第31話 儀式
「五人の祈りが、この青い光の間に静かに満ちていく」
—— 供物の儀式
三つの石台が、青い光の中で静かに自分たちを見つめていた。
初めてここへ来たとき、何を載せるものか分からなかった台。
だが、今なら分かる。
これは、供物を据えるための台だ。
女神の像を。
水を満たした盃を。
そして、鏡を。
石碑が示したその順のとおりに。
自分は、収納バッグから供物を、一つずつ取り出していった。
鏡、盃、泉の水で満たされている水筒、そして、女神の像。
三日間で集めてきた品々を、みんなに手渡した。
もう一度、石碑を確認する。
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【鑑定】文字の刻まれた石碑
種別:石碑。無数の記号が刻まれている。
記号:この儀式に関わるものは、すべて読み取れる。
要点:三つの供物を、順に供え、祈るための手順。
一、右に光を映す鏡を。自らを映しながら、捧げる。
二、左に盃を。清らかな水を満たして、捧げる。
三、中央の女神の像に、祈りを捧げる。
備考:鏡は、この部屋にはない。別の一室に納められている。
備考:盃は、この部屋にはない。別の一室に納められている。
備考:盃に注ぐ水は、この部屋にはない。泉の水で満たすこと。
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「……手順は確認できている」
自分は、皆に、というより、自分自身に言い聞かせるように言った。
「まず、右の台に、鏡に自分を映して、捧げる。次に、左の台に、盃に泉の水を満たして、捧げる。……最後に、女神の像を、中央に据え、祈る。……その、とおりに」
「ああ」
イングリッドが短く応えた。
その声には緊張が滲んでいる。
やり直す時間は、ない。
残された時間も、もう、ほとんどない。
三日間の緊張のすべてが、身体の芯に澱のように溜まっている。
だが、ここでしくじるわけにはいかない。
この一連の所作に、自分たちのすべてが懸かっている。
イングリッドが、大きく息を吸い、そして、ゆっくりと吐いた。
青い光が静かにその手元を照らしている。
——まずは、鏡。
イングリッドがあの円い鏡を布から取り出した。
磨かれた金属の面が青い光を受けて鈍く輝く。
この三日間、幾度も皆を鼓舞し引っ張り続けてきたその手が、いつになく慎重だった。
イングリッドは右の石台の上に、その鏡を立てかけるように据えた。
自分たちの姿がちょうど映り込むように。
——次は、盃。
ゴードンが空の盃を左の石台の真ん中に据えた。
残りの食料を幾度も数えては皆に厳しい現実を突きつけてきたその太い手が、まるで割れ物を扱うように優しかった。
「……ヴェラ。頼む」
ゴードンが短く伝える。
ヴェラが水筒の栓を開け、泉の水を盃へとそっと注いでいく。
とくとくと。
澄んだ水が古い盃を満たしていく。
青い光を受けて、盃の中の水面が静かに揺れながら光った。
注ぎ終えたヴェラが、ふと、その水面を見つめ小さく眉を寄せた。
あの泉の時のように、何かを感じ取ったようだった。
——最後に、女神の像。
アッシュがあの古い石の像を、両手で恭しく持ち上げた。
初日、隠し部屋で何の像かも分からず拾った風化した石像。
価値があるかどうかも分からん、と、誰もが半ば持て余していた、あの石像を、アッシュはひどく真剣な顔で両手で掲げている。
軽口を叩くいつものアッシュはそこにはいなかった。
この石像が女神の像だと、今は誰もが信じていた。
アッシュはその像を中央の石台の上へと静かに据えた。
こつり、と。
石像が石の台に収まる。
まるで初めからそこにあったかのように、ぴたりと。
長い、長い旅の果てに。
この像は、ようやくあるべき場所へと還ったのだ。
その瞬間、鏡に映った自分の顔が目に入った。
三日間、このどことも分からぬ場所を彷徨い続けた自分の顔。
やつれ、汚れ、けれど、その目だけは、まだ、諦めていなかった。
鏡の中の自分と目が合う。
「……ここまで、来た」
自分はその鏡に映る自分に、そして皆に静かに語りかけた。
「拾って、鑑定して、記号を読んで、地図を作って。……崩落を越えて、扉を開けて、絶望して、また立ち上がって。……そうやって、ここまで、来た。……あとは、祈るだけだ」
自分は、女神の像に目を戻した。
そして、静かに目を閉じ、頭を垂れた。
——どうか。
どうか、ここから、出させてほしい。
この、五人で。
全員で、あの外の光の下へ、帰らせてほしい。
言葉にはしなかった。
ただ、心の底から、そう、願った。
隣で、ヴェラが、ゴードンが、アッシュが、イングリッドが、同じように頭を垂れているのが、気配で分かった。
いつもは軽口ばかりのアッシュも。
厳しい現実を幾度も突きつけてきたゴードンも。
皆を引っ張り続けてきたイングリッドも。
そして、どんな絶望の底でも前を向こうとしてきたヴェラも。
この三日間、何度も心を折られかけた。
それでも誰一人、本当には諦めなかった。
その五人が、今、一つの祈りを捧げている。
五人の祈りが、この青い光の間に静かに満ちていく。
——そのときだった。
「……ライル」
ヴェラの声が、震えていた。
「地脈が……動いてる。……ものすごい勢いで、この部屋に、流れ込んでくる……!」
その言葉と同時だった。
ゴゴ、と。
足の裏から低い震動が這い上がってきた。
部屋を満たす青い光が脈打つように明滅する。
まるでこの施設そのものが深い眠りから目を覚ましたかのように。
そして——。
目の前のあの石碑が。
——動いた。
ずずず、と、重い音を立てて。
人の背丈を超える石の板が、ひとりでに、ゆっくりと前へとせり出してくる。
誰もそれに触れてなどいない。
なのに、石碑は自らの意思を持ったかのように、静かにその場所を明け渡していった。
「……嘘、だろ」
アッシュが、呆然とつぶやいた。
石碑が、退いたその後ろから——それが、姿を現した。
門だった。
古く荘厳な石の門。
この二日間、自分たちが何度も行き止まりだと思って引き返してきた、その突き当たり。
その石碑の向こうに、ずっと隠されていた門。
石碑は、この門を塞ぐように立っていたのだ。
行き止まりなんかじゃなかった。
ここは、初めから——扉だったのだ。
初めて、この石碑を前にしたとき。
何一つ読めないと絶望したあのとき。
自分たちは、これをただの行く手を阻む壁だと思い込んでいた。
だが違った。
この石碑は壁ではなくこの門を開くための"問い"そのものだったのだ。
その問いに、三日をかけて、自分たちは答えてみせた。
だが——その達成感の裏で、別の思いが誰の胸にも忍び寄っていた。
現れたこの古い門。
その向こうに何が待っているのか。
ヴェラがごくりと喉を鳴らした。
どんな行き止まりでも真っ先に前を向いてきた娘が。
この門の前ではさすがに怯みを見せている。
「……なんか、やば、そう。……この、向こう」
その声は少し震えていた。
「ここまで来て、そりゃないぜ、と言いたいところだがな」
アッシュが肩をすくめた。
軽口を装ってはいたが、その目は少しも笑っていない。
イングリッドは何も言わなかった。
ただ、まっすぐに、その門を見据えている。
「……行くしか、ないな」
ゴードンが覚悟を決めた声で言った。
「ここまで来て、引き返す道は、ない。……食料も、時間も、尽きかけてる。……あの奥に、何があろうと、それが、おれたちの、進む道だ」
イングリッドが続いた。
「……ああ」
ヴェラがぎゅっと拳を握りしめた。
「……うん。行こう。……ウチたち、ここまで、諦めなかったんだもん。今さら、引き返すなんて、できないよ」
アッシュがにっと笑う。
「そうこなくっちゃ、な」
もう、誰の目にも迷いはなかった。
いや——迷っている余裕など、とうになかった。
「進もう」
自分は、静かに告げた。
イングリッドが石の門に手をかざすと、ゴォ、と、地鳴りのような音を残して、内側へとゆっくりと開いていった。
門の奥からは、これまでとは違う、深く、冷たい闇が、静かにこちらを覗いていた。
通路の薄暗がりとも違う闇だった。
もっと濃く、もっと深い。
何百年ものあいだ、誰にも開かれることなく、閉ざされ続けてきた——そんな、時の重みを湛えた闇。
その奥から、ひやりとした空気が音もなく流れ出してくる。
だが。
この奥にきっと出口への答えがある。
ただ、それだけを信じて、前に進む。
青い光の間を、後にして。
その、深い闇の奥へと。
——一歩を、踏み出す。
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