第34話 パーティー
その絶望を破ったのは、アッシュだった。
「——おい、ゴードン」
地を這うような、腹に響いてくる、そんな声だった。
アッシュは、膝をついたままのゴードンの前へと歩み寄った。
そして、その太い肩を上からぐいと掴んだ。
「まだだ。……まだ、終わってねえ」
この三日間、どんな絶望の淵でも軽口を絶やさなかったあの声に、いつもの飄々とした響きはなかった。
「……アッシュ」
ゴードンが力なく顔を上げる。
「見ただろう。……この陣も、棺も。ここは、封印の、最奥だ。出口なんて、どこにも——」
その声は何もかもを諦めてしまった者の声だった。
しかし……
「そんなことは、聞いてねえ」
アッシュがその言葉を強く否定した。
「おいらが聞いてるのは、あんたが、まだ、おいらたちと一緒に、ここから出たいか、ってことだ」
その声にはひりつくような必死さがあった。
自分はその横顔を見て、思い出していた。
二日目、地図がいくつもの場所を示し、どの印に向かうかを話し合っていた、あの時のことだ。
二手に分かれようという話が出たあの一瞬、この男がたった一度笑うことを忘れていた。
「別々に動くのは、なしだ。……ばらばらになって、それぞれ勝手に動く。それは最悪、二度と合流できない可能性にもなる。はぐれるとか、そういう危険をとるのは、パーティーじゃない」——と。
あのとき垣間見えた名状しがたい翳り。
それが今、はっきりとこの叱咤に滲んでいた。
アッシュはきっと知っているのだ。
バラバラになって崩れていったパーティーのことを。
だからこそ——このパーティーだけは絶対に壊させない、そう強く思っているんだ。
「おいらは、な」
アッシュが、絞り出すように続けた。
「一人ずつ、勝手に諦めていくのだけは、見たくねえんだ。……ゴードン。あんたが折れたら、次はヴェラだ。その次はイングリッドだ。そうやって、一人、また一人と、心が欠けていく。……おいらは、それを、知ってる」
「……」
「だから、頼む。……立ってくれ。まだ、五人、揃ってるんだ。……揃ってるうちは、まだ、パーティー。このパーティーだったら、なんとかできるはずだ。諦めるには早いだろ」
ゴードンはしばらく何も言わなかった。
その太い手がゆっくりと握りしめられていく。
膝をついた地面の冷たさを噛みしめるように。
「……そう、だな」
やがてゴードンが掠れた声で言った。
「……すまん。おれとしたことが……いちばん年上が、いちばんに折れちまうとはな」
その声に、わずかにいつもの落ち着きが戻っていた。
ゴードンはアッシュの手を借りてそっと立ち上がった。
その目には、まだ確かな希望の色はない。
だが——全てを諦め切ってしまった者の目では、もうなかった。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
そのわずかな沈黙の隙間に、ひとつの声が響いた。
「……ねえ」
イングリッドだった。
彼女は、床一面に広がるあの巨大な陣を、じっと見つめていた。
白い光を宿し、いくつもの環と記号が複雑に絡み合った、召喚の陣を。
「あたい、さ。……ずっと、引っかかってたんだ。この、床の陣」
「……え、何が気になるの? イングリッド」
ヴェラがそう尋ねる。
「これに、似たものを、どこかで見た気がして」
イングリッドは眉根を寄せ、記憶の糸を手繰るように瞼を閉じ数秒、ゆっくりと言葉を継いだ。
「……そう、あれだ、あれ。最初の部屋だ。あたいたちが、いちばん最初に、飛ばされた、あの部屋。……床に、うっすら、円い溝が、刻まれてたろ。あれ……あれも、こういう、陣、だったんじゃないのか?」
その一言が、冷え切ったこの空間に、小さな、けれど確かな熱を灯した。
「……最初の部屋」
そう言われて、皆が思い出そうとしていた。
三日前、自分たちが目を覚ました、あの見知らぬ天井の下。
そこの床にあった円い溝のことを。
「……そうか」
ヴェラが思わず声を漏らした。
「あの円い溝も……陣、だったのかもしれない。……もし、あれが、この召喚陣と、対になるものだとしたら——」
ヴェラのその言葉に、何か自分の中で弾けるものがあった。
あの床の溝は、自分も確かに鑑定していた。
そして、それを、ただ「石の彫り」としか鑑定できなかった。
だが、今なら。
召喚の陣をこの目で見た、今の自分になら。
その先を言いかけ、自分は口をつぐんだ。
まだ何も分からない。
ただの思いつきかもしれない。
だが——今の自分たちに残された手がかりは、きっとそれしかない。
自分はあらためてイングリッドを見た。
魔法使いであるヴェラや鑑定士である自分でも見過ごしていた手がかりを、たった一つの記憶からたぐり寄せてみせたリーダー。
「……よく、気づいたな。イングリッド」
自分がそう言うと、彼女はばつが悪そうに鼻の頭を掻いた。
「学のない、あたいの、ただの勘違いかもしれないよ」
「いや」
自分ははっきりと首を振った。
「勘じゃない。……ちゃんとした、洞察だ。……鑑定士の自分が、見落としてたことだ」
「そうだよ。魔法使いのウチも、見落としていた」
自分とヴェラの言葉に、イングリッドが少しだけ目を見開いた。
そして——照れ隠しのように、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
だがその口元がかすかに緩んでいた。
「……決まりだな」
ゴードンが力強い声で言った。
もうそこにさっきまでの気力の抜けた響きはなかった。
「戻るぞ。……最初の部屋へ。おれたちが、ここへ落ちてきた、あの場所へ」
「うん……!」
ヴェラが大きくうなずいた。
「決まりだ」
アッシュがにっと笑う。
いつもの飄々とした笑みが、ようやくその顔に戻っていた。
「さぁ、地図を頼りに、一直線で戻るぞ」
だが——猶予はなかった。
食料はとうに底をつきかけている。
時間も、気力も、体力も、もうほとんど残されていない。
のんびりと引き返している暇などどこにもなかった。
とはいえ、ここで焦って走り出し、体力を使い果たして倒れてしまっては元も子もない。
だからこそ、無駄に焦ることはしない、無駄な体力は使わない、そう心に固く誓い、自分たちは歩き出した。
この聖女の墓所を背に。
白い光が遠ざかり、あたりがじわりと薄暗さに沈んでいく。
ヴェラの灯りだけを頼りに、長い長い石段を今度は一歩ずつ確実に上っていく。
振り返っている暇など、どこにもなかった。
どれほど上っただろう。
やがて、見覚えのある青い光が行く手に滲んだ。
せり出したままの石碑と、開かれたままの門を抜けて、自分たちはあの広間へと戻ってきた。
三つの石台の上には、供物がそのまま残されていた。
だが、それを顧みている暇はない。
広間を横切り、薄暗い通路へと飛び込む。
「こっち……! この道を、まっすぐ!」
アッシュが地図に従って先導する。
その後ろを自分たちは確実に追いかけていく。
息が上がる。
足が、鉛のように重い。
三日間、彷徨い続けた身体と心は、とうに限界を超えていた。
それでも——誰一人、足を止めなかった。
イングリッドが遅れかけたヴェラの背にそっと手を添えて押す。
ゴードンが最後尾から絶えず皆の足取りを気にかけている。
誰かがよろめけば、すぐに別の誰かがその腕を掴んだ。
バラバラではなかった。
五人で一つの塊のようにこの薄闇の迷宮を進んでいく。
そして——。
見覚えのある、あの、青みがかった頼りない光をたたえた壁が、行く手に見えてきた。
三日前、自分たちが一番最初に目を覚ました、あの部屋。
すべてが始まった場所。
その最初の部屋の入り口に、自分たちは戻ってきた。
肩で息をしながら、自分は部屋の中央へと目を向ける。
あのとき五人が投げ出されていた床へ。
そこには——確かにうっすらと円い溝が刻まれていた。
三日前は、ただの古い石の彫りにしか見えなかった、その溝。
だが、今の自分の目には、それがまるで違うものに見えた。
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