第30話 最後の供物
泉への道は地図に書かれている。
昨日の夜、自分たちはあの泉のほとりで野営した。
出口が見つからず、力なく俯いて少ない食料を分け合ったあの夜。
今朝、そこを発って石碑の広間を目指した。
その道を——今度は逆にたどっていく。
「……変な感じだね」
歩きながらヴェラがぽつりと言った。
「昨日の夜、あの泉でウチたちもう駄目かもって、泣きそうになってたのに。……今はあの泉に水を汲みに戻ってる」
「ああ」
自分も同じことを思っていた。
「あのときは、あの泉がただの行き止まりに見えた。……出口のない、絶望の場所に。……でも、違った。あそこは行き止まりなんかじゃ、なかったんだ」
石碑がはっきりと告げていた。
あの泉の水は供物だと。
自分たちが出口を求めてたどり着いて、そして絶望したあの場所。
その泉の水こそが必要なものだった。
絶望した、まさにその場所に、答えの一つがずっと湧いていたのだ。
思えばこの迷宮はずっとそうだった。
行き止まりだと思った石碑が、道を示してくれた。
行き止まりだと思った泉の水が、供物だった。
諦めかけたもの。
絶望を感じたもの。
その一つひとつが、めぐりめぐって、今、自分たちを導こうとしている。
やがて——通路の先が、開けた。
あの地の底の泉が変わらずそこにあった。
岩肌に囲まれた窪地に、澄んだ水が音もなく満ちている。
水面は鏡のように静かだった。
そしてその水の底からは、あの淡い光が今も柔らかく滲んでいる。
昨日、この光を自分たちは恨めしく見つめた。
こんなに美しいのになんの役にも立たない、と。
だが今は。
「……綺麗だね」
ヴェラが、静かに言った。
その声には、昨日の絶望の色は、もう、どこにもなかった。
「うん。……ほんとに、綺麗だ」
自分は、うなずいた。
同じ泉。
同じ光。
なのに、昨日とも、今朝とも、まるで違って見えた。
昨日、この泉を前に誰もが力なく俯いていた。
もう、ここまでか、と。
だが今、その同じ水面を、皆が、まっすぐに見つめている。
あのアッシュでさえ、軽口を叩かず、ただ静かに。
この泉は、何も変わっていない。
変わったのは、自分たちのほうだ。
「感傷に浸るのは、後だ」
ゴードンが、低く、けれど穏やかに言った。
「時間は、ない。……さっさと、水を汲もう」
その通りだった。
収納バッグから水筒を取り出した。
空の水筒。
この三日間で飲み干したもの。
その中に泉の水を汲み入れる。
自分は泉の縁にそっと膝をついた。
澄んだ水面へと、静かに沈めていく。
とぷり、と。
水筒が水を受け止める。
冷たく澄んだ水が水筒の中へと満ちていく。
誰も、口をきかなかった。
パーティーの全員が、その様子をじっと見守っている。
ただの水だ。
昨日、鑑定したときも、返ってきたのは「清らかな水」の一言だけだった。
だが今は、この一杯が、途方もなく尊いものに思えた。
これが、自分たちを、この暗闇から連れ出してくれる。
——満ちた。
こぼさないよう、ゆっくりと水筒を引き上げた。
なみなみと水を湛えた水筒は、ずしりと重い。
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【鑑定】泉の水で満たされている水筒
種別:皮でできた水筒。三日の旅で、使い込まれている。
状態:飲み干して空になっていた器が、今は、なみなみと満ちている。
内容物:泉の清らかな水。澄んで、汚れがない。供物として、儀式に用いるための水。
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「……これで」
自分はその水筒を、両手で捧げ持ったまま皆を見た。
「揃った。女神の像。……盃と、それを満たすための泉の水。……そして、鏡。……石碑の言っていた、供物が、ぜんぶ」
「……揃った、か」
イングリッドが深く息を吐いた。
その顔には確かな手応えが滲んでいる。
「長かったな。……この訳の分からない場所に飛ばされて、三日。ようやく、ここまで、来た」
「そうだな。でも、まだだ」
アッシュがそう言うが、けれどその口の端のにやけた笑みは隠せていなかった。
「揃えただけじゃ、意味がない。……あの石碑の前で、儀式ってやつを、やってみせて。……その先に行く。そこまで、行って、初めて、"やった"だ」
「ああ、分かってる」
イングリッドも笑顔でうなずく。
周りを見渡すと、ゴードンも、ヴェラも笑顔を隠せていなかった。
自分は水筒を収納バッグにしまった。
この収納バッグの中には、女神の像と、盃と、鏡と、そして泉の水がある。
その実感が、確かな希望として胸に響いていた。
その希望を深く噛み締めていると、ふと、ヴェラが泉の水面に目を凝らしているのに気づいた。
さっきの笑顔が嘘のように、その表情がわずかに曇っていた。
「……ヴェラ?」
「……ううん」
ヴェラは小さく首を振った。
「この泉……やっぱり、なんだか、変な感じがするの」
ヴェラは水面を見つめたまま眉をひそめた。
「地脈の流れが……ここに、集まってきてるみたいなの。あちこちの流れが、ぜんぶ、この一点に、吸い寄せられてる、みたいな」
昨日の夜にも、ヴェラは同じことを口にしていた。
あのときは絶望のただ中で、誰もその言葉に耳を傾ける余裕がなかった。
だが今は違う。
「また、気になるのか」
自分は少しだけ引っかかりを覚えて問い返した。
「うん。……ウチ、地脈の流れは、なんとなく、肌で感じ取れるの。土地を、血みたいに巡ってる、あの大きな流れ。……でも、この泉のは、なんだか、それと、違うの」
ヴェラは言葉を探すようにそっと自分の胸のあたりに手を当てた。
「自然に流れてる、って感じじゃない。……なんていうか、誰かが、わざと、ここに、集めてるみたいな。……作られた流れ。意図的な、流れ。それが、ずっと、引っかかってて」
「意図的、か」
自分はあらためて泉の水面へと目を落とした。
供物の水が湧く特別な場所だ。
人の手による何かの仕掛けがあっても、おかしくはない。
この施設そのものがそうであるように。
だが、それが何を意味するのかは——ヴェラにも自分にも分からなかった。
「……今は、確かめてる時間は、ない」
自分は静かに言った。
「でも、覚えておこう。……この泉が、ただの泉じゃないってことは。……ヴェラ、その感覚、忘れないでいてくれ。いつか、それが、意味を持つかもしれない」
「……うん。分かった」
ヴェラはこくりとうなずいた。
水面は変わらず鏡のように静かで、その水の底からはあの淡い光が、今も柔らかく滲んでいた。
「……行こう」
イングリッドが告げる。
「石碑の間へ、戻る。……あそこで、儀式を行う。それで、ぜんぶ、終わる」
自分たちは泉に背を向け、再び来た道を戻り始めた。
薄暗い通路を、一歩、また一歩と進んでいく。
その足取りには迷いはない。
やがて——通路の先に、あの青みがかった光が見えてきた。
石碑の広間。
三つの空の石台が、静かに、自分たちを待っている、あの場所。
傷ひとつなく、荘厳な光に満ちた、祈りの間。
自分たちはその青い光の中へと足を踏み入れた。
広間の奥に、あの三つの石台が、静かに並んでいた。
初めてここへ来たとき、何を載せるためのものか分からなかった台。
その、空っぽの三つが、今、供物を待っている。
ここに、女神の像を。
水を満たした、盃を。
そして、鏡を。
石碑の示すとおりに。
「……戻ったな」
イングリッドが、石碑を見上げて、静かに言った。
「あとは、やるだけだ。……石碑に書かれている通りに」
鏡と泉とで、かなりの時間を使ってしまった。
そこに後悔は一切ない。
しかし、そのせいで残された時間は、ほとんどない。
だが、そのおかげで必要なものはすべて揃った。
この暗闇で積み上げてきたすべてを、今、この一場に注ぎ込む。
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