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第二十一話 黒いインクの証拠

ダリウスは一瞬だけ黙った。


 それはほんの短い沈黙だったが、彼が初めて予定外の事態に直面したことを示すには十分だった。


「グランヴィル卿。本日の審査はリネリア嬢の一時保護に関するものです。北境の件を持ち出すのは場違いでしょう」


「場違いではありません」


 テオドール様の声は静かだった。


「リネリア様の名を家の都合で移すことと、保護院の子どもの名を商会の都合で固定することは、根が同じです。本人の安全より、家や組織の都合を上に置く。中央局がその思想を制度として持つなら、この審査の公平性にも関わります」


 ダリウスの隣の審査官が、提出された資料に目を通し始めた。


 黒インクの写し、拘束紐、東市場の店主の証言、カール名簿官の金銭記録。すべてがダリウスへ直結するわけではない。けれど彼の過去の提案書と術式が一致するとなれば、無視はできない。


 ダリウスは表情を整えた。


「古い提案が悪用されたとしても、私の責任ではありません」


「悪用されたと認めるのですか」


「仮定の話です」


 イザベルが口を開いた。


「本件は、リネリア様の一時保護継続だけでなく、中央局担当者の利益相反を含みます。審査官の交代を求めます」


 ダリウスの顔が険しくなった。


「法務官風情が、中央局の人事に口を出すのですか」


「子どもの名の保護に関わる審査で、担当者自身の術式が違法拘束印に使われている疑いがある。交代請求は妥当です」


 白い部屋の空気がさらに張り詰める。


 アルベルトは状況についていけないようだった。彼にとっては、妻と娘を家へ戻すための審査だったはずだ。それがいつの間にか、中央局の不正疑惑に変わっている。


「待て。私はそんな話は知らない」


 アルベルトが言った。


「私はリネリアの件を相談しただけだ。黒インクなど」


 ダリウスが彼を鋭く見た。


「侯爵、余計な発言は控えてください」


 その一言で、アルベルトの顔色が変わった。


 命じられることに慣れていない貴族が、初めて自分が駒として扱われていることに気づいた顔だった。


 私はその様子を見ながら、胸の内で冷静に線を引いた。


 アルベルトは娘の名前を奪おうとした。その責任は消えない。けれど、黒インクの組織全体を動かしている者ではない可能性が高い。彼は家の都合で制度を利用しようとし、その制度の背後にある悪意を知らなかった。


 知らなかったから許されるわけではない。


 ただ、敵の形を見誤ってはいけない。


 その時、審査室の扉が開いた。


 入ってきたのは、中央名簿局長だった。白髪の女性で、年齢は六十を超えているだろう。杖を突いているが、背筋はまっすぐだ。


「騒がしい審査ですね」


 ダリウスが立ち上がる。


「局長。これは手続き上の」


「手続き上の問題なら、私が聞きます。ダリウス副局長、本件の審査担当を一時停止します」


 部屋の空気が揺れた。


 ダリウスは顔をこわばらせた。


「局長、これは越権です」


「中央局長である私が、中央局の審査を監督することが越権なら、誰が監督するのです」


 局長は淡々と言い、提出資料を手に取った。


「黒インクの件は、別途調査します。リネリア嬢の一時保護については、本日結論を出す必要があります。審査官二名と私で判断します」


 私は息を止めた。


 局長は資料を読み、医師の証明書、名簿官の記録、セシリアの証言、面会記録を順に確認した。


 長い沈黙のあと、彼女は口を開いた。


「結論。リネリア嬢の洗礼名一時保護は継続。父であるヴァルト侯爵による名の移譲請求は、娘本人の福祉と健康上の危険を軽視したものとして、当面棄却します。今後、名の移譲または改名に関する申請は、医師、名綴り親、子どもの代理人の同意を必須とします」


 胸の奥から、ようやく息が出た。


 リネリアの名前は守られた。


 少なくとも今は。


 局長はアルベルトを見た。


「ヴァルト侯爵。父親として娘に会いたいなら、まず娘の名を尊重しなさい。家名は子どもを守るためにある。子どもを家名のために削るものではありません」


 アルベルトは何も言えなかった。


 次に局長は私を見た。


「エレノア夫人。あなたの名綴り師としての報告は重要です。黒インクの件で、後日正式な証言を求めます」


「承知しました」


「グランヴィル卿。北境の資料は中央局で預かります。ただし写しを必ず残しなさい。証拠は一か所に置かない方がよい」


 テオドール様がうなずく。


「すでに三部作成しています」


 局長は少しだけ口元を緩めた。


「よろしい」


 審査は終わった。


 廊下へ出ると、セシリアが待っていた。彼女は私の顔を見るなり、結果を察したようだった。


「守れたのですね」


「はい」


 セシリアは目を閉じ、深く息を吐いた。


「よかった」


 その言葉に嘘はなかった。


 アルベルトは少し遅れて出てきた。彼は私を見ると、何か言おうとした。


「エレノア」


「リネリアへの手紙は、法務官を通してください」


 私はそれだけ言った。


 彼の顔に痛みのようなものが走ったが、私は立ち止まらなかった。


 今、私が向かうべきなのは、夫の後悔ではない。


 三つの杯亭に戻り、リネリアへ手紙を書くことだった。


 あなたの名前は守られました。


 そう書けることが、何より大切だった。

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