さく息を吐いた。
危なかった。今にも誰かが殴られそうだった。
「バルドさん。こちらとしては、帳簿の差額について正確に把握したいだけなんです」
「……は、はい」
「もし記録漏れであれば、修正すれば済みます。ただ、実際に支出していない費用を請求していたのであれば、返還していただく必要があります」
バルドは黙っていた。
奏斗は続けた。
「そのためにも、事実を教えていただけませんか」
長い沈黙が流れた。
やがて、バルドは肩を落とした。
「……申し訳、ありません」
ミレーユが息を呑んだ。
「……私が、やりました」
バルドは震える声で告白した。
「最初は、少しだけのつもりだったんです。帳簿の確認が甘いから、誰にも気づかれないと思って……」
奏斗は黙って聞いていた。
バルドは、架空の運送費を計上し、商会の金を自分の懐に入れていた。
それを三か月間、繰り返していたのだという。
ヴォルフガングは目を閉じた。
「……そうか」
短い返事だった。
しかし、その声には怒りが滲んでいた。
「バルド。お前は三年間、俺の下で働いたな」
「……はい」
「その間、俺はお前を信用していた」
「……申し訳ありません」
「信用を裏切った代償は、分かっているな」
バルドは震え上がった。
奏斗も、思わず背筋を伸ばした。
まずい。また暴力沙汰になる。
そう思った瞬間、ヴォルフガングは静かに告げた。
「役職を解く。盗んだ金は、すべて返せ」
「……は、はい!」
「返還の方法はミレーユと相談しろ。逃げるなよ」
「……はい!」
バルドは何度も頭を下げた。
そして、護衛に連れられて部屋を出ていった。
奏斗は、ようやく息を吐いた。
少なくとも、血を見ることはなかった。
それだけで十分だった。
*
会議が終わったあと。
奏斗はミレーユと一緒に、事務室で帳簿を整理していた。
「……カナトさん」
「はい?」
「本当に、ありがとうございました」
「いえ、私は少し確認しただけですから……」
「その少しが、今まで誰にもできなかったんです」
ミレーユは微笑んだ。
「これで、ようやく帳簿をまともにできます」
「そうですね。今後は、支出の申請方法も統一しましょう」
「はい。領収書の提出も義務化します」
「ええ。できれば、承認者も決めて……」
二人はしばらく、今後の経費管理について話し合った。
奏斗は、少しだけ安心していた。
横領事件という大きな問題は起きたが、少なくとも組織の仕組みを改善するきっかけにはなった。
これからは、同じような不正を防げるかもしれない。
そのとき、事務室の扉が開いた。
「カナト」
ヴォルフガングだった。
「グレイヴさん。どうされました?」
「お前に話がある」
「……はい?」
首領は腕を組んだ。
「今回の件で、よく分かった。うちには金の流れを把握できる人間が必要だ」
「……そうですね」
「ミレーユ一人に任せきりだったのも、問題だった」
「ええ。負担が大きすぎますから」
「だから、お前にも任せたい」
「……はい?」
「今後は、商会全体の経費管理を見てくれ」
奏斗は固まった。
「……あの、グレイヴさん」
「なんだ?」
「私、経理の専門家ではないんですが……」
「分かっている」
「……では、何故?」
「お前は、分からないことを分からないと言える。それに、必要な人間に話を聞ける」
ヴォルフガングは静かに答えた。
「それで十分だ。細かい数字はミレーユに任せればいい」
奏斗は言葉を失った。
思っていたより、ずっとまともな判断だった。
しかし、それはそれとして。
「……ちなみに、業務が増える場合、給与の見直しは……」
「もちろん考える」
「……本当ですか?」
「ああ。仕事が増えるなら、報酬も増やす。当然だろう」
奏斗は目を見開いた。
当然。また、その言葉である。
前の会社では、仕事が増えても給料は変わらなかった。
むしろ、仕事ができる人間ほど損をしていた。
それが、ここでは違う。犯罪組織なのに。
「……ありがとうございます」
奏斗は深々と頭を下げた。
ヴォルフガングは満足げに頷いた。
「期待しているぞ、カナト」
そして、部屋を出ていった。
奏斗はしばらく、その背中を見送っていた。
やがて、ミレーユが小さく笑った。
「……カナトさん」
「はい?」
「なんだか、出世しそうですね」
「……やめてください」
奏斗は即座に答えた。
「私は、普通に働いて、普通に休めれば、それでいいんです」
「でも、ボスはそう思っていないみたいですよ」
「……困ります」
奏斗は机に突っ伏した。
異世界に来て、まだ十日ほど。
気づけば、犯罪組織の経営改善を任され、今度は経費管理まで担当することになっていた。
前の会社では、四年間働いても平社員だった。
それなのに、ここではわずか十日で、幹部候補のような扱いを受け始めている。
どう考えても、おかしい。
しかしもっとおかしいのは、前の会社よりも今のほうが働きがいを感じている自分だった。
奏斗は小さくため息をついた。
「……あの、ミレーユさん」
「はい?」
「ちなみに、管理職になると残業代が出なくなる、なんてことは……」
ミレーユは首を傾げた。
「管理職?」
「……いえ、何でもありません」
奏斗は静かに目を閉じた。
どうやら、異世界の労働環境については、まだまだ確認すべきことがありそうだった。
そして翌朝。
黒梟商会の本部に、王国騎士団の使者が現れた。
黒いフクロウの紋章を見上げた騎士は、厳しい表情で告げた。
「王国騎士団より通達する。黒梟商会の運送事業について、正式な調査を行う」
こうして奏斗は、異世界で初めて、国家権力と向き合うことになった。
なお、本人はその時点で、まだ自分の雇用契約書を正式に受け取っていなかった。




