表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/69

第二十二話 リネリアへの手紙

審査が終わった夜、私は三つの杯亭の机で手紙を書いた。


 リネリアへ。


 お母さまは、今日、名簿局へ行きました。リネリアの名前は守られました。誰かが勝手に別の子へ移すことはできません。リネリアがリネリアでいられるように、たくさんの人が力を貸してくれました。


 ここまで書いて、私は筆を止めた。


 たくさんの人。


 イザベル、テオドール様、セシリア、ミーナ、マリベル、アンナ、三つの杯亭の店主。リネリアの名を守るために、私だけではなく多くの人が関わった。


 屋敷を出たとき、私は娘の名前を自分一人で抱え込むつもりだった。夫から守るには、私が強くならなければならないと思っていた。


 けれど本当に名前を守るには、呼んでくれる人を増やす必要があるのだ。


 私は続きを書いた。


 リネリアが待っていてくれたから、お母さまはがんばれました。明後日には北境へ戻ります。帰ったら、手袋のうさぎを見せてください。お母さまも、リネリアに見せたいものがあります。


 見せたいものとは、中央名簿局の保護継続証だった。


 子どもに証書の意味は難しいかもしれない。でも、リネリアの名前が紙に正式に守られていることを、娘自身に見せたかった。


 手紙を封じる前に、テオドール様が部屋を訪ねてきた。


「少しよろしいですか」


「はい」


 彼は一枚の書面を持っていた。


「黒インクの調査について、中央局長から正式な協力要請が出ました。私は王都に二日残ります。あなたは先に北境へ戻ってください」


「私も証言が必要では」


「正式な証言は後日で足ります。リネリア様が待っています」


 私は反論しかけて、彼の顔を見た。


 テオドール様は疲れていた。ここ数日、彼もほとんど休んでいない。けれどその目は揺れていなかった。


「あなたは、いつも娘を優先するよう言ってくれますね」


「私が言わなくても、あなたはそうするでしょう。ただ、責任感で自分を後回しにしすぎることがある」


 思わず苦笑した。


「それを領主であるあなたに言われるとは」


「私もマリベルに同じことを言われます」


 彼は少し肩をすくめた。


 その仕草が領主らしくなくて、私は少し笑った。


 沈黙が落ちた。


 以前なら、こういう沈黙をすぐ仕事の話で埋めていただろう。けれど今は、疲れた夜に誰かが静かにそばにいることが、悪くなかった。


「エレノア様」


「はい」


「今回の審査で、あなたはリネリア様の名を守りました。同時に、北境の子どもたちの件も中央へ押し上げた。感謝しています」


「私は自分の娘のために動いただけです」


「自分の娘を守る人が、他の子どものことも見捨てなかった。それは簡単なことではありません」


 彼の言葉に、胸の奥が温かくなる。


 褒められることに慣れていないのだと、今さら気づいた。侯爵家では、できて当然。足りなければ叱責。感謝されるとしても、家の体面のため。


 名綴り師として、母として、私自身の行動を認められることは少なかった。


「ありがとうございます」


 私は素直に言った。


 テオドール様は少しだけ目を細めた。


「北境へ戻ったら、少し休んでください」


「あなたも」


「努力します」


「マリベル院長に報告します」


「それは困る」


 私たちは小さく笑った。


 翌朝、私はセシリアとミーナに別れを告げた。


 ミーナは自分の名前を練習した紙を見せてくれた。ミーナ、と少し大きく書かれている。


「リネリア様に、お手紙を書いてもいいですか」


「リネリアが望めば」


「はい。お返事を待ちます」


 その言い方に、私は安心した。


 一方的に距離を詰めるのではなく、相手の返事を待つ。それは大人でも難しい配慮だ。


 セシリアは私に言った。


「わたしは、しばらく王都で働き口を探します。刺繍なら少しできます。ミーナの祖母が教えてくれました」


「名綴りではなく、装飾刺繍ですか」


「はい。田舎風ですけれど」


「田舎風は、温かい糸です」


 セシリアは少し泣きそうな顔で笑った。


「いつか、ミーナの名前を自分で縫い直せるようになりたいです」


「それなら、練習用の布を送ります」


「ありがとうございます」


 王都を出る馬車の中で、私はリネリアの手紙を何度も読み返した。


 リネは、まっています。


 その一文が、帰る場所の印になっている。


 北境へ戻る道は、行きよりも短く感じた。


 領都の門をくぐると、胸が軽くなった。門の文字が見える。


 帰る名を持つ者を迎える。


 保護院の中庭では、リネリアがアンナの手を握って待っていた。


 馬車が止まる前に、娘は走り出しそうになり、アンナに止められる。私は扉が開くのを待ちきれず、降りるなり膝をついた。


「リネリア」


「おかあさま!」


 娘が腕の中に飛び込んできた。


 温かい。


 少し重くなった気がする。


「ただいま」


「おかえり。リネ、まってた」


「ありがとう。あなたの名前、守れたわ」


 私は保護継続証を見せた。


 リネリアは難しい文字を読めない。それでも、自分の名前が書かれていることは分かった。


 指でなぞる。


「リネリア」


「ええ」


 娘は証書を胸に抱いた。


「おかあさま、すごい」


「リネリアが待っていてくれたからよ」


 その夜、リネリアは私の隣で眠った。


 手をつなぎながら、何度も「おかえり」と言った。


 私はそのたびに「ただいま」と返した。


 名前を守ることは、帰る言葉を守ることでもあるのだと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
この世界危険過ぎますね 子供は迂闊に知らない人の前で名前を言えし、偽名も使えない 名前をしられたら奴隷や人身売買の危険や名前変更等による死亡の恐れすらある これ、大人になるまで家から出すのかわ危険過ぎ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ