名前のない契約
駿が運び込んだ荷物は、驚くほど少なかった。
かつてのトップアイドルとしての華やかな衣装もアクセサリーもなく、ただの【一人の男】としての最低限の衣類と日用品だけ。
借りてきた猫のように、リビングのソファに浅く腰掛ける駿に、梨華は一枚の紙を突きつけた。
「ここで暮らす上でのルールです。……読んで」
そこには、梨華が徹夜で考えた《禁止事項》が並んでいた。
〇寝室は別々。お互いの部屋には許可なく入らない。
〇過度な会話や接触は禁止。
〇外では敬語禁止。近所では最低限の夫婦を演じる。
〇そして、最後の一行。
「……《お互いを、愛さないこと》?」
駿が、その項目を指でなぞりながら、掠れた声で読み上げた。
「当然です」
梨華は感情を殺して言い放った。
「あなたの顔を見るたび、私は事故の瞬間を思い出す。けれど、あなたには、私に尽くし、私の家族の欠片として、死ぬまでこの家で私の生活を支えてもらう。でも、そこに《愛情》が介在することは許しません。あなたが私を愛することも、私があなたを愛することも禁止です。私はあなたを家族として、あるいは償いの道具としてしか見ませんから。愛すこと、愛されることで許されようとしないで。……いいですね?」
梨華は感情を殺したまま、冷たく彼を見下ろした。
愛なんて生まれるはずがない。
そう信じていたいからこその、梨華の必死の防衛線だった。
駿は少しの間、伏せ目がちにその紙を見つめていた。
やがて、彼は震える手で胸元を抑え、深く、重い吐息を漏らした。
「……わかりました。約束します。僕は、あなたを愛しません。そして、あなたに愛されることも、一生自分に許さない。今の僕に、それ以外の居場所はありませんから」
その言葉は、まるで自分自身を永遠に冷たい檻の中に閉じ込めるための、鍵の音のように響いた。
お互いに愛することを禁じる。
それが、両親を失った梨華と、加害者となった駿が、この家で息をするための唯一の《免罪符》だった。




