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第十九話 王都への帰還

王都へ向かう馬車は、来たときよりも速かった。


 同行者はテオドール様、彼の補佐官、領兵二人、そして私。アンナはリネリアのそばに残った。最初は同行すると言い張ったが、リネリアが「アンナ、いて」と言うと、彼女は一瞬で残留を決めた。


 出発の朝、リネリアは泣かなかった。


 代わりに、小さな紙を私へ渡した。


 リネリア。


 まだ線は曲がっているが、全部自分で書いた名前だった。


「おかあさま、わすれないように」


「忘れるわけがないわ」


「でも、もってて」


 私はその紙を胸元の内ポケットに入れた。


 馬車の中で何度も、紙の存在を確かめた。娘を置いてきた罪悪感は消えない。けれど、あの紙は私を責めるものではなく、信じて待つための目印だった。


 テオドール様は向かいの席で資料を読んでいた。


 彼は旅の間、必要以上に話しかけてこなかった。沈黙を気まずさで埋めようとしない人だ。私はその静けさに助けられた。


 昼、街道沿いの宿で休むと、補佐官が王都の最新情報を持ってきた。


「ヴァルト侯爵はすでに中央名簿局へ出入りしています。セシリア様とミーナ様は侯爵家を出て、王都の小さな宿に滞在中とのこと」


「出たのですか」


 私は驚いた。


 セシリアがそこまで動くとは思っていなかった。


「ローウェル男爵家の親戚が引き取りを申し出たようですが、セシリア様は断っています。ミーナ様の名の保護登録を申請するため、名簿局へ行く準備をしているそうです」


 テオドール様が資料から目を上げた。


「彼女は証人になるかもしれない」


「巻き込むことになります」


「すでに当事者です。もちろん、無理強いはしません」


 私はうなずいた。


 王都に着いたのは、三日目の夕方だった。


 北境から戻ると、街の匂いが違って感じられた。香水、馬車の油、石畳に溜まった雨、焼き菓子の甘さ。以前はこれが当たり前だったのに、今は少し息苦しい。


 私たちは三つの杯亭に宿を取った。


 店主は私を見るなり、驚きながらも笑った。


「まあ、エレノア様。リネリア様は?」


「北境で待っています」


「それは寂しいでしょう。温かいお茶を出しますね」


 相変わらず、先に必要なものを出してくれる人だった。


 部屋に入ると、私はすぐ手紙を書いた。


 リネリアへ。


 王都に着きました。三つの杯亭の店主さんが、リネリアによろしくと言っていました。お母さまは元気です。今日は長い道を走ったので、早く眠ります。リネリアも温かくして眠ってください。あなたの名前は、胸のポケットにあります。


 書いているうちに、涙が出そうになった。


 でも泣くのは手紙を閉じたあとでいい。リネリアが読む紙には、不安ではなく約束を残したい。


 翌朝、イザベル法務官が宿へ来た。


「お久しぶりです。北境でかなり動かれたようですね」


「望んで騒ぎを起こしたわけではないのですが」


「そういう方ほど、騒ぎの中心に必要になります」


 イザベルは淡々と言い、中央名簿局の審査日程を示した。


「三日後です。ダリウス副局長は、リネリア様の一時保護について、父親の権利を不当に制限していると見るでしょう。対抗するには、名前の移譲が娘さん本人に危険を及ぼすこと、そして父親がその危険を軽視したことを示す必要があります」


「証拠はあります」


「ええ。ただし、相手は『実際には移譲されていない』と主張します。未遂だから問題ない、と」


 私は唇を結んだ。


 未遂。


 リネリアが震えたことも、夜中に自分がいるか確認することも、未遂という言葉で軽くされる。


 イザベルは私の表情を見て、少し声を柔らかくした。


「怒りは大切です。でも審査では、怒りを証拠の形にしてください」


「分かっています」


「もう一つ。セシリア様から連絡がありました。証言する意思があるそうです」


 やはり。


 私は息を吐いた。


「彼女に危険は?」


「あります。ヴァルト侯爵との関係、ローウェル家の親族、社交界の噂。ですが本人は、ミーナ様の名を守るために必要だと言っています」


 その日の午後、私はセシリアと会った。


 場所は三つの杯亭の小部屋。彼女はミーナを連れていなかった。娘は店主の娘と一緒に下で茶を飲んでいるらしい。


 セシリアは以前より痩せていたが、目は落ち着いていた。


「エレノア様。ミーナの名の保護登録が通りました」


「おめでとうございます」


「ありがとうございます。あの子は、自分でミーナと書く練習を始めました」


 彼女は少し笑った。


 その笑顔は、侯爵家で見た儚げな笑みよりずっと自然だった。


「証言のことですが、本当によろしいのですか」


「はい。アルベルト様がリネリア様の名を移そうとしたとき、わたしはそれを望んでいた側でした。だからこそ、あれがどれほど軽率だったか話します」


「社交界で悪く言われるかもしれません」


「もう言われています」


 セシリアは苦笑した。


「侯爵様を頼っておきながら逃げた女、だそうです。でも、ミーナが昨夜言ったのです。『お母さま、逃げたんじゃなくて、ミーナをつれて出たの』と」


 私は少し笑った。


「強いお嬢さんですね」


「ええ。わたしよりずっと」


 その言葉に卑下はなかった。


 母親が娘の強さを認める声だった。


 審査の前夜、私はリネリアからの手紙を受け取った。


 おかあさまへ。

 リネリアです。きょう、ノルとくろぱんをかきました。アンナがりんごをむきました。おかあさま、ねてください。リネは、まっています。


 文字の多くはアンナの代筆だが、最後のリネリアだけは娘の字だった。


 私は紙を胸に当てた。


 明日、中央名簿局へ行く。


 娘が待っている名前を、誰かの都合で崩させないために。

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