表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/69

第十話 ミーナという名前

ミーナは、侯爵家の廊下が嫌いになっていた。


 長くて、広くて、足音が大きく響く。母は「立派なお屋敷でしょう」と言ったが、ミーナには誰かに見張られているように感じられた。壁の絵の中の人たちも、階段の上の騎士の像も、みんな知らない名前を持っていそうで怖い。


 ローウェル男爵家の家は小さかった。


 祖母の家はもっと小さく、台所にはいつも煮込みの匂いがした。祖母はミーナの靴下に名前を縫うとき、よく歌っていた。ミーナ、ミーナ、うちの光。少し古い歌で、母は田舎くさいと笑ったけれど、ミーナは好きだった。


 侯爵様は、その名前を弱いと言った。


 侯爵家の令嬢には、もっと良い名前が必要だと。


 ミーナは良い名前が何なのか分からない。リネリアという名前はきれいだと思う。あの小さな女の子に似合っていた。だからこそ、それを自分がもらうのはおかしいと思った。


 母は最近、よく泣いている。


 病気だからではない。侯爵様が母に優しくするたび、母は安心した顔をする。けれど侯爵様がエレノア様の話をすると、母の肩が固くなる。


 ミーナは子どもだけれど、分かることもある。


 大人は、欲しいものをきれいな言葉で包む。


 母は幸せになりたいのだ。父が死んでから、母はいつも不安そうだった。お金の心配、親戚の心配、社交界で忘れられる心配。侯爵様は母の昔の友人で、母にとっては暖かい部屋のような人なのだろう。


 でもミーナにとって、侯爵様は少し怖い。


 リネリア様が泣きそうだったのに、侯爵様は気づかなかった。


 自分の名前を取られそうで怖い、と言えば、侯爵様は同じように気づかないのではないか。


 夜、母が眠ったあと、ミーナは靴下を抱いて部屋を出た。


 廊下には誰もいない。燭台の火が揺れている。ミーナはなるべく足音を立てずに、リネリア様の部屋だった場所へ向かった。


 扉は少し開いていた。


 中には、侯爵様がいた。


 ミーナは息を止めた。


 侯爵様は小さな布を持って立っていた。怒っているようでも、泣いているようでもない。ただ、とても困った顔をしている。


「リネリア」


 侯爵様がつぶやいた。


 返事はない。


 ミーナは思わず、自分の靴下を強く抱いた。


 名前を呼んでも返事がない部屋は、こんなに寒い。


 そのとき、侯爵様がこちらに気づいた。


「ミーナ。なぜここにいる」


 怒られると思った。けれど声は意外に静かだった。


「……ごめんなさい」


「セシリアは?」


「眠っています」


「一人で廊下を歩くな」


 ミーナはうつむいた。


 手の中の靴下を見られたくなかったが、侯爵様の視線はそこへ落ちた。


「それは何だ」


「靴下です」


「なぜ持っている」


 ミーナは答えられなかった。


 侯爵様はしばらく黙っていたが、やがて少し膝を折った。目線が近くなって、ミーナは驚いた。


「名前をほどかれたくないのか」


 声が出なかった。


 それでも、うなずいた。


 侯爵様は靴下を見た。祖母の縫った少し歪んだミーナの文字。侯爵家の長女名のように美しくも、古くもない。けれどミーナにとっては、自分が生まれたときからある文字だった。


「なぜ、そう言わなかった」


 その問いに、ミーナは胸が苦しくなった。


「お母さまが、しあわせになるって言ったから」


 侯爵様の顔が変わった。


「ミーナ」


「でも、ミーナは、ミーナがいいです。リネリア様のおなまえ、きれいだけど、リネリア様のです」


 言ってしまうと涙が出た。


 廊下で泣いてはいけない。母に心配をかけてはいけない。侯爵様を困らせてはいけない。そう思ったのに、涙は止まらなかった。


 侯爵様はひどく不器用に、ハンカチを差し出した。


「泣くな」


 命令のような慰めだった。


 ミーナはハンカチを受け取らず、自分の袖で涙を拭いた。


「エレノア様が、ミーナのなまえもかわいいって言いました」


「……そうか」


「侯爵様は、リネリア様に、そう言いましたか」


 ミーナは言ってから、怖くなった。子どもが大人にこんなことを聞いてはいけないのかもしれない。


 けれど侯爵様は怒らなかった。


 彼は手の中の布を見た。


「覚えていない」


 小さな声だった。


 ミーナはその答えが、怒鳴られるより悲しいと思った。


 翌朝、ミーナは母に言った。


「お母さま。ミーナは、ミーナのままでいたいです」


 セシリアは最初、困った顔をした。


 それから、靴下の刺繍を見て、唇を噛んだ。


「そうね」


 母はミーナを抱きしめた。


「ごめんなさい。お母さま、少し間違えたわ」


 ミーナは母の肩に顔を埋めた。


 母が間違えたと言うのを、初めて聞いた。


 その日の午後、セシリアはエレノアへ二通目の手紙を書いた。


 侯爵家の上質な便箋ではなく、自分の鞄に残っていた薄い紙で。


 そこには、こう書かれていた。


 ミーナは、ミーナのままでいたいそうです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
聖女の扱い?役割?意味?は何なんでしょう 名前がとても重要な世界で聖女がその意味を知らず、他の良識ある大人は意味を知っている、そして幼い娘の名前まで変えようとしたり他の幼い娘の名前を奪う事に同意してい…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ