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第九話 侯爵家の空白

エレノアが去って五日目、ヴァルト侯爵家の厨房では、朝食の順番が崩れていた。


 アルベルトは長卓の上に置かれた冷めた卵料理を見下ろし、不機嫌に眉を寄せた。


「なぜ遅い」


 執事のローレンは、銀盆を持ったまま深く頭を下げた。


「奥様が作成されていた週ごとの献立表がございませんので、厨房が確認に時間を要しております」


「献立程度、料理長が決めればよい」


「料理長は、リネリア様の療養食と侯爵閣下の会食予定を奥様の表で把握しておりました。食材の発注も、奥様の帳面に基づいておりましたので」


 アルベルトは舌打ちをした。


 エレノアはいつも静かに帳面をつけていた。針仕事、薬草の管理、客人の名簿、子ども部屋の保護術、使用人の休暇。そういうものは家の女が当然する雑務だと思っていた。


 だが、彼女がいなくなった途端、雑務はひとつずつ穴になった。


 朝の薬箱が開かない。


 古い来客名簿の封が外れない。


 リネリアの子ども部屋にかかっていた柔らかな保護術が消え、窓際の花瓶が一晩で凍った。


 セシリアは体調が悪いと客間にこもり、ミーナは母のそばから離れない。屋敷は人がいるのに、どこか使われていない建物のように冷えていた。


「奥様をお戻しになられた方がよろしいかと」


 ローレンが慎重に言った。


「私もそう命じた」


「命令では、戻られないのでは」


 アルベルトは執事を睨んだ。


「お前まで私に意見するのか」


「屋敷の運営について申し上げております。奥様は、名綴りと家政の両方を担っておられました。代わりを雇うなら、複数人が必要です」


 複数人。


 その言葉が不愉快だった。エレノア一人がやっていたことを、複数人で代わらなければならないという事実を認めたくなかった。


 アルベルトにとって、エレノアは扱いやすい妻だった。


 政略結婚で迎えたとき、彼女は控えめで、派手な要求もせず、屋敷の仕事を淡々と覚えた。愛していると囁いたことはないが、生活に困らせたこともない。娘のことは彼女に任せておけばよかった。


 それなのに、彼女は突然、離縁などと言い出した。


 リネリアの名前を譲る話が、そこまで重大なことだとは思わなかった。


 セシリアの娘を侯爵家へ迎えるなら、ふさわしい名が必要だった。ミーナという田舎めいた名前では社交界で軽んじられる。リネリアは病弱で、どうせ表には出られない。ならば名を移しても家のためになる。


 合理的な判断のはずだった。


 だが名簿官は難色を示し、エレノアは娘を連れて出て行き、屋敷はこの有様だ。


 朝食の席に、セシリアが現れた。


 薄い肩掛けを羽織り、顔色は悪い。だがその後ろに立つミーナは、昨夜よりさらに目の下に影を作っていた。


「アルベルト様。ミーナが、靴下の刺繍をほどきたくないと言うのです」


 セシリアの声には困惑がにじんでいた。


「ほどかなくてよい。今は名の移譲は保留だ」


「でも、侯爵家の令嬢になるなら、準備が必要なのでしょう?」


「エレノアが戻れば進められる」


 ミーナが小さく震えた。


 アルベルトはそれに気づいたが、どう声をかければよいか分からなかった。リネリアも、こんなふうに震えたことがあったのだろうか。そう考えかけて、すぐに頭から追い払う。


 今は感傷に浸る時ではない。


「セシリア、君は心配しなくていい。私がどうにかする」


 その言葉に、セシリアはいつものように微笑まなかった。


「エレノア様は、戻らないと思います」


「戻る。妻なのだから」


「でも、あの方は娘を守ると言いました。わたし……昨日、ミーナの靴下を見て、少し分かりました。名前だけのことではないのかもしれません」


 アルベルトは苛立った。


「君までエレノアの肩を持つのか」


「そうではありません。ただ、ミーナが泣いたので」


 セシリアは娘の頭に手を置いた。ミーナは母のスカートを握りしめている。


 その姿は、エレノアの後ろに隠れたリネリアと似ていた。


 アルベルトは急に食欲を失った。


 昼、法務局から書面が届いた。


 エレノア・ヴァルト侯爵夫人は、北境保護院付き名綴り師としてグランヴィル辺境伯領へ移る。居所は届け出済み。リネリアの洗礼名は一時保護。接触は法務官を通すこと。


 アルベルトは文面を読み、封書を握りつぶした。


「グランヴィルだと?」


 辺境伯テオドール・グランヴィル。


 社交界には滅多に出ず、王都の派閥にも属さない男だ。領地経営の評判は良いが、戦災孤児や流民の保護に金を使いすぎる変わり者として知られている。


 エレノアがその男の保護下へ入った。


 その事実が、アルベルトの胸に不愉快な重さを残した。


 妻が他の男を頼ったことが腹立たしいのか。


 それとも、自分が頼られなかったことが不愉快なのか。


 彼はまだ、その違いを考えることができなかった。


 夕方、リネリアの部屋だった場所を見に行った。


 小さな机には、石板の粉が残っている。棚には、持っていかれなかった古い絵本が二冊。窓辺には、エレノアが縫いかけていた薄い布が落ちていた。


 アルベルトはそれを拾った。


 布には、途中まで名前が縫われていた。


 リネ。


 続きはない。


 なぜか、その未完成の文字が目に刺さった。


 彼は布を握り、誰もいない部屋でつぶやいた。


「リネリア」


 返事はなかった。


 その沈黙を聞いて初めて、アルベルトは自分が娘の声をほとんど覚えていないことに気づいた。

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